スノウ・インカネーション/三
沖ノ宮市は夜の九時。
「ユキちゃんってまだ処女だよね」
倫敦パブの常連の佐久馬さんが、私が処女かどうかっていうことを人懐っこい顔をして確認して来たのはこれで六度目だった。BGMはピチカート・ファイブのベイビー・ポータブル・ロック。
「処女じゃありませんよ」私は笑顔で返答する。男とやったことはないけれど女子とだったら何度もやったことあるから自分は処女ではない、と私は思っていた。だから私は処女じゃない。っていうか、そんなの本当にどうだっていい。
「いいや、違うね、」角ハイボール二杯で酔っぱらって顔をピンク色にした佐久馬さんはカウンタから身を乗り出すようにしてニヤニヤしながら首を振る。そしてカウンタテーブルの上に置いていた私の右手を触って裏にして手相を指でなぞって言う。「ほら、ユキちゃん、見てよ、この線だよ、これが処女線って言ってね、処女にしかない線なの、だからユキちゃんは処女なの、そうでしょ?」
「だから処女じゃねーし」
「いい加減認めちゃいなよぉ、処女だって言っちゃいなよ、別に処女だからって恥ずかしいことなんてないよぉ」
「んふふっ、ああ、もうっ、止めてくださいよ、」私は指で手相をなぞられてくすぐったくて笑って手を引いた。「手相なんてただ皺でしょ、手相で人間の全てが分かるとでも思ってるんですか? もしかして莫迦ですか?」
「いいや違うよ、私はね、何も手相で人間の全てが分かるとは思ってないよ、そんなこと思っていたら莫迦だよ、大莫迦野郎だよ、でもね、私は手相の中でも処女線だけは信じるよ、だって処女のユキちゃんに処女線があるんだから私は信じるよ」
佐久馬さんは今までも鼻の形とか耳の形とか唇を舐める回数とか好きな飲み物とか好きな食べ物とか好きな動物とか好きな色とかお風呂で最初に洗う場所とか生年月日とかで私のことを処女だと勝手に決めつけていた。おそらく全部、根拠なんて一切ない佐久馬さんの出鱈目だ。佐久馬さんは私に処女性を求めている。要するに倫敦パブのただのウェイトレスの私のことをアイドル視しているのだ。そんな風に私のことを見ているお客さんは佐久馬さんだけじゃなくて他にもいて、佐久馬さんだけが特別というわけじゃない。
「だから処女じゃないって言ってるでしょ?」
私は佐久馬さんを睨み付けて角ハイボールの十倍くらいの値がするお酒で一杯になっていたジョッキを空にした。そのお酒のお代はもちろん佐久馬さんの伝票に記載されている。アルコールでハイになった私は空のジョッキを頭上に持ち上げて店内に響くように声を張り上げる。「さあ、次は誰が私にお酒を奢ってくれるのー!?」
すると今までテーブル席やカウンタの隅で静かに飲んでいたお客さんたちが私の周りに集まってきた。それらのお客さんたちも佐久馬さんと同じように倫敦パブの常連で私のことを気に入ってくれているお客さんたちだった。お客さんたちは競うようにママに高いお酒を私のために頼んでくれた。バーテンダの高杉は手際よくお酒を用意して私の前に置いた。私は朝に死ぬほど酔って吐いていたことなんてすっかり忘れてケラケラって莫迦笑いしながらお酒を次々にきっと炎症を起こしているはずの胃袋に流し込みお客さんたちとの会話を楽しんでいた。ママはお客さんたちが高いお酒を注文するたびに上機嫌になって気付くと店の奥のステージでスピッツのクリスピーを歌って踊っていた。ショウコはまだ店に来ていなかった。残業になったのだろう。よくあることだ。
「ユキちゃんも一曲歌ってよ」
ママの歌が終わって拍手喝采の中、お客さんの誰かがそう言ってママの手招きに応じて私はソファから身を起こしふらふらの足取りで歩き一段高くなったステージの上に立ってマイクを持った。
「何歌う?」ママが聞く。
「何でもいいよ、ママ、」私は首を横に振って目を見開き咳払いをして歌う準備をした。「勝手に入れて」
「よし、それじゃあ、」ママは下唇を舐めてデンモクを操作した。「これだ」
ママが選んだ曲が私の背後の画面に表示され倫敦パブは沸いた。
異様に盛り上がっている。
ヴィンテージ・トラブルのブルース・ハンド・ミー・ダウン。倫敦パブのスピーカの低音の強さに体が震えた。この曲は私の最近のテーマソングでそのことを常連さんたちは知っていた。テンションが一気にハイになった私は五センチくらい跳躍して「あーっ!」と声を破裂させた。ブルース・ハンド・ミー・ダウンのミュージック・ビデオのように常連さんたちはステージを囲み踊り出した。私はエプロンを解き捨て、その中で狂ったように歌い、舞い踊った。