次へと向かう物語 巫女の後悔 息子の涙 祖母の苦悩
神殿では再び布団に潜りこんだ、凛火が先ほど霧雨に対して怒鳴ったせいで完全に目を覚ましたヒノと独り言の様な会話をしていた。
「ヒノの父親って、霧雨なのか?」
「あう、えう、えう、むう」
良く分からないと言っている気がした。
それだけで凛火は少しホッとする。
「小さい頃から私の側に居てくれて楽しく遊んだり、家や向こうの家でお泊まり会をしたり、そんな関係のまま留学して居なくなって、戻ってきたら異性として好きだったなんて言われても自分の感情が分からないんだ」
「むう、むい、あ、きゃっ」
今は考えなくても良いんじゃないかと言っている様な気がした。
ヒノはとても良い子だ。
「そうだな、今はお前を育て上げて神様にしないとな。でも、どうやったら神様になるのか、分からないぞ。試練をすべて終わらせればいいのか、というか、試練はいくつあるんだ」
「むい、むい、もう、ぱあ」
人生は長い、気長にやればいいと言っているような気が……する。
「そうだよな、お前が本当に何を言っているかなんて私でも分からない」
本当の所、ヒノが何を言っているのか分からない事に恥ずかしながら凛火は今気づいた。そして同時に思った。言葉を交わせればこの先の試練が容易くなるのではないかと、それならば危険に晒されることも少なくなるだろう。
何より、凛火自身がヒノと確かな疎通を求めていた。
「人と神様の子供なのに言葉が喋れないなんて不便だよな、ヒノとお喋りが出来たらもっとお互いが仲良くなるのに」
そう言えば、赤ん坊は口をパクパクとさせる。
「あう、いう、えう、おう、まん、ま、まうううう」
無理して喋ろうとして、でも出来ないから更に必死に口を動かす姿は可愛らしい。
(ああ、認めよう、お前は可愛い私の息子だ)
自分の子ではないとあんなに否定しておいてなんだが、凛火のために一生懸命頑張ろうとする姿は愛おしさを募らせるには十分な材料だ。凛火の中で最早ヒノを否定する気持ちは微塵もない。
「いいよ、悪かった、仕方ないんだよな、神様だって万能じゃないんだから」
落ち込んでいる様に見えるヒノの頭を優しく撫でると瞳を閉じた。そして眠りについた。
「まう、まう、まま、ママ」
ヒノは確かに人神の子、人の成長は年月を掛ける、しかし、同時に神である部分がその成長を飛躍的に加速させる事を凛火はこの時知らなかった。
「ママ、ママ」
心臓の鼓動が刻まれるようにヒノの体が小刻みに震える。
「ママ、ぼ、う、の、ママ」
ヒノの体から湯気のような白い靄が浮かび上がる。
「ママ、ぼくのママ」
メキメキという音が聞こえる頃にはヒノの体は白い靄に包まれて姿が見えない。
「ママ、僕のママ。僕だけのママ」
骨のきしむ音、肉が生まれる音、人によっては不快に思う音が神殿に響く。
「大好きなママのお願い。僕もお話大好きだからがんばる」
愛する母親の望みとヒノ自身の望みが、強く作用して短時間で奇跡を起こす。
神殿に差し込む朝日と体を揺らされる衝撃、何より布団の中が蒸し暑くて目を覚ました。
ぼんやりとした視界に赤ん坊とは違う大きな存在が居る事に気づいて目を擦る。
「ママ、凛ママ」
視界が鮮明になると四、五歳くらいの少年が視界に入る。黒の短髪で前髪が少し赤み掛っているのが特徴といえば特徴で、どことなく幼い自分に似ていた。
(あの頃の……私)
寝起きで働かない頭が導き出した答えが、徐々に覚醒へと導く。
子供特有の柔らかい頬を赤く染まらせ、嬉しそうに笑っている。
少年は立ち上がるとはち切れたベビー服を脱ぎ捨て、凛火に姿を見せる様にくるりと回った。危なげに一回りし終えると短い両手を広げる。
「僕だよ、ヒノだよ。いっぱいお願いしたら大きくなれた、これで凛ママと話せるね」
ヒノは自分と同じように凛火も喜んでもらえると思っていた。
ところが、当の凛火は目を大きく開いて驚愕していた。それが、嬉しさからくるものではないことをヒノは感じた。
