スノウ・インカネーション/二
倫敦パブの開店時間は沖ノ宮市の夜の七時で、私はその一時間前に店に来て開店準備を手伝っていた。結局私は今日も大学には行かなくってショウコのマンションから直接、自転車をゆっくりと漕いで、沖ノ宮市駅前の倫敦パブまで出向いたのだった。私は自分の白くて細い腕に特別力を入れず、どちらかというと力を抜いて、昨晩のアルコールはまだ完全に抜け切っていなくってかったるいなと思いながら、小さくスピーカから聞こえているスピッツのロビンソンのメロディに体を揺らしながら、テーブルを拭いていた。私は倫敦パブのウェイトレス、という肩書きなので、黒と白の市松模様の素敵な、襟の丸いワンピースの上に黒いエプロンを纏って一応、それらしい格好をしていた。テーブルを拭き終えて、私は窓際のサボテンにスポイトを使って水をあげていた。するとエプロンのポケットに入れていたスマートフォンが鳴り始めた。まるで屋根が鋭く尖った教会のベルが大きく揺れるような着信音が響いた。その着信音が鳴るときの条件は一つしかないので、私はスポイトをサボテンの鉢の中に置き去りにしてソファに座り居住まいを正して灰皿を手前に引き寄せ煙草に火を付けて短く煙を吐いてから、教会のベルを鳴らし続けているスマートフォンの画面を確認して、着信に出る。
「もしもし、ユウリ?」
「うん、ユウリだよ」
その愛らしい声を聞いた途端、白い煙を吐き出していた私の表情は自然勝手に笑顔になった。一時的にどこかに仕舞われてしまっていて静かだった感情が跳ね起きて、血液に熱を与えて私の頬をひくひくと動かした。私はひくひくする頬をぺちんと手の平で軽く叩き麗しい声がきちんと出るように小さく咳払いをして喉を調節する。「なぁに、今日はどうしたの?」
「えっと、お姉ちゃんとお話ししたくって」
電話の向こうで私のことをお姉ちゃんと呼ぶのは國丸ユウリという名前の少女だった。ユウリは私と十個歳の離れた兄の娘で、つまり私からすれば姪に当たる。ユウリは七歳で、今年小学校に上がったばかりのまだ幼い女の子だった。ユウリは防犯のためにと両親に持たされた子供用の携帯電話でたまに私に電話をかけて来る。ユウリは私にとっても懐いている。だから私がF女子大に進路を決めて故郷を離れるということになったときは本当に大変だった。ユウリは凄く泣いて暴れて両親を困らせた。別れを嫌がるユウリを両親に代わって叱りつけながら私は、ユウリのことをとても愛おしいと思った。ユウリはどこからどう誰が見てもとても可愛い女の子だった。自分のものにしたいって私はこれまで何度思ったか分からない。私だけの天使にしたい。ユウリの両親は仲がいいとは言えず、それにユウリのことに無関心だったから、私は余計に強くそう思っていた。でもそれは普通に考えれば叶わぬ願い。ユウリは私のものにはならないのは当然のことだった。だから私はユウリにプレゼントを贈ったり、お小遣いを上げたり、今みたいにお喋りをしながらこの世界の節度を教えることで、彼女のことを独り占めしたいという欲望を発散させていた。私は無条件にユウリに何かをしてあげたいと思う。ユウリが立派に成長するためならば私はなんだってするでしょう。この気持ちは紛れもない真実で、私は多分、私のことよりユウリのことを考えているときの方が真剣だった。それは離れ離れになっても変わることはない純真な気持ちで、むしろ距離が遠くなったことによって大きく膨らみ続けてしまってしょうがない気持ちだった。私はユウリのことを支配したいと思う。そしてユウリに私に依存していたいって思わせたい。ショウコに支配されることを嫌がる癖に私は、十三歳年下の姪に対してはそんなことを思っている。もちろん矛盾しているとは思う。でもどちらも私の本当の気持ちで、私の心は常々矛盾しているので不思議だとも不自然だとも思わない。
「お姉ちゃんが嫌じゃなかったらお話ししたいの、駄目?」ユウリの声は小鳥のさえずりのようだと思う。
