スノウ・インカネーション/一
「……ユキコ、ねぇ、ユキコってば」
曾我ショウコは魔性に微笑みながら、私の左手首の裏にある斜めに走った指先で振れるとそこにあるはずの何かが抉り取られたようだと思える傷を温めるように、手の平を私の手首の裏に擦り続けていた。二日酔いのせいか、それとも微睡から無理に覚醒したせいか、それとも彼女と半日間ベッドの中でセックスをし続けたせいか、とにかく頭が壮絶に痛かった。喉も痛んだ。口の中はカラカラに渇いていて歯茎とか舌先とか頬の裏の奥歯に近い部分がなぜか爛れてしまったように痛かった。私は手を伸ばして枕元に置いたはずの煙草の箱を握り締めた。揺すってみて箱が空っぽなのを確認して口の中で小さく舌打ちしてそれを小さな円筒形のゴミ箱がある方向に投げて、それがゴミ箱に入ったか確認することなく、煙草を吸ってもこの喉の渇きと頭痛はどうにもならないでしょうからとにかく冷たい飲み物で喉を潤そうと私は思った。そう思った瞬間に私は猛烈な吐き気に襲われて慌ててベッドから這い出てほとんど四足でトイレに駆け込み便器に向かって咳き込んだ。どことなくエフェクトの効いたエレクトリカルな音を響かせながら、私は嘔吐した。昨日食べたものはまだ完全に消化されていなくて形や色が残っていてあまり自分の吐瀉物に見慣れていない私は便器の中に溜まって一部は水に浮かんだそれらをまじまじと観察してしまった。汚い。でも面白いな。でも吐瀉物の内臓を刺激する強い匂いに私はやられて一度で全て吐き出したと思ったのに最初に吐いた三倍もの量をまた吐き出してしまった。嘔吐の苦しさに悲しくもないのに涙が溢れて出ていた。私はトイレットペーパを手繰り寄せ涙を拭ってから口を拭いてそれを丸めて便器に捨てて水を流した。私は四つん這いでトイレを出て洗面所で口を濯ぎ、顔を乱暴に洗いタオルでごしごしと顔を乱暴に拭いた。その時鏡に映った私は涙目で、白目は充血して細い血管が浮き出ていた。少し頬がこけている自分の顔を見つめて、なんて儚げで、なんて綺麗な女がそこにいるのだろうと私は思った。口の中は胃酸の嫌な匂いが充満していたけれど私の自分の儚げな綺麗さを確認して嬉しくなった。私はパンツを履いていなかったがTシャツは着ていた。色は黒。サイズは大き目で、私のお尻まですっぽりと隠してくれる。パンツを履きたくない夜に纏うのにうってつけのその黒いTシャツは、私が通っていた高校の軽音楽部のロックンロール・バンドが学園祭の時に作ったもので、胸元には白勝ちの桜錦が孤独に泳いでいる。
二十歳の私は一年間の浪人生活の後、故郷G県から離れK県にあるF女子大に進学して、ショウコという二十八歳の綺麗な大人の女と同棲していた。二人には共通点があった。私も彼女も、二人とも女が好きな女だった。要するにレズビアンだった。
「ちょっと、ねぇ、ユキコ、平気なの?」私と同じ量かそれ以上のアルコールを飲んだはずなのに顔色が全く悪くない、むしろいいくらいのショウコが煙草の煙を燻らせながら洗面所の鏡に映り込んで聞いた。
「頭が痛くて死にそうだわ、」私は鏡の中のショウコを睨み付けるよう見て言った。「手足も痺れちゃってて、血液が流れていなくて細胞が腐ってる感じがするわ、上手く立っていられないの、ふらふらしちゃって、とにかくね、腐ってる感じがするわ」
「腐らないよ、」ショウコは小さく、上品に笑う。「薬飲む?」
「平気よ、寝てれば、」私は洗面台の横の洗濯機の中にタオルを投げ込み言った。「ああ、今日は学校に行けるかしら、行けそうにないわ、きっと今日も一日中寝ちゃうんだわ、ああ、なんて堕落した生活なの、こんなはずじゃなかったのにな」
「こんなはずじゃなかったらどうなるはずだったの? とにかく夜までには起きてお店に顔出しなさいよ、」ショウコは腕を組み、首を斜めに傾けて言う。「ユキコ、人気者なんだから、ママも毎日出勤してくれないかしらって言ってたわよ、君は大事な戦力なんだ」
「それじゃあ、ショコちゃん、夜までに起きられるように目覚まし時計のアラームをセットしておいてちょうだいね」私は言いながら洗面所を出て寝室に戻った。
