スノウ・インカネーション/四
翌朝目を覚ますと私の腕の中には倫敦パブのママの小さくて華奢な体があった。私とママはなぜか、抱き合うようにして店のソファの上に横たわって眠っていた。窓に掛かるブラインドの隙間から注ぐ朝日に照らされたスヤスヤと寝息を立てているママの顔をまじまじと見つめながら、私は本当に何にも覚えていないんだけれど、ママに何か変なことをしたような気がして怖くなった。一応私もママも服を着ていて激しく乱れた後という状態ではなかった。ママのフレッド・ペリーのポロシャツのボタンが三つとも外れていたのが少し気になったけれど、とにかく喉が渇いていた私はママを起こさないように彼女が枕にしている自分の腕をそーっと引き抜いてそーっと立ち上がりソファから離れてカウンタの中に入り冷蔵庫を開けて冷えたコーラのペットボトルを手にし飲み、喉を潤した。私は汗で粘りつく前髪を掻き上げ今日はまだマシだと思った。二日酔いは昨日の朝に比べれば全然だった。それでもふらふらするけれど、酷い吐き気に襲われた昨日の朝に比べれば全然マシ。昨晩も調子に乗って滅茶苦茶飲んだような気がするけれど、ママは私が飲むお酒は私が分からないと思って薄めがちだ。だから今日は大丈夫、と思ってふうっと大きく息を吐いたところでやっぱり頭痛が痛いって思った。私はコーラをもう一口飲み、帰ろうと思った。そのタイミングで店の奥のステージの横に位置するトイレから水が流れる音が聞こえて扉が手前に開いてバーテンダの高杉が姿を見せた。高杉は疲れ切って衰弱しているという風な窪んだ目元で私のことを見て肩を動かすくらいのオーバな溜息を吐き冷たい口調で言った。「おはようございます」
「おはよ、」私は出来る限りの朝の顔で高杉に返した。「その大きな溜め息は何なのよ?」
高杉はネクタイもベストもはずしていてシャツもだらしなくズボンから出していてベルトも緩めて細いズボンを腰で穿いていた。ホストみたいにセットした黒髪のショートヘアは少し乱れていて顔色は青白かった。高杉は白人みたいに肌が白くて普段も顔色は悪いのだけれど今はさらに悪かった。高杉はバーテンダのくせにアルコールに弱いのだ。高杉は私と同じ二十歳だが学年は私より一つ下で、倫敦パブで働き出してまだ半年くらいしか経っていない新米だった。高杉は学生ではないので倫敦パブにほぼ毎日出勤していて店から徒歩五分のところにあるママのマンションの一室で暮らしていた。詳しい経緯を私は知らないが、要するに夢も希望もなく行く場も家もなかった路地裏に放置された段ボールの中の子猫のようになっていた高杉をママが拾って来たのだ。最初、高杉に会ってその目を見たとき私は夢も希望もなく行く場も家もなくなると完全に目の色がなくなってしまうんだと知って驚いた。白目に同化するように黒目が輝きを失って白と黒の境界が解けるように曖昧になって小さくなり何にも見えてないみたいに動かなくなり瞬きの回数も極端に少なくなる。高杉は捨てられた子猫の目をしていたのだ。その頃から比べると高杉の目は輝きを確かに取り戻していた。動きも機敏になった。素敵な笑顔も見せるようになった。けれど高杉はたまに、グラスの磨いているようなときとか氷をアイスピックで砕いているときとかBGMの曲の変わり目とかに、何かに怯えるような目をして動かなくなるときがある。捨てられた子猫だったときの絶望的な状況を思い出して何も出来なくなるのだ。そのときは呼吸すら止まってしまっている。高杉は自らの過去をまだ解釈出来ていないのだ。過去を腑分けしてそこに入り込み解釈しなければ、絶望的な思い出の訳の分からなさ加減に惑い何も出来なくなって呼吸すら出来なくなる状態を消去することは出来ない。私もかつてそうだったから分かる。私は自殺をしようとして左の手首を包丁で抉って救急車で病院に運ばれてから一年間はそういう状態だった。そういう状態から抜け出すためには必要なのはとにかく、脱出するという強い意志だ。
高杉はゆっくりとした動きでカウンタ席に座った。ソファに眠るママの姿を一瞥してまた高杉は大きく溜息を吐き私のことを睨むように一瞬見て手で額を押さえて視線を落とした。
「頭痛いの?」私は聞く。
「……はい、少しだけ、」高杉はズボンのポケットから頭痛薬を取り出した。「それ、頂けます?」
「はい、」私はコーラを高杉に渡す。「結構飲んだの?」
高杉はコーラで錠剤を流し込んだ。「ユキコさんが無理やり飲ませたんでしょう?」
「そうなの?」私ははぐらかすように笑った。
「そうですよ、」高杉は小さくげっぷをした。「覚えてないんですか?」
「困ったことに記憶にありません、ブルース・ハンド・ミー・ダウンを歌ってからの記憶が跳んじゃってるの、私、何か粗相はしてなかったかしら?」
「別に普段通りでしたよ、ユキコさん、いつも通りのハイ・テンションで、お客さんの頭叩いたりお尻を蹴ったりしてましたけど、ええ、いつも通りでしたよ」
「そう、いつも通りね、」私は小さく頷く。「ならよかった」
「ただちょっと昨日は、」高杉は形のいい大きな目で射抜くように私の顔を強く見ていた。「……いえ、なんでもありません」
「え、何? 言ってよ」
「後でママに聞いて下さい」高杉は視線を私から外して不敵に笑う。何かに苛立っているようにも思えた。
「何よ、それ、私、ママに何かしたの?」
高杉は返事をせずに煙草に火を点けて煙を吐いた。そして「ふあぁ」と子猫みたいに欠伸をした。
「……な、何よ、教えなさいよ、教えなさいってば」私はママに何かをしてしまったんじゃないかって恐怖を押し隠しながら高杉を睨んだ。
「だからママに聞いて下さい」高杉が睨み返して来たので私は吃驚した。その視線には少し、軽蔑の色が見えて私は狼狽えなくてはならなかった。高杉がそんな目で私のことを見たのは初めてだったからだ。
「……何よ、何なのよ、何なのよ、そんな目で見るんじゃないよ、高杉、私の方が年上よ、分かってる?」
「そんな目ってなんですか?」高杉はそんな目で私のことを見て来る。「何言ってるんですか、ユキコさん?」
「てめぇ、」私は静かに唸るように言う。「この野郎、私を脅迫してんのか?」
「だから何言ってるんですか?」高杉はそんな目を変えない。「っていうか、帰らなくていいんですか? 大学は?」
「今から帰ろうと思ってたのよ、じゃあね、お疲れ様」
「はい、お疲れ様でした」
高杉は煙を吐き、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。「……帰らないんですか?」
私はまだカウンタの中にいて怖い顔をして高杉を睨み続けていた。
その怖い顔の前で私は手の平を合わせて優しい声を小さく出した。「私、何したのよぉ、お願いだから教えてよぉ、高杉ぃ」