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スノウ・インカネーション/七

 十一月に入り私の生活は徐々に健康的になっていった。どんな風に健康的になったかと言うと今まで週二回しかいかなかった大学に週四回の頻度で通うようになり講義にも朝から夕方まできちんと出席するようになり土日は大学の図書館に通い言語学の専門書を拾い読みするようになり倫敦パブにもほぼ毎日顔を出し常連客を増やすことに積極的に貢献するようになったりと、眠るのはいつも深夜四時過ぎだが、私はこれまでに比べれば規則正しい生活を送るようになっていた。そして私は学問への意欲をすっかり取り戻し学問に入り込むことによって得られる心地よい学術的興奮を感じやすい体になっていた。私の思考は学問に対して鋭敏になっていて深く切り込み多くを取り出せる状態になっている。蘇生した、と私は思った。しかし同時に、秋雨の雨垂れの音のような生温い寂寞を感じているのも事実だった。

 私の健康的で文化的な生活は、少なからずそれを自ら望んでいたことはあるのだけれど、十一月はそんな風な規則正しい生活を送りたいという強い意志を端緒にしているものではなかった。生温い寂寞を感じさせるもののせいだった。要するに近頃の私とショウコはすれ違ってばかりいて彼女と同じ時間を過ごしていない。

 最近のショウコは本当に忙しそうにしていた。聞けば部署の異動があって肩書きが変わって何かのプロジェクトのリーダを任されているという話だった。夜遅くまで会社で仕事をしていて倫敦パブに顔を出すことも少なくなり、たまに来てもステージで一曲歌うくらいで、以前の可憐な歌姫はどこに行ってしまったのか、ストレスを発散するようにお酒を浴びるように飲み逆にお客さんたちに無理矢理仕事の愚痴を聞かせているという具合だった。休みの日は夕方ぐらいまで眠っていて水を掛けるくらいのことをしないと起きない。疲れているんだからしょうがないと思って私は水を掛けてショウコのことを起こしたりはしないけれど、私は菩薩じゃないので、彼女に不満を抱いてしまう。

 それって仕方がないことですよね?

 考えてみれば私はショウコと二週間以上もちゃんとしたセックスをしていない。

 学者とか芸術家とか詩人とか政治家とか、そういう未来の話だってしていない。

 ショウコとは同じマンションで暮らしているし同じベッドで眠っているんだけれど、私は寂しかった。離婚する人たちってこんな寂しさを最初に抱くのかな、と思ったりして「……あはは」と私は苦笑する。ショウコと別れる気なんてさらさらないのだ。私は寂しくってヒステリックになっても相変わらず彼女のことを愛しているのだ。大好きなんだ。

 ショウコのことを考えているとき、私の心は確かに燃えている。

「あれ、國丸君じゃないの」

 突然私は声を掛けられて顔を上げた。正面にサイズが合ってなくてぶかぶかの緑色のパーカをワイシャツの上に着てリーバイスの細身のジーンズを穿いた顎髭を生やした華奢な男が立っていた。あ、先生、どうしてこんなところに、と私は大きな声を出した。

「こんなところにって、ここは大学だぜ、僕の職場じゃないの、何読んでるの?」

 以前私に世界地図が刻印されたディーゼルの腕時計をプレゼントした天体史を専門にする文学部の准教授の名前は大久保。大久保先生は確か三十四歳で独身。大久保先生は私の横に腰掛けた。十一月の金曜日のお昼の天気は快晴で暖かかったものだから私は大学の円形広場の木の下のベンチに座ってソシュールの一般言語学講義を読んでいた。普段はウォークマンと繋がったイヤホンを耳に挿しているんだけれどあまりにも天気がいいのでこのときの私はイヤホンをはずして微風の音を聞いていた。

「課題でもあるの?」

「いいえ、」私は首を横に振る。「特に課題とかはありませんけど、その、言語学を志すものとしてはソシュールはしっかり勉強しておかなければいけないでしょう?」

「へぇ、」大久保先生は感心したという風に声を上げ顎の髭をさすっている。「驚いたなぁ、君ってそういうタイプの女の子なんだ」

「そういうタイプって、どんなタイプです?」

「学識を純粋に尊敬するタイプだよ」

「ああ、まあ、」私は曖昧に頷いた。「確かにそういうタイプかも、その反対ではありませんね」

「そういうタイプの女の子ってあんまりいないよね、多分、一万人に一人くらい?」

「十人に一人くらいだと思いますよ、私ってそんなに珍しい女の子ですか?」

「うん、ああ、まさか君がそういうタイプの女の子だったなんて、ますます気に入った、倫敦パブではそういう話しないから見抜けなかったなぁ」

「先生はいやらしい話ばかりしますもんね」

 大久保先生は笑顔を崩していやらしい顔を見せて口を尖らせた。「そんなことないでしょうよ」

「そんなことありますよ、私は天体史の話を聞きたいのに、先生はいつもいやらしい話ばかりするんですから」

「だってお酒を飲みながら天体史の話をしても楽しくないでしょうよ、僕はお酒を飲みながら仕事の話をしたくないタイプなんだよ、天体史の話を聞きたいなら僕の講義を受けてくれよ」