私はママと呼ばれるオーナがいてカウンタの後ろに様々な形のお酒の瓶が並んでいてフロアの奥には一段高くなったステージがあってカラオケが出来てBGMに常時ピチカート・ファイブとかオリジナル・ラブとかスピッツとかが流れているようなパブでアルバイトをしていた。パブは「倫敦」と言って今時信じられないような名前だと最初の店先にポツンと立ったネオンを放つ倫敦の看板を見つけたときに思った。アルバイトと言ってもシフトが明確に組まれているわけじゃなくてお客さんが多くて忙しい金曜日とか土曜日とか日曜日とかを除いたら私はほとんど気紛れで倫敦に出勤していた。お酒を飲みたいときとか、学費の支払いに追われているときとか、どうしても欲しいアクセサリとか洋服とかがあってお金が必要なときとかに出勤していた。今では私とお酒を飲みながらおしゃべりをするために倫敦に通っているお客さんが二十人くらいいた。そのうちの何人かに私は高価なアクセサリをプレゼントされたことがある。その高価なアクセサリのほとんどを私はお金に換えて学費にした。お客さんがくれるアクセサリのほとんどは手を叩いて笑いたくなるくらいダサくて、とても綺麗な私が身に付けていられる種類のものではなかった。けれどお客さんがくれるプレゼントの中で気に入っているものも一つだけあった。それはディーゼルの腕時計で、多分二万円か三万円くらいの、私がもらうにしては非常に安いプレゼントだった。けれど最近の私は外出する際、それを右の手首に装着していた。そのディーゼルの腕時計の盤面はとても大きくてその中央には世界地図のシルエットが刻印されていた。私はその腕時計を初めて手にした時にこの世界を手に入れたような気になった。腕時計を私にプレゼントした人はF女子大の准教授で専門は天体史だった。要するにこの世界を解釈しようと試みている人だった。
その人はもしかしたら私に世界をプレゼントしようとしたのかもしれない。
「夕方の四時にセットしておくよ、」寝室に戻り、枕元の目覚まし時計をセットしながらショウコは言った。「ちゃんと起きて、お店に来なさいよぉ」
ショウコとは倫敦で知り合った。昼間のショウコは普通のOLだが、夜になるとドレスを纏って歌姫になる。その歌姫のステージを目撃した私は、彼女に眩惑され悩殺され学問の意欲をほとんど失ってしまったのだった。いや、学問への意欲を失いかけ、精神的に弱ってアルコールで酩酊していた時に、付け込まれたというのが適切だろう。開きかけていた左手首の傷から鋭い角度で彼女は私の中に侵入したんだ。私はカウンタ席で静かにビールを飲んでなんていられず「きゃあ」っと彼女の歌声に感激してしまってしょうがないという風に奇声を上げて彼女の注意を引き酔った振りをして、ビールのジョッキはまだ半分しか減ってなかった、キスを迫った。そんな大胆な行動を起こしてしまった夜からほどなく、ショウコは自分がレズビアンであることをレズビアンの私にカミングアウトして、あれよあれよという間に私はショウコのペットみたいになってしまったのだ。
「へいへい、ちゃんとお店には行きますよぉ」私は枕に顔を埋めたままショウコに空返事をする。「分かってるわよぉ、ちゃんと自分の生活費くらい稼ぎますよ、お納めしますよぉ」
「え、違うって、別にお金を入れろって、そういうことを言ってるんじゃないんだって分かってる?」ショウコはヒステリックに言って、私にハッキリ聞こえるように盛大に舌打ちした。「……っていうか、そういう話はしないって前決めたよね?」
そういう話はしないって前決めたかどうか、私はすっかり忘れてしまっていたがショウコは何回も同じことを言うので確かにそういう話はしないってことを二人は以前に決めたんだと思う。そういう話っていうのは具体的には二人の生活費についてのことで、同棲することを決めて私が以前住んでいたアパートから退去するとき、私はショウコに生活費くらいは入れると言った。別にそんなのいらないよ、ショウコはそう返事をしたが完全に彼女のペットみたいになるのが嫌だった私はその時は毎月三万円くらいはショウコに、例え彼女が受け取らないと言っても、渡そうと思っていたのだ。しかしいざ同棲が始まりありとあらゆる面倒をショウコが見てくれるようになると持ち前の甘ったれがすぐに出て来てしまって、それまで必死でやっていた様々なアルバイトを、倫敦を除いて、私は辞めてしまったのだった。私はショウコに謝った。「ごめん、ショコちゃん、今月はお金払えそうにない」ショウコは謝った私に軽く笑ってから「え、そんなの最初から期待してないよぉ、」と優しく言った。「むしろ私は嬉しい、バイト辞めてくれて、ユキコと過ごせる時間が長くなったから、私は凄く嬉しい、ユキコはお金のことなんて考えなくていいんだよ」
