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スノウ・インカネーション/八

 今夜は絶対にショウコとセックスするんだ、という意志をもって、天体史学概論Ⅷの講義の後、沖ノ宮市の夕方、私は倫敦パブにやって来た。

「おはようございます」私は歯切れよく挨拶して、いつもよりも強く扉を押して勢いよく店内に入った。強い意志が表れてる、という感じ。

 しかし私の勢いとは裏腹、ママの返事はなかった。店内の明かりは点いていたけれど、カウンタにママの姿はなかった。おかしいな、と思って店内を見回すとママはフロア奥のステージの手前のテーブル席のソファに足を組んで座り、太股の肘を乗せ頬杖付いて出窓にある小さなサボテン越しに夕焼けをぼうっと見ていた。私が店に来たことに気付いていないみたいだ。変なの、と思いながら私はママに近付きもう一度大きな声で歯切れよく挨拶した。「おはようございますっ」

「わっ、」ママは体を弾ませて声を上げ驚いた顔で私を見る。「何よ、ユキコ、脅かさないでよ、ああ、びっくりしたぁ」

 なんてママはほっと胸を撫で下ろしている。

 ママが驚いている意味が分からん。

「なぁに、黄昏てるんですか?」私はママの対面に腰掛けて言う。「何かあったんですか?」

 聞くとママの顔は途端にピンク色になる。ママは私から視線を逸らす。「……な、何でもないわよ、何でも」

「何でもないって、誤魔化すならもっと上手に誤魔化してくださいよ、」私は煙草に火を点けて煙を吐いた。「上手く誤魔化してくれなくっちゃ、気になるじゃないですか」

「いや、本当になんでもないんだって、本当に、その、」ママは言い淀みながら乙女みたいに両手で頬を包んでピンク色の顔を隠した。「……なんでもないんだって、追求しないでよ」

「そうですか、」私は灰皿を引き寄せて言う。「なんでもないならいいです、追求しませんよ」

「……いやさ、諦めるの早くないかな?」ママは私をまっすぐに見て言う。「気になるんだろ、だったらもう一回くらい聞けよ、何があったんですかってもう一回くらい聞けよ、この野郎」

「すいません、」私は謝りニッコリと微笑む。ママが何でもなくないことをすっごく話したがっているのは分かっていた。「意地悪しちゃいました、それじゃ、話してくれるんですか?」

「黙っていたら破裂して死んじゃいそうだわ、私は死にたくないの、だからユキコに話してあげるわ」

「ありがとうございます、それで何があったんですか? ママの様子を見る限りお客さんに告白されたとか、そんなところでしょう?」

「そうなの、」ママは頷き大きく溜息を吐く。その色ってピンク色。「告白されたの」

「ほらね、やっぱり、でもママね、お客さんに告白される度に一喜一憂してたら駄目ですって、パブのママなんだからその辺はうまくあしらわなくっちゃ、で、それで誰なんですか? 常連さんですか?」

「違う、」ママは大きく首を横に振った。「お客さんじゃないのよ、お客さんだったらどれほどよかったか」

「え? それじゃあ、一体誰なんです?」

「高杉よ、」ママは両手で顔を覆ったまま言った。「高杉に告白されちゃったのよ!」

 私は灰皿にまだ半分残ってる煙草を押しつけてから両手をテーブルにバタンと付いて立ち上がって叫んでしまった。「マジっすか!?」

「マジよ、大マジよ、」ママは血走った目をして早口で叫んだ。「倫敦パブのバーテンで、私のマンションで一緒に暮らしてる、今はマヨネーズを買いにスーパに行ってる、あの、高杉に告白されちゃったのよぉ!」ママは叫び終えると肩を上下させてぜぇぜぇと呼吸しながら私を睨みつけて、そしてもう一度言った。「高杉に告白されちゃったのよぉ」

「……そ、そうなんですか、吃驚しました、凄く、そのなんていうか、凄く、吃驚しました、ああ、マジかぁ、それにしても驚いたぁ」

「一番吃驚してるのは私だわよっ!」ママはテーブルをパーで叩く。

「ああ、分かってますから、ママ、落ち着いて下さいよ、ママ、とりあえず一度、座りましょうよ、ママ」

「ええ、そうね」

 私とママは同時にソファに座り直した。

 ママは煙草を深く吸って思いがたっぷり込められた煙を吐き出した。その煙はテーブルの上から中々消えなかった。ママは沈黙してしまった。私はママがしゃべり出すのをじっと待つべきだろうか。でも私はBGMも聞こえない店内の静寂に耐えられなかった。「……でも、本当に吃驚しました、高杉がママのこと、そんな風に思っていたなんて、ママに懐いているとは思ってましたけど、告白するなんて、っていうか、高杉がそうだったなんて全然気が付かなかったな」