「残念ながら二年生のカリキュラムに先生の講義は含まれていなかったんですよ、本当に残念なことに」

「残念だな、國丸君が僕の講義に出席してくれれば講義の質は上がるのに、一年の後期のときは國丸君、僕の講義をとってくれてただろ、あのときの学生アンケート、凄い評判よかったのよ」

「そんな情報どうでもいいですけどね」

「酷いなぁ、」そう言いながらも大久保先生は笑顔だった。私とおしゃべりが出来てとても楽しそうだ。お酒を飲んでいないのに倫敦パブのカウンタ席と同じ表情をしていた。「あ、その時計付けてくれてるんだ、嬉しいじゃないの」

 私は今日も大久保先生に貰った時計を右手に装着していた。右手を少し持ち上げて私は言う。「これ、ちょっと重いんですよね」

「でも付けてくれてるんだ」

「ええ、傷ついてもいい時計なので、なかなか頑丈そうだし、ええ、普段から付けてるんですよ、そういえば先生、最近倫敦パブに来ませんね、この時計をくれてから来てくれませんよね」

「ああ、行きたいのはやまやまなんだけどさ、今、沖ノ宮市史の編纂の仕事をしていて、締め切りが今年中で、ちょっと忙しくってね」

「忙しいんですか?」

「うん」

「本当に?」

「ああ、凄く忙しい」

「……へぇ、そうですか、どいつもこいつも皆、忙しい、忙しいって、」私は瞬間的にヒステリックになっていた。それを体内でどうしようも出来ずに私は大久保先生のことを強く睨んでしまった。脳裏にはショウコのことが浮かんでいる。「忙しくって楽しそうですね、なんですか、流行ってるんですか? 忙しいって言い訳して楽しむことでも流行っているんですか?」

 大久保先生の顔は固まっていた。「……國丸君ってば、急にどうしたのよ?」

「あ、……すいません、ちょっと、色々あって、」私は両手で額を押さえた。ショウコが忙しくってセックスしてないから私は苛立っているんだと思う。「……色々あって、なんかすいません、当たっちゃって」

「……よかったら話を聞こうか?」

「いや別に、先生には関係のない話なので、いや、でもね、」私は自分の太ももを強く叩いた。「どんなに忙しくてもなんとかなると思うんですよ、なんとか、捻出っていうんですか、出来るでしょ? 一時間や二時間や三時間くらい」

「ごめんなさい」

「あ、いや、謝らないでくださいよ、先生には関係のない話なんですから」

「あ、ああ、そう、そ、それならいいけど、……ああ、そろそろ行かなくっちゃ、」大久保先生は私の時計を覗き込みわざとらしく言って咳払いをして席を立った。とても罰の悪そうな笑顔だった。「それじゃあね、國丸君、仕事が一段落したら店に顔出すから」

「はい、さようなら」私は目つきを変えずにそっけなく言った。

 大久保先生はこちらに背を向けて大股で円形広場を横切って行く。

 私はソシュールの一般言語学講義の表紙を睨みながら舌打ちした。

 下唇を噛んだ。

 逃げやがったな、この野郎。

 畜生。

 ショウコへの不満をぶつけたかったのに、聞かせて上げてもよかったのに、大久保先生に聞いて貰いたかったのに、逃げやがったな。

 もう一度くらい、話聞くよって言えよ。

 言うだろう、普通。

 なんで言わなかったんだよ、先生の莫迦野郎!

「ああ」私は一人溜息を吐き、木陰でうなだれた。

 寂しくて死にそうだ。

 健康的なんて嘘。

 私は病気なんだと思う。

 確かに私は、病を患っているんだわ。

 お酒や煙草や学術的興奮やランナーズ・ハイによって一時的に痛みを緩和できるかもしれないが、それらではこの病の根本的な治療とはならないだろう。完治するためにはショウコの舌とか指とか唇とかおっぱいとか、とにかくショウコのあらゆる部分が必要だ。ソシュールの一般言語学講義は治療のためにはいらない。だから私は円形広場を覆う芝生の上に投げ捨てた。一般言語学講義は天に開かれる。そよ風がページをめくっていく。

 ソシュールは快晴の空に向けて講義している、なんて思った私は詩人なの?

「ちげぇよ、莫迦、」独り言。「死んじまえ」


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