驚愕しすぎて言葉が出せないのか凛火は荒々しく口から息を漏らしながらヒノから離れようともがいている。
母親の尋常じゃない行動にヒノは落ち着かせる意味を込めて母親の元に歩み寄る。
その瞬間。
「私に近づくな!!」
神殿を貫く様な怒声、近づかれたことによって生じた怯え震える体。
理解するのに一秒も掛らなかった。
自分をおぞましいものでも見る様な目で見ながら出た言葉に愛情と優しさの欠片は皆無だ。
ヒノには分からなかった、母親が求めて自身も望んだこの状況を拒絶の言葉で返される。
分からない、分からないから。
「どうして、お話し出来るのに」
目も会わせてくれなくなった凛火に答えを求めた。理由を教えて欲しかった、直せる所は直したかった、昨日と同じように笑って優しく撫でて欲しかった。
震えた唇から発する言葉はヒノの耳に入る。
「お願い、私の前から消えて。心が壊れる前に、ごめん、もう、愛せない」
そこには笑顔とは程遠い、空虚を見つめ、涙を流す凛火の姿があった。
それを見てヒノは自分の胸に手を当てる。
初めて感じる心の痛みだった。
凛火の涙を見ると辛くてその場に居られないほど心が軋む。
ヒノはその痛みから逃げるように神殿から飛び出した。
やみくもに境内を走っていると丁度、朝食を持ってきていた麻炎と衝突してお互い尻もちを着く。朝食が地面に散らばるのもお構いなしに自分を見て驚いている麻炎の胸に飛び込むと大声で泣きだした。
「お主、どこの子じゃ。六月も後半とは言え、裸でうろついて風邪をひくぞ」
麻炎は取り敢えず羽織っていた上着を着せるとヒノの目に溜まった涙を拭いた。
「どうしたんじゃ、泣いていては分からんぞ。この婆に言うてみ?」
そう言われて鼻水を垂らしながらも涙を堪えて震えた唇を動かした。
「凛ママはヒノって付けてくれたのに、僕を守るって言ったのに、息子だって言ってくれたのに、消えろって……愛せないって、言われたぁぁぁ」
言葉に出すと悲しみが溢れ、涙となって流れ落ちる。両手を顔に覆い、嗚咽を漏らして泣きだした。
言われた麻炎は驚きを見せながらも考える。
「お主、凛火の息子か、一日で大きくなったの。ちょうど五歳位……いかん!!」
ヒノを拒絶する理由を思い至り、ヒノを抱き上げて神殿に向けて走り出した。
この先に待つ凛火がどうか最悪の事態に陥っていないように願いながら懸命に走る。
しかし、神殿の中に飛び込んだときに見た情景は願いを容易く打ち砕くものだった。
凛火は布団の上で仰向けに倒れて動く気配がない。母親のそんな姿を見たヒノは泣き叫びながら麻炎の腕の中でもがく。
「ママ、凛ママァァァ」
抜け出そうとするヒノを押さえつけながら素早く凛火の傍に腰を下ろすと辺りを見回した。
布団の上にはたくさんの白い粒上の物体が散らばっている。
「馬鹿者め、命を軽々しく捨てようとしよって!!」
離れようと暴れるヒノを降ろして言い聞かせる。
「よいか、バァの邪魔をしてはならん。お主の母親を助けたかったらおとなしく見ておれ」
「り、凛ママ、し、死んじゃうの?」
「安心せい、死なせはせん。じゃから、大人しく出来るな?」
落ち着かせるよう、優しく諭せばヒノは頷いた。
麻炎は倒れた凛火を抱き寄せる。動かされたことで凛火の手元に握られた蓋の開いた四角いケースとたくさんの錠剤がその手から零れ落ちた。
「お前は未だにそれを手放せないのか。お前のせいではないというに苦しむか」
口元に手を当て、首筋の脈を測ると僅かに残る命の灯火に僅かな安堵見せる。後は処置を施すだけだ。
ぐったりした体を起こして勢いよく口の中に指を突っ込んだ。喉元を刺激すれば嗚咽と共に口から溶けかけた大量の錠剤や胃液が吐き出された。これで当面の危機は去っただろうと安堵して持っていた携帯電話で救急車を呼ぶ。
数分後、石段を登って救急隊員がやってきた。
担架で運ばれていく凛火を追いかけようと石段から駆けだすヒノを流火が抱き寄せ止める。その様を見届けると麻炎は付き添いの為に救急車に乗り込んで病院へ向かうのだった。