事件
気だるい暑さに身を横たえる。
ここに連れてこられてもう幾日経つだろう。
常に傍にあった慕わしい気配がなくなり、遠いこんな地ではその気配をかすかに感じることすらできない。
このまま命が尽きるのを待つだけなのだろう。
そんな諦めの感情が頭をよぎる。
・・・その方が楽になれる。
そうすれば好奇の目に晒されることもなくなり、こんなところに自分を閉じ込めた奴らの鼻を明かすこともできる。
どこか、自嘲に似た感情に支配されたとき。
不意に風が吹いた。
そこにかすかに感じる懐かしい気配。
思わず横たえていた体を起こす。
けれど、暑さにくらんだ頭がぐわんと回って突っ伏す。
「大丈夫?」
その声にほっと息を吐き出す。
今度は慎重に頭を持ち上げた。
懐かしい気配の持ち主は、初めて会う人だった。
でも、向けられる優しい眼差しに、これで助かるのだと実感する。
「・・・暑さにやられているみてえだな」
もう一人、別の声が聞こえて、目線を向ける。
最初に声をかけてくれた人よりも少し大柄なその人物は、やっぱり懐かしい気配がした。
視線が合うと、少し目を細めて。
「少し待ってろよ」
言うと、手にした鍵を使って檻の扉を開けてくれた。
すぐに二人は入ってきて、大柄なほうが自分をそっと抱え上げてくれる。
「やっぱ、自力で飛ぶのは無理か」
その言葉に頭を上げるが、やはり視界が回って無理だった。
ぐったりと頭を落とすと、彼は苦笑して。
「安心しろ、俺が運んでやるから」
もちろん、不安はなかった。
彼らなら、必ずこの理不尽な扱いから助けてくれる。
それは、本能のようなもので確信していた。
返事の代わりに目を細めると、二人は小さくうなずいて。
音を立てないように慎重に外に出る。
外に出て、初めに感じたのはすがすがしい冷えた空気。
夜の街は寝静まっていて、遠くに微かな虫の音が聞こえるだけだ。
何ヶ月かぶりに、なんの覆いも囲いも無い自由な状態で外に出た。
深く息を吸う。
それだけで少し気だるさが晴れた気がした。
「・・・本当に一人で大丈夫?」
小柄なほうが自分を抱える男に声をかける。
「言っただろ、俺だけのほうが早い。それに間に合わねえときのことも考えると、お前は残ったほうがいい」
すでに二人で決めていたことなのだろう、しぶしぶという感じでうなずいて。
そうして、二人は音を立てずに街を出る。
少し街から離れてから、自分を抱えていた男が翼を出した。
真っ白な大きな翼。
「さて、いくか」
確認するように向けられる眼差しが、自分にとっては懐かしく、そして見慣れた赤で。
「気をつけて」
こちらは相変わらず黒い瞳のまま見上げる。
うなずいた男が翼を広げると、片翼だけでも男の身長以上の横幅になる。
羽ばたいて舞い上がる。
その大きさに反して、とても静かな飛翔。
あっという間に丸い月が輝く夜空の中に飛び出して。
「少し、急ぐぞ」
すぐに街が遠ざかる。
空から見ると、月の光に照らされた白い石造りの街はどこか故郷に似ていた。
けれど、まったく違うことは肌身に染みている。
本当の自分の故郷。
年の半分を真っ白な雪が覆い尽くす場所。
決して生き易い場所ではない。
それでも、やはり自分はそこでしか生きられないのだ。
今はただ、懐かしいあの場所に帰れる喜びに胸が震えた。
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約束の時間通りに、サーシャは宿屋に向かう。
サーシャの自宅とルカたちが宿にしている宿屋はそんなに離れていない。
もともと旅人を相手にする宿屋は大通りに面していて、サーシャの家はその大通りから少し奥の通りの、民家の立ち並ぶあたりだ。
このあたりは大通りに割と近いこともあって、治安が良い。
もっと奥に行くと、貧困層の人間の住処になっていて、着の身着のままの子供たちが走り回っていたりする。
それでも、今はまだマシなのだ。
十年前は家も無い人たちが路地裏で生活をしていたり、野垂れ死ぬ人も少なからず居た。
足を踏み入れると、どこからともなく腐臭が漂ってきて、初めて来たときサーシャはショックで逃げ出したくらいだった。
それが、今ではすっかりなくなった。
貧富の差はあるけれど、あのときのような荒んだ場所はほとんどない。
それは今の領主がしっかりと下々のものにまで目を配っているからだ。
貧しいものにも働く場所を与え、最低限の生活を送れるようにしている。
だからサーシャみたいな仕事をしている人間も今はほとんどいない。
そんな危険を冒さなくても暮らしていけるのだから。
実はサーシャも普通の仕事をしたことがある。
ただ、どれも長くは続かなかった。
一番簡単に見つかる仕事は接客業だ。
食堂の給仕とか、店の売り子とか。
別にその仕事が嫌だったわけじゃない。
仕事を覚えるのに苦労も無かったし、楽しいと思えることもあった。
けれど、長く同じ仕事をしていると人と親しくなってしまう。
同じ職場の人間だったり、馴染みの客だったり。
・・・それが、サーシャには耐えられなかった。
最初はいい、特に親しくも無ければなんだかんだで表面上の付き合いで終わる。
サーシャは別に人間嫌いでもないし、人見知りもする方でもない。
でも、相手も自分も慣れて距離が近づくと・・・途端に怖くなった。
相手の好意も・・・なにより、自分が相手に対して少しでも気を許していると感じると、怖くてたまらなくなった。
それは、接客業でなくても同じだった。
同じ人間に長く接しない仕事などほとんど無い。
だからサーシャは普通の仕事を諦めたのだ。
大通りに出る。
昼過ぎの街はいつもどおりの活気があふれていた。
売り子の客引きの声が響く。
ふと、その喧騒の中に普段と違う雰囲気を感じる。
人ごみにまぎれながら様子を伺う。
とある店舗から役人が出てきた。
「・・・何か気づいたことがあったら通報するように」
「はい、わかりました」
言い含める様子の二人組みの役人と、店舗の人間だろうか、少し迷惑そうな顔の男。
役人はそんな様子を気にすることも無く、次の店へと入っていく。
? ・・・なにか、あったのかしら?
