スノウ・インカネーション/六
文化人類学と考古学研究と哲学概論の三つの講義に私は出席した。文化人類学はアボリジニについての講義でその際に見た数種類の記号とドットで表現された蛇と人間と森と夜を描いたアボリジナル・アートに私は魅了された。考古学研究は鍬についての講義で時代を経て合理的に木製の鍬のデザインは変わって洗練されていくが鋳造技術の進歩によった一つの巨大なパラダイム転換によっていとも簡単にその洗練されたデザインは停滞してしまうものなんだな、人々に忘れ去られてしまうんだなと思った。哲学概論ではカントを取り扱っていた。神の存在証明の誤りをカントは合理的に証明していてなるほどと思った。神の存在証明の誤りの証明は、今日の一番の収穫で頭脳がクリアになった気がした。
私は講義が終わった夕方に、どうしてもアボリジナル・アートの本が欲しくなって生協に立ち寄りそれに関する本を探した。アボリジニに関するものは分厚い専門書ばかりでなかなかこれといった本がなかったので私はオーストラリアの旅行ガイドを一冊購入して大学を後にして倫敦パブに向かった。ママと高杉とショウコと私の倫敦パブの四人でオーストラリアに旅行をするのもいいな、と思いながら。
「おはようございまぁす」
私は開店前の倫敦パブの扉を恐る恐る開けた。頭の中にはもちろんまだ、私がママに何かしてしまったのではないか、それについてママは何か思っているのではないか、という気がかりがざわついていた。扉を動かすと頭上で揺れるベルの音が大きく響いた。自分の心臓の音がうるさくて顔が少し熱っぽい。
「うーっす、おはよ」
ママはいつもの調子で、カウンタに立ち伝票の整理をしていた。顔を上げてこちらに笑顔を見せる。「ほれ、あんた、スマホ忘れてったっしょ?」
今日のママは黒いポロシャツを着ていた。月桂樹のワンポイントが素敵なフレッド・ペリーのポロシャツの三つのボタンはしっかりと留まっている。ポロシャツに、北欧辺りの絨毯のような模様をしたロングスカートっていうのが、倫敦パブでのママのスタイルだった。
「はい、すいません」私はママの表情とか仕草とか口調とか、昨日の同じ時間帯と何か変わったところはないかって注意深く観察しながら頷き、とりあえずカウンタ席に座って通学用のトートバックをテーブルの上に置きママが差し出してくれた私のスマートフォンを受け取った。予想通り着信は昨夜のショウコのものだけだった。充電は満タンだ。待ち受け画面に設定していたユウリの最新の写メを見て一瞬気持ちがほっこりとなった。はあ、天使に癒された。
「今日は働いてくれんの?」ママがお札を数えながら聞いてくる。
「はい、せっかく来たんだし、働きますよ」
「そう、」ママは笑う。「ショウコは?」
「もしかしたら今日も来れないかもって、何か忙しいみたいで」
私は煙草に火を点けてトートバックの中から先ほど購入したオーストラリアの旅行ガイドを取り出しテーブルに広げた。今のところママから、私に対してのぎこちなさというか、そういうものは一切感じなかった。私の杞憂だったのだろうか。それならいいけどでも、今朝の高杉の意味深な物言いはやっぱり気がかりだ。しかし気にしてもしょうがないことだ。もしかしたら私はママに何かをしたのかもしれないが、ママが覚えていない可能性だってある。ママが覚えていたとしても私が黙っていればその問題は勝手に消えてなくなってくれるかもしれない。とりあえず今は忘れよう。難しいけれど忘れてしまおう。嫌なのはママと気まずくなってしまうこと。今のところ問題は顕在化していないのだから。
「……何?」ママはオーストラリアの旅行ガイドを覗き込み私に聞く。「オーストラリアに旅行でも行くの?」
「ううん、いやね、ちょっと大学の講義でオーストラリアについてやって興味が沸いて、アボリジニの絵、分かります? それを見ていいなって思って、ほら、こういうやつなんですけどね、」私はアボリジニについて簡単に説明されているページにアボリジニ・アートの写真が載っていたので、本当に小さい写真だったが、それを指差し言った。「ちょっと、よくないですか?」
「ふうん、あんた、こんなのが好きなの?」ママは目を丸くして私を見る。
「いや、私も講義でたまたま目撃するまではそんなに関心なかったんですけど、多分、中学校とか、高校とかの授業で同じような絵を見てると思うんですけど、そのときは魅かれなかったと思うんです、でも今回の場合、インパクトがあって、なんていうのかな、すんなりと魅了されたっていうか、眩惑されちゃっっていうか」
「へぇー、まあ、芸術に感動するっていうのはいいことだわね、心が洗われるよう、みたいな感じ?」
「そうかも、いや、ちょっと違うかな」
「あはは、ちょっと違うんだ」ママは小さく笑ってお札をレジの中に仕舞って煙草を咥えた。
「心が呑まれた感じ?」私はすかさずライタを灯しママの煙草に火を点ける。
「なんだそりゃ、」ふうっとママは形のいい唇から煙を吐き出す。「……私もね、一時期はまってたんだよね」
「アボリジナル・アートに?」
「ううん、芸術よ、現代芸術みたいなやつに、ダリとかピカソとかパウル・クレーとかさ、有名なやつよ、ああいうの見て私は、高尚な気分になって自由について考えて、とにかく普通のOLになったら駄目だって思ったね、その結果がこれだよね、倫敦パブよ、ダリとかピカソとかパウル・クレーに影響を受けて、もちろんそればっかりじゃないけれど、倫敦パブでフレッド・ペリーのポロシャツを着てママをしているのが自由な私なのよね、自由って思ったよりも忙しいけれどね、……って何言わしてんだよ、この野郎」
そんなことを言うママを私は素敵だと思った。「あ、なんかすいません」
「つか、くつろいでないで働いて頂戴な」
「はい、働きますよ、」私はオーストラリアの旅行ガイドをトートバックの中に仕舞って黒いエプロンを纏った。「そう言えば、高杉は?」
「スーパに買い物に行ってるよ、ケチャップなくなって」
そのタイミングで私のスマートフォンが震えた。
ショウコからの着信だった。「もしもし?」
「あ、もしもしユキコ? 今、お店?」
「うん、ショコちゃんは今日は来れるの?」
「いや、今日も仕事が長引きそうなの、だからママに謝っておいてくれる?」
「うん、しょうがないね、分かった、今日も私がショコちゃんの代役を務めさせて頂きますよ」
「お願いね、ああ、また朝帰り?」
「そうなるでしょうね、きっと」
「飲み過ぎないようにね、最近一日中お酒の匂いするんだから、キスが臭いんだから」
「分かってる」
「分かってないから言ってんの、」ショウコは上機嫌そうに笑う。「じゃあ、ごめんね、ママによろしくね、明日は絶対に行くからって」
「そうね、土曜日だし、ショコちゃんがいなくっちゃ駄目よ」
「うん、それじゃあ、ユキコ」
「うん、ばいばい」