そのショウコの優しい言葉に私はちょっぴりヒステリックになった。最初から期待してないよ。ショウコはまるで怠惰な私のことを最初から見抜き知っていたという風に言った。莫迦にされたみたいだと思った。ショウコは私のことを莫迦にした。ユキコって生活力のない女なんでしょ? だったら私がご飯を食べさせてあげる。何も心配しないでいいんだよ。ユキコは怠惰で莫迦なままでいていいんだよ。そんな風に言われたような気がした。ショウコの優しさは痛かった。ショウコがそんな気で発した言葉ではないのかもしれないけれどそれは確かに、私の心を抉る一撃だったんだ。ヒステリックはその瞬間にバチバチっと弾けた。ショウコに向かって悪い言葉を怒鳴り散らしてやろうかとも思った。しかしそのヒステリックが冷えて完全に消えてしまえば、私はお金のことを心配しなくていいんだと安心して、笑顔までショウコに見せた。時には、ショウコの凝り固まった肩を揉んであげたりもした。ユキコはいい娘ね、とショウコは私の頭を撫でる。「ユキコの頭を撫でるのが私は好きよ」
ショウコは頭だけじゃなくて私のあらゆる部分を撫でるのが好きみたいだった。私はショウコに撫でられるたびに猫みたいになって可愛く鳴いた。ショウコは私のことを完全にペットにしようとしていた。それはほとんどそのままの意味だ。私は確実にショウコのペットになりつつあった。そしてショウコはペットの私にお金以外の何かを期待しているように思えた。猫みたいな癒し効果以外にもショウコは私に何かを期待していてそれは偶に言葉となって出て来て私を攻撃してきた。ショウコは私に社会的な成功を期待していた。私が学者になったり芸術家になったり詩人になったり政治家になったりして未来に成功するということを、真剣に、期待しているようだった。中小企業のOLとパブの歌姫の対極はショウコにとってはどうやら学者や芸術家や詩人や政治家のようで、その対極の存在にショウコは無条件に憧れているようだった。ショウコは自分の憧れを私に押し付けてくる。強く、ぐいぐいと押し付けてくる。「ユキコは賢いから、そういう風にならなくっちゃいけないよ、そういう風になるのが相応しいって思うよ、絶対にね」
学者にも芸術家にも詩人にも政治家にも縁遠いと感じる私は、ショウコと未来の話をしていると途方に暮れて息苦しくなった。私はそんな夢物語を考えるのが嫌だった。しかしだからと言って現実的な今と未来を考えるのはもっと嫌だった。とにかくショウコに何かを期待されると途方に暮れて苦しくなって何もかも手に付かなくなってしまうので月三万円の生活費はどうにかして払わなくちゃならないと私は強く思っていた。月三万円の生活費さえ払っていれば彼女の期待に呑まれて窒息することはないような気がした。けれど私のヴィトンの財布はお金を留めていくということが出来ないようだった。お金はなんだか、自然勝手になくなっていった。ないのだからしょうがない。私はショウコのペットのまま口をだらんと開けて食事をして、たまにふらりとショウコのいない昼間に一人東京まで出てつまらないミュージカルを見てサングラスを掛けてロックンローラを気取って渋谷の街を歩いてお土産に東京ばな奈を買って帰るような何の生産性のない生活を私は楽しんでいた。ショウコに依存する生活を満喫しているのも事実だったのだ。
けれど私は完全な彼女のペットではいたくはなかった。
彼女よりも優位に立っていたい。
支配する側に回って安心していたい。
私は本質的に、そちら側の女のはずなのだ。
「……分かってる、分かってるわよ、うるさいな、私は酔ってるの、頭痛いの、黙ってて、寝かせてよ、ショコちゃん」
「……たく、もう、」ショウコが舌打ちをして大きく溜息を吐くのが聞こえた。「朝ご飯は食べられる?」
「朝ご飯? 何言ってんの、まだ夜でしょ、深夜でしょ」
「もう朝だよ、朝の七時だよ」
「え、マジで?」私は枕の下に隠れていたスマートフォンを見て時刻を確認した。間違いなく朝の七時だった。深夜二時くらいかと思っていたのにすでに朝の七時だった。カーテンに視線をやれば角度のない太陽の光に照らされてほんのりと明るかった。
「ちゃんとパンツ履いて寝なよ、」ショウコは私の頭を優しく撫で寝室から出て行った。「ああ、早く支度しなくっちゃ」
私は太陽から逃げるように布団を頭まで被って目をぎゅっと瞑った。
今日も一日が始まっている。
始まり出している。
時間が経つのが怖くて堪らなかった。
この堕落した生活からは脱出したいとは思う。
でも失いたくはない。
私の二十歳って、そんな日々。