「駄目なわけないでしょう、」私はまるでユウリがテーブルの向かいに座っているみたいそちらにむけて小さく笑った。「それにしてもユウリってば、随分ませた言い方をするようになったのね」
「ませた言い方?」ユウリが首を斜めに傾けているのが分かった。
「ううん、別に、ああ、そうね、何の話がしたいの?」
「なんでもいい」
「私もなんでもいいわよ」
「じゃあ、お姉ちゃんの大学のお話が聞きたい」
「そうね、それじゃあ、大学の話をしましょうか」
そして私は大学の話を始めた。私は文学部で専門は言語学だったが、言語学と関係のない講義も沢山あって、酷く堕落した生活を送っているとはいえ、一応ちらほらと単位を落とさない程度には出席していたため、それらの講義の中から印象に残っているものをピックアップしてユウリに話した。現代日本思想史や近代中国文学や天体史について話した。最終的にはやはり専門の言語学の話になった。私は言語学というものが、あらゆる学問の根源だと思っている。そして天体史というのはその対極にある存在で、天体史というのは言うなればあらゆる学問のハイライトなのだと私は思っていた。だから私はその二つは最低限、この大学時代に触っておかなければならない課題のようなものであると考えていた。学者とか詩人とか芸術家とか政治家とかの前に、人として通過しておかなければならない儀礼なのだと。「要するに哲学ってね、言葉の限界を模索して貫くものなんだよ、発見ではないのよ、拡張なのよね」
そこまで私は気持ちよくしゃべった。学問についてしゃべることによって学問への熱が再燃するような気がした。こんな風に学問についての自らの考えを語ることって中々出来ないから、そのためには何も言わずに耳を傾けてくれるだけの純真無垢で天使のような少女の存在が必要だ、この時間は貴重だった。学問への熱はまだ完全には冷めていないのだと私はこのときに確かめることが出来た。明日は大学の図書館に行って言語学に触れようと決めた。「ユウリ、どう? 私の話、分かった?」
「ううん、」ユウリは即座に返事をした。「全然分かんなかった」
当然だ。私は七歳のユウリに分かるように簡単な言葉を使って話そうとは思わなかった。専門的な話をしているのだから正確さがそこになければいけない。七歳の若い頭脳に間違いを伝達するのは罪なことだし、間違いをなるべくゼロに近づけるように言葉の限界を探りながら核心を突く姿勢をあらゆる状況で持っていなければ言語学を志す者としては相応しくない。だから中途半端に理解するくらいなら何も理解すべきではないと思って私はユウリに専門的に話した。理解して欲しくない、ということでは決してない。私はユウリにあらゆることを間違って欲しくないのだ。そしていつかはユウリも私と同じように言語学や天体史に触れて包まれて同じような気持ちを抱いて欲しいと思う。「そう、でもユウリならいつか分かる日が来るわ」
「分かんなくっても私はお姉ちゃんとしゃべってるだけで楽しいよ」
「小学校はどう?」
「つまんない」
「そう、私も面白くなかったな、小学校って、ほとんど記憶にないの」
「そうだよね、つまんないよね、お姉ちゃんがそう言うんなら学校ってつまんないんだね、ああ、学校に行きたくないな」
「学校には行かなくちゃ駄目よ、ユウリ、つまらなくっても行かなくちゃ駄目、どうしてか分かる?」
「どうして?」
「強くなるためよ」
「学校に行っていれば強くなれるの?」
「ええ、そうよ、学校に行ってもつまらないし、怒られたり、嫌なことがあるかもしれない、でもそれから逃げていたら駄目なのよ、逃げていたら弱くなっちゃうの、でも逃げないでつまらないことにつまらないって言って、怒られたら言い返してやって、嫌なことがあったら嫌って叫んでやれば強くなるの、場合によっては暴力的な手段に打って出たって構わない、要するに黙って我慢しているだけじゃなくって思いを吐き出して学校に抵抗するのね、弱い自分を否定して強い自分を肯定して抵抗し続ければ強くなれるわ、強くなればなんでも出来る、これは間違いじゃないわよ、私が言いたいこと、分かった?」
