スノウ・インカネーション/九
ジュリは私の兄と結婚してユウリを産んだ女で、つまり私にとっては義姉に当たる人物だった。私はジュリの顔が好きだった。可愛いから。でも性格は大嫌い。気取っていて冷たくて、何かあったらすぐに泣き出しそうな声で怒るから。ジュリはヒステリックになると過度な悲壮を纏って自分がこの世界で一番の悲劇のヒロインであると思い込み、自分以外の誰もかもをこの世界の道理や純真を知らない莫迦だと決めつけて、理解者不在の状況を強く嘆いたりする。
「どうしてあなたはこんな当たり前のことも分からないの?」
私は何度、そんな風に冷たい言葉でジュリに嘆かれたか分からない。「ユキコさん、どうして私が怒っているか分かる? 私は義妹であるあなたと良好な関係を築きたいのよ、なのにあなたはあらゆることを間違って覚えてしまっているの、きっと國丸の裕福な家で甘やかされて育てられてしまったから何もかもを間違って覚えてしまったのでしょうね、その自覚はあって? 間違いを正そうとして変わろうと思ってる? 変わろうと思わなくっちゃ、あなた、何も変わらないんだからね、分かってる? ああ、あなたってなんで、どうしてこんなに、こんなにも頭が悪いの?」
ジュリと顔を合わせる度に私は、あなた、あなた、あなた、とどんな些細なことについてでも叱責された。兄の夫婦は実家の國丸の邸に近いタワー・マンションを借りて住んでいて毎日顔を合わせるということはなかったけれど、日曜日には必ず兄とジュリはユウリを連れて邸に顔を見せに来た。私の両親が日曜日の訪問を強要したから兄とジュリはそれに従うしかなくて、私も日曜日にはジュリに会わなければならなかった。ジュリは両親に会って無意味な時間を過ごすことに酷いストレスを感じていたようだった。私はジュリの格好の的だったのだろう。私は彼女に言葉で攻撃される度に何度、ジュリのことを殺してやろうと思ってキッチンに立って包丁を手にしたか分からない。けれど私は日曜日にジュリのことを殺さなかった。日曜日にはユウリに会える。それだけが日曜日の楽しみだった。楽しいことと嫌なことは一度に日曜日にやってきた。兄もジュリも私がユウリの子守りを率先して引き受けていたことについては喜んでいるようだった。兄とジュリはユウリのことを互いに押し付け合っているように見えた。私はユウリが可哀そうでならなくて、自分の子供を押し付け合う最低最悪な二人を心の中で何度殺したか分からない。
「……分かりました、すぐに帰ります」
私はジュリとの通話を終えると高杉に急に実家に帰らなくちゃいけなくなったと告げて扉を押して倫敦パブを出て沖ノ宮市駅に向かった。そこのみどりの窓口で錦景市までの切符を購入した。いつも実家に帰省するときは鈍行列車で時間を掛けてロックンロールを聞きながら本を読んで帰るのが好きなんだけれど今日は東京から楢崎市までの新幹線の特急券を購入した。
東京行きの列車は帰宅ラッシュで込み合っていてサラリーマンの嫌な匂いが充満していて、その強烈な加齢臭に吐きそうだった。私は肩に掛けたトートバッグの中からウォークマンを取り出しイヤホンを耳に挿し込みピーズの血の丸を再生した。この曲は私が自殺して失敗して絶望していたときに私のことを掬い出してくれたロックンロールのうちの一曲だった。血の丸を聞いて私はなんとかサラリーマンの匂いが充満していて最低最悪の車内で吐瀉物を撒き散らさずにいられた。ジュリと会話して、そしてその会話の内容にも痛めつけられて、ほとんどゼロになっていた私のエネルギアは血の丸によって少し充電されたようだった。
「いい加減にしろよ、クソ野郎っ!」
私は車内で声を張り上げて一分間も私の形のいいお尻を触り続けていたデブで眼鏡でハゲ散らかした五十代くらいのくたびれた紺色のスーツを来た会社員のおっさんの顔面を振り向き様に殴った。ちょうど列車がカーブに差し掛かったところだったのでおっさんは照準を絞っていなくて踏み込みの甘い私のパンチを喰らっただけで尻餅を付くように後ろに倒れた。車内は私の金切り声と急に倒れたおっさんによって、一瞬沈黙のの後、なんだ、なんだと騒然となった。乗客は何が起こったか分からない恐怖に咄嗟に私とおっさんの周りから離れ今までどこで隠れていたんだろうと思えるくらいの広いスペースがおっさんと私の周りに出来上がった。私の怒りはおっさんを殴っても収まっていなかった。私はおっさんの額をアディダスのランニングシューズの爪先で強く蹴った。額が縦に切れて流血しておっさんの眼鏡が外れて床に転がった。私はおっさんの眼鏡を靴の底で踏み潰した。レンズがはずれて割れて砕けた。それでも私の怒りは収まらなかった。私は仰向けに倒れているおっさんの両肩を折ってしまおうと思って一度跳躍して私の体重が全部乗るようにしてまず右肩を潰した。折れたか関節が外れただけかは分からないけれどおっさんはぎゃあと悲鳴を上げた。同じことを左肩にもして、先ほどよりも大きい悲鳴をおっさんは発した。おっさんの悲鳴がとても不愉快だと思ったから両膝を潰す前に口を潰して血だらけにしてから両膝を先ほどと同じ要領で潰した。人間をこんな風にして潰すのは高校生以来だったがほとんどイメージ通りにおっさんを壊滅的に動けなくすることが出来た。車内の至る所から悲鳴が聞こえたが誰も私のことを止めなかった。それは賢明な選択だった。そのときにもし誰かが私のことを止めたらその誰かはおっさんと同じように水揚げされたばかりの鮭みたいに胴体を激しく痙攣させることになったのだから。私は銀行員の支店長が締めていそうなダサい金色のネクタイを引っ張り上げおっさんの首を絞めてその喉を右足のランニングシューズの踵で踏み付けた。同時に左足で何度もおっさんの腹部を鞭のようにしならせて蹴った。「私のお尻を触って楽しいのかよ、答えろよ、おっさん」と何度も言いながら何度も蹴った。蹴るたびにネクタイで締め上げて思いっきり踵で踏み潰している状態の喉からびゅうっという汚い音が漏れた。おっさんは何かを言いたそうに私のことを血で濡れた目で見ながら機能しない足と手に力を入れてなんとか動かそうとしていた。素人が操るマリオネットのようだと思った。素人が操るマリオネットはこの世の生き物とは思えないほど奇妙な動きを見せている。おっさんのズボンのファスナの部分がじっとりと濡れ出した。そのタイミングで丁度電車は東京に着いた。
「漏らしてんじゃねぇよ、汚いな」
私は吐き捨てるように言って開いた扉から東京駅のホームに出た。背中の方から救急車とか誰かが叫ぶのが聞こえた。私に痴漢して挙句の果てに電車の中でおしっこを漏らしたおっさんを救う価値なんて微塵もないのにどうして私の暴力を止めることもなく静かに傍観していた誰かは救急車と叫んだのだろうか。私は上越新幹線のホームに移動して駅弁とビールを買って指定席に座った。窓際だった。私はウェットティッシュでおっさんを殴った右手を入念に拭いた。私は綺麗好きだと思う。新幹線が動き出す。車窓を眺めながら私はビールを飲み駅弁を食べた。そして私はピーズの攻撃的で優しくて憂鬱なロックンロールの数々をBGMに、ユウリが同級生の男の子に暴力を振るったという出来事について考えていた。