気にはなったが、ルカたちとの約束もあるし、もともと役人たちにかかわりたくも無いので、気にはなったがそのまま宿屋に足を向けた。
すると、ルカが宿屋の前で立っていた。
すぐにこちらに気づいて、少し困ったような顔になる。
駆け足で近づくと。
「ごめん、サーシャ」
開口一番に謝られて、目を瞬く。
「?? どうかしたの?」
「それが・・・」
聞くと、ラナが用事に出かけたきりまだ戻らないのだという。
そんなことか・・・と思って、苦笑する。
昨日の雰囲気から何か別の・・・想像もつかないような事を言われるかと思ってしまった。
もともと、そんなことを思うこと自体が勘違いなのかもしれない。
ちょっと困った顔で見上げてくるいつもと変わらないルカを見て、そう思った。
「大丈夫よ。クリスも少し遅れるくらいで怒ったりしないわ。・・・でも、待たせるのも悪いから、先にクリスの所にいこっか? ラナには宿屋の人にでも伝言しておいて・・・そんなに遅くならないわよね?」
「うん・・・たぶん」
少し歯切れの悪い感じ。
けれど、クリスを待たせたくないからと、ルカはうなずいて、食堂にいた宿屋の女将に伝言を頼むと、二人でクリスの所に向かった。
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街は塀でぐるりと周囲を囲われている。
その大きさは畑や小さい森を含む大きさである。
戦争時代の名残ともいえるし、戦争が無くてもどこかからの侵略に備えて塀があるのが、この国の街では普通だった。
塀は外周を覆うものと、街の中心をを区切るように設置されているものと2種類ある。
外塀は大きく街を囲み、内塀は領主の屋敷を中心に人家を守るように出来ている。
通常、その塀を越えるには門を通らなければならない。
内塀の門は平時は常に開放されているので、単純な通用門という感じだが、外塀に数箇所ある門では門兵が人の出入りを監視し、商人は商品にかかる関税を払ったりしている。
ルカもラナも最初に街に入ったとき、普通に旅人として門をくぐった。
特に不審がられることも無かったし、実際、荷物をあまり持たない旅人然とした人間は、特別調べられることも無く簡単に行き来できるのだ。
しかし、今日は違っていた。
ひとりひとり、入念にチェックされる。
しかも、明らかに小柄な人間や、女性はスルーで、大柄な男だけが門にある部屋に連れて行かれて、どうやら誰かが目的の人物かどうか確認をしている様子。
先ほど連れて行かれた男もすぐに出てきて、普通に街へと消えて行った。
おかげで、普段よりも中に入るのに時間がかかり、門の前には行列が出来ていた。
待ちくたびれた人々はなかなか進まない行列を眺めてため息をつく。
「いったい、なんの検問だい?」
「なんかの罪人でも見つけようとしてるのかね・・・」
「ああ、どうやら昨晩、盗人が出たとかで、役人が探し回っているらしいよ。さっき、中から出てきた知り合いが教えてくれたんだ」
「それなら、中から出てくる人間を調べればいいんじゃないのか?」
「中でも一応調べられるらしいよ。でも、もう外に逃げた可能性のほうが高いって」
「?? だから、それでなんでまた街に戻ってくるって言うんだよ? 逃げたんなら戻ってなんてこないだろ?」
「それが、仲間がまだ中にいるから戻ってくるはずだって・・・」
そこまで聞いて、ラナは身を翻した。
不審に思われないように、街から出てくる人間にまぎれて門を離れる。
人間の目ではわからないくらい離れてから、街道を逸れて林に紛れ込む。
そして、人ではありえない速度で駆け出すと、門から離れた場所で塀に近づき、駆けていたそのままの勢いで跳躍すると、二階建ての家ほどの高さの塀を難なく乗り越え、街に入った。
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