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スノウ・インカネーション/五

「お疲れさまでした」

 私はテーブルの下にくしゃくしゃになっていた黒いエプロンを拾い上げ畳み、ワンピースの上に灰色のパーカを羽織りママから逃げるように倫敦パブから沖ノ宮市駅前の朝の八時の喧騒の中に飛び込んだ。外の空気は店内の煙草とアルコールの匂いに淀んだ生温い空気とはまるで違っていて冷たくて額が刺激されて私は頭痛が痛いのを思い出した。高杉が飲んでいた頭痛薬をもらって飲めばよかったと思った。私はほんの少しだけ参っていた。高杉は私がママにしたことについて口をつぐみ何も教えてくれなかった。それで余計に頭痛が痛いのだ。私はおそらくきっと、ママに何かしてしまったのだ。私はママのことが好きだが、それはショウコに抱いている好きとは全く種類のことなるものだ。もちろん小さくて可愛いママと気持ちがいいことが少しもしたくない、と言えば嘘になる。けれど私はママに対しては普通の女が普通の女に抱く意味での愛を主体に良好な関係を築いてきたつもりだしこれからもそんな関係のままでいることを望んでいた。自分の気持ちを整理するとそのようになる。だから今回の場合は異常事態。ママも何も覚えていなかったならいいのだけれどとにかく、私は何もなかったことにしようと倫敦パブから脱出しながら決めました。

 突然、冷たい風が吹いて私の髪とスカートを踊らせた。私は灰色のパーカのファスナを首元まで引き上げる。

 沖ノ宮市の季節は秋。

 左右に等間隔に並んだ背の高い街路樹は黄色とオレンジと、それから紅色に色づいている。十月もそろそろ終わる。寒さが苦手な私には辛い季節がそろそろ来る。ユキコって名前のくせに、私は雪に無関心だったしほとんど縁がなかった。スキーとかスノボとかの経験はほとんどないしゲレンデに行ってあの白い斜面を滑りたいなんて思ったことがなかった。故郷のG県の錦景市という街の冬は空っ風の通り道で凄く寒いけれど、雪がほとんど降らない街だった。私はK県の沖ノ宮市という街に一年と半年くらい住んでいるけれどまだこの場所で雪の冷たさを味わったことがない。そんなことをぼうっと考えながら私は横断歩道を渡っていた。ちょうど黄色い帽子を被りランドセルを背負った小学生たちが向こう側から横断歩道を渡って来るところに遭遇した。キャッキャと無邪気に騒ぐ小さな子供たちを見て私なんて邪気の塊だわ、と何の脈絡もなく思った。そして赤いランドセルはユウリのことを私に思わせる。昨日電話で話したばかりなのにまたユウリの声が聞きたくなった。でもこちら側からは電話を掛けられないのだ。別に何も決められたルールなんてないのだけれど、私からは電話を掛けてはいけないような気がしていた。そんな気がするのは様々な要因があると思うんだけれど、一番の理由はやっぱり、私はユウリの母親じゃないっていうこと。

「おはようございますっ」

 小学生たちがすれ違ったときに大きな声で挨拶をして来て私は心臓が止まるほど驚いた。けれど私は自分でも不思議なほどに「はい、おはようございます」と子供たちに自然に挨拶を返すことが出来たし最後尾を歩く眼鏡を掛けた可愛らしい女の子の頭を私の左手は、勝手に、軽く撫でていた。私の左手は自殺した痕があるから外出するときは黒くて普通よりも長めのリストバンドで隠しているんだけれど、その左手が女の子の頭を優しく撫でたことに私は一瞬戸惑った。考えてしまったのだ。自殺の痕跡がある左手でも女の子の頭を優しく撫でることが出来るという問題を考えてしまったのだ。答えはすぐに出て来ず思考は続かなかった。この問題の微妙さに思考のモータがゆっくりと停止に向かう。その微妙さ加減はなかなか言葉にしづらい。とにかく私は未来ある子供たちに向かって自然純粋に笑えていただろうか。それが気になって私はユウリに会いたくて堪らなくなる。ユウリに聞きたい。私の笑顔について。

 そんな気持ちを抱えて私はマンションの前までやって来た。そこで私ははたと気付いた。ポケットを探ったがやはりない。倫敦パブにスマートフォンを忘れて来てしまったようだ。充電していてそのままにしてきてしまった。迂闊だったな。でも特別に連絡を取り合うような人はショウコぐらいだ。とにかく、スマートフォンを回収にまた今日も出勤しなくちゃいけないな、と思って私は首から下げた鍵を手にオートロックを解除しようとした。

 そのタイミングでエントランスの扉が開いてマンションの住人らしいサラリーマン風のスーツ姿の男性が出てきた。鞄を肩に下げパンパンに膨らんだゴミ袋を両手に持っていて今日はゴミの収集日だったのを私は思い出した。

「あ、どうも、おはようございます」男性はすれ違い様に私に会釈してきた。人の良さそうな愛嬌のある笑顔だった。

「おはようございます」先ほどの小学生たちに挨拶されたこともあって私は笑顔で返した。普段絶対にこんな風な優しい笑顔で知らない男に私は挨拶をしない。

 男性はマンション先のゴミ置き場に群れるカラスを怒鳴って逆襲されていた。

 私はそれを見て、可笑しくて笑ってしまった。

 私はエレベータで十二階に上がる。十二階がこのマンションの最上階で、その角部屋の1209号室がショウコの部屋だ。インターフォンを押すとすぐに扉が開いた。

「ただいま」

「おかえり、」化粧の途中、という顔のショウコが出迎えてくれた。「……ってユキコ、朝帰りになるなら連絡寄越しなさいよね、昨日も電話したのにでないし」

「ごめんね、」私は玄関で靴を脱ぎながらショウコを抱き締めてキスした。「昨日は盛り上がっちゃって、スマホも店に忘れて来ちゃったわ」

「酒臭い、」ショウコは言って鬱陶しそうに私から体を離す。「大学、今日は行くの? 朝ご飯は?」

「今日は行くわ、さすがに行かなくっちゃ感じよね、ちょっと頭痛がするけど平気、朝ご飯も食べるわ、あ、その前にシャワーを浴びたい、ちょーべとべとしてんのよ、あ、今日はゴミの日よね、先に出してくるわ」

「もう出したわよ、」ショウコは言ってリビングのテーブルの上に並べてある化粧道具の前に戻る。「あ、ユキコ、洗濯だけはしといて頂戴よ、そのワンピースはちゃんとネットの中にいれるのよ」

「はーい、了解です」

 私はショウコの背中に敬礼をしてシャワーを浴びに浴室に向かった。


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