「うん、分かった、」ユウリは明るく返事をした。「抵抗すればいいんだね、抵抗すれば強くなれるんだね、間違いじゃないんだね」
「そうよ、抵抗は間違いじゃない」
「抵抗は間違いじゃない」ユウリは私の言葉をゆっくりと繰り返した。
ユウリは何かを決心したようだ。しかしその決心についての具体的なことは遠くにいる私には推測すらも難しかった。「あ、ユウリ、またユウリの写メ送って欲しいんだけどいいかな?」
電話を切った後、すぐにユウリは写メを送ってくれた。ピースサインの横のユウリの顔は前に送ってくれたものよりも少しだけ成長しているように思えた。幼い天使は私がいなくてもきちんと成長している。それは嬉しくもあり、また寂しくもある。結局私はユウリの叔母以外の何ものでもなく、他人なのだ。天使を産み落とし天使に乳を呑ませた義姉には決して敵わないのだ。義姉がユウリを愛していようが愛していまいが、天使を出産したということは、天使と他人でないという真実を揺るぎようもなく証明する。私はユウリと他人ではないということを証明する何かを持っていない。ユウリが私に関心をなくして電話を掛けてくれなくなったらそれでもう、私はユウリにとってはただの叔母さんになるわけだ。私には何人かの叔母さんがいたはずだけど今では名前はおろか顔も思い出せなかった。ユウリが私の名前と顔を忘れてしまうなんて凄く嫌。そう思いながら私はユウリが送って来てくれたばかりの写メをじっと見つめ続けていた。本当にユウリは可愛いな。食べちゃいたいな。そんな歓喜と悲哀が複雑に入り混じった笑顔をしていたからだと思う。
ママは私のことをむっと睨んでいた。
「なぁに、笑ってんだよ、」テーブルを挟んで向かいのソファにはいつの間にかママが座っていた。ママは煙草の白煙を私に向かって浴びせかける様に吐いた。「私の前で堂々とサボってんじゃねぇぞ、この野郎」
ママは口は悪いけれど小さくて幼さが残る優しい顔立ちをしているので全然怖くない。ママは二十九歳だが中学生って言われれば簡単に信じてしまえる外見をしていて、今まで何度補導されかかったか分からないと言っていた。煙草を吸うママの姿には、どこか愛くるしいものがある。煙草を挟む右手の甲の血管が太く浮かんでいて、それだけが彼女の正確な年齢を示している。
「見てよ、ママ」私はユウリの写メがママに見えるようにスマートフォンをテーブルに置いた。
「ん、何よ?」ママは煙を大きく吐いて画面を覗き込んだ。
「私の姪のユウリちゃんよ、ユウリのこと話したことあるでしょ、どう、可愛いでしょ?」
「……可愛いけどさ、」ママは画面をじっと見てそしてなぜか私の顔をじっと見てまた画面に視線を戻す。「いや、可愛いけどさ」
「可愛いけどなんなんです?」
「お前に似過ぎでしょ、お前、どんだけ自分のこと好きなんだよ、このナルシストっ」
「え、似てないですよ、全然、似てないですよ、似てるなんて思ったことないっすよ」
「じゃあ、ピース作って、この娘と同じ顔してみなよ」
「え、こ、こうですか?」私はピースサインを頬に当て、少しアヒル口を意識してみた。
「はい、チーズ、」ママは私のスマートフォンで私のことを撮ってこちらに画面を見せる。「ほれ、そっくりだろうが、な?」
私は、ユウリと同じポーズをした私の写メを確認した。「……いや、似てないでしょ、……いや、確かに少しは、ちょーっとは、なんとなく似ているような気がしないではないですけれど」
「私から見ればそっくりなの、まあ、血は争えないってことよねぇ」
ママが言った血というワードに私は反応した。心が少し揺さぶられた。私はユウリのことを産み乳を与えた母親ではないかもしれないけれど、血は薄くとも繋がっている。兄を経由して繋がっていてユウリは私に少し似て来ている。私は笑った。
「なぁに、笑ってんだよ、この野郎」