「……私もよ、一緒に暮らしてた癖に、全然、分からなかった」

「高杉のやつ、ポーカーフェイスですもんね」

「ポーカーフェイスっていうか、普通さ、考えないでしょ、そういうこと」

「いやでも高杉、ママに懐いてたじゃないですか、私、ママの立場だったら、もしかしたらって考えたかもしれないです」

「そうじゃないって、ユキコ、そうじゃないんだって」

「え? 何がそうじゃないんです?」

「高杉がレズビアンだなんて考えないでしょ、普通!」ママは叫び、またテーブルを叩いて起立した。「いくら懐いてくれてもね、まさか高杉がレズビアンだなんて考えないでしょ、普通!」

「あ、ああ、そっちですか、そっちだったんですね、」私はママのヒステリックがこれ以上炎上しないように必死に笑顔を作って何度も大きく頷いた。「そうですよね、普通、高杉がレズビアンだなんて思わないですよね、普通」

「そうだわよ、私はユキコやショウコと違うの、レズビアンじゃないの、ストレートなの、真っ直ぐな女なの、普通なの、だから考えないのよ、高杉がレズビアンだったなんて、普通、考えないわよ、普通っ!」

 私はママの剣幕に圧倒されてほとんど仰け反っていた。出来ることならこの場から脱出したかった。そしてこのタイミングだった。

「ママ、私はレズビアンじゃないよ」

 私は振り返り店の扉の方を見る。

 高杉がスーパのビニル袋を手に下げて立っていた。高杉はまっすぐ、私を通過してママのことを見ていた。

「ひぃ!」ママは悲鳴を上げてステージ脇のトイレに逃げ込んだ。

 何もトイレに逃げることはないだろうに、と私は思う。

「はあ、」高杉は感情的に大きく息を吐きビニル袋をカウンタの上に置き大股で歩きトイレの扉の前に立って鋭いノックを二回して語気強く言った。「ママ、私はレズビアンじゃないからね、ただママのことが好きになったから告白したんだ、ママが好きで好きでしょうがなくって黙っていられなかったんだよ、キスしたいし、エッチしたくなったんだよ、ママとだから告白したの、でも、でも、私は出来ることなら私はママとキスしたいしエッチもしたいけどママが嫌だったら私はママに何もしないよ、本当に、約束するから、今まで通りでいいから、今まで通りでも私は幸せだからさ、とにかくトイレから出てきなよ、そろそろ開店準備始めないとヤバいでしょ、昨日の伝票の整理だって終わってないじゃないの」

 私はトイレの扉の前でママに訴える高杉を見て、格好いいと思った。まっすぐで屈折していない、素直な心の声を高杉は叫んでいる。

 虚勢を張っていないんだよな。

 憧れるよ。

 そういうの。

 私、多分、そういうの、出来ない女だから。

 何も成長していないんだ。

 本当に。

「ユキコさん、」高杉は私を見ていた。高杉の頬はピンク色だった。額には凄い汗を搔いていて、高杉は頑張っているんだ、と私は思った。「ユキコさんもママに何か言ってよ、このままじゃ、お客さんに怒られちゃうよ」

「あ、うん、そうだね」

 私は高杉に加勢しようと思って立ち上がった。「ママ、とにかく出てきなって、もう沖ノ宮市は夜の六時だよ」

 そのときだった。

 私のスマートフォンが鳴った。

 その音は教会のベル。

 つまりユウリからの着信だった。

 私は咄嗟に反応してくるりとトイレに背を向けて電話に出る。

「あ、もしもし、ユウリ、どうしたの?」

 電話に出た私の背中に高杉は何か言っていた。

 しかし私の耳に高杉の声は届かなかった。

「あ、ユキコさんかしら?」

 返ってきた声はユウリの天使の声とはまるで違っていたからだ。「ジュリよ、話があるんだけれど今、よろしいかしら?」

 私はその天使とも似ても似つかない、悪魔に憑依されてしまったように甲高くしゃがれて今にも泣き出しそうな女の声に、凍りついて動けなくなった。今夜ショウコとセックスするんだ、という強い意志も、ママと高杉の人間関係に対する関心も一瞬にして私の心から消え去り、私の心は呪いを掛けられたようにジュリに支配された。

「もしもしユキコさん、ねぇ、聞いてるの?」


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