認識するもの出来ないもの 巫女と転校生 親友のいらぬ不安
騒動の後、凛火と赤ん坊だけが職員室に連行され事情説明を求められたが、ちょうど良いタイミングで麻炎からの連絡が教師の耳に入り、神事だという事でお咎めはされなかった。
この神生町に住むものは山側の火ノ打チ神社と海側の水母神社を信仰している。それは直接、自分達を守る事になるからだ。
神生町は山と海に囲まれた自然あふれる豊かな町にして、全国の災厄が集中する特殊な土地でもある。その災厄の溜まり場である神生町を守るのが地域密着型神、男の火ノ打チ処乃神。女の水母滴ル(る)井伊神だ。
特に乃神は火と浄化を司る神であり、溜まった災厄を神火と呼ばれる力で浄化するためこの土地の要となっている。
逆に水母神の力は、再生の雨を降らせ、災厄を薙ぎ払う神炎によって疲弊した土地を潤し、恵みをもたらすことで人はこの土地に町を築き上げられるのだ。
欠けることなく二神が対を成してこそ神生町は平穏で豊かな町と呼ばれている。
職員室を出て赤ん坊を抱いて廊下を歩く姿はすれ違う他の生徒を振り向かせ、二度見させる。それに何故か今日に限って職員室前の廊下は生徒が良く通るように思えた。特に女子生徒が多い。その殆どの女子が校長室の前でひしめき合っていた。
立ち止りその様を見ていると祥子の言葉を思い出す。
「ああ、転校生が来るんだったな。今日は歩行の邪魔になる壁が多いな」
廊下では歓声が響いた。校長室から転校生が出て来たようだ。数多の女子生徒に揉みくちゃされて顔は覗けなかった。
「私が男子生徒にああなったら、お前はきっと炎を使って燃やしてしまうんだろうな」
「あう、あう、きゃっ」
赤ん坊は当然だと言っている様な気がした。
「止めてくれよ、育てる云々じゃ済まなくなる。私はお前を育て上げ自由になりたいんだ」
笑顔の赤ん坊に語りかけると始業チャイムの鐘が鳴り教室に急ぐ。
自分の教室に入っていくと案の定、熱い視線が集中した。しかし、堂々と自分の席へ歩いて行くと自分の席が無い。赤ん坊を連れて浮いた存在の自分に対して酷い仕打ちだと項垂れ、これが所謂いじめかと凛火は考えたが、それは杞憂に終わった。
「凛火、こっちに特別席があるのですよ」
祥子に手招きされた場所は正面から一番後ろの席。そこには自分の席とベビーベッドが置かれていた。ベビーベッドのせいで場所を取るのか、他の生徒達は前に詰められている。
麻炎の要請でこのような処置が学校側で行われたらしい。
なるほど、視線の意味はこう言った状況も含まれているのかと、申しわけない気持ちを抱きながら席へと歩み寄る。赤ん坊をひとまずベッドに寝かせ、席に着いた。
「まるで特等席だな」
「女王様みたいです。さしずめ、女王巫女ですね」
「他の生徒には迷惑を掛けるがな」
「大丈夫です、祥子が説明しておきました。赤ん坊は凛火の親戚なだけあって凄い力を持っていて、あなた達を守りますよって言いました。凛火も巫女の力を覚醒させたので恋愛成就もばっちりですって言ったら快く席を詰めてくれましたのですよ」
赤ん坊が親戚だと一応は説明したらしいが、祥子の説明は色々まずいのでは思わせるところが多々あるだろう。
「私達を御守りや絵馬扱いか、後でどうなっても私は責任取らんからな」
「恋愛とは結局、自分の力で勝ち取るものです」
「それには同感だが、私を頼って失敗した生徒はその言葉を受け入れないと思うぞ」
「その時は素直に怒られてくださいな」
「私だけかよ」
祥子の思考は単純である。だが、それが羨ましいと思う時もあるのだ。
「私も祥子みたいな考えを持てれば楽なんだが」
「そうなったら祥子は凛火を好きにならなかったと思いますから御免です。だから悩んだ時は助けますよ、優先順位、二位ぐらいで」
「一位じゃないのか?」
「当然です、一位は自分ですから」
ニコッと邪気のない笑みを浮かべる。と席に戻って行った。
その後ろ姿を凛火は羨ましく見つめた。
赤ん坊をあやしながら教師が来るのを待っていると教室の入口が開いく。
席つけぇっと掛け声を上げながら男性教師が教壇に立った。
「まず、火野中家の関係で窮屈な席になったと思うが理解してやってくれ。まあ、俺も独身生活が長いから火野中の巫女としての力を頼りたい」
教室は笑いに包まれる。凛火にとってはありがたい。巫女の力に恋愛成就は無いが。
「でだ、早速、女子生徒には効果が出たのか転校生が来た、仲良くやってくれ。入れ、水好」
男子教師に手招きされて入ってきた、その姿に女子が歓声をあげた。碧い綺麗な髪を靡かせ、透き通るような白い肌に端正な顔立ち、黒い瞳の中に淡い碧さが光る、かなりのイケメンだ。
イケメンは黒板に自らの名前を書くと、自己紹介を始めた。
「初めまして、今日からこのクラスに入りました、水好霧雨と言います。みなさん、仲良くして下さい」
女子生徒だけでなく男子生徒も呆気にとられるくらい、綺麗な笑顔だ。男性教師は咳払いをして次の言葉を発する。
「水好は今まで外国に留学していたんだが、帰国してきてこの学校に転入してきた。で、実は」
「霧雨、きりさめ、水好霧雨って、まさか」
男性教師の言葉を遮って声を上げたのは凛火だった。生徒の視線が一手に集まる。
凛火の視線がイケメンと交わると思いだしたかのように席から立ち上がり指さした。
「水母神社の霧雨か?」
凛火の問いにイケメンはとびっきりの笑顔を零す。
「久しぶり、凛火。六歳の時に留学したから十一年ぶりになるのかな。覚えてくれて嬉しいよ」
「なんだ、帰って来るなら家に連絡くらい寄こせ、一応、兄妹神社って呼ばれてるんだから」
「おかしいな、昨日の時点で手紙は配達されていると思ったんだけど、もしかしたら見ていないのかもしれないよ。まあ、直接会えたんだから良いじゃない」
男性教師はわざとらしく咳払して二人の続く会話を止めた。
「再会の続きは休憩の時にでもゆっくりやってくれ。言いたい事は凛火に言われてしまったが、水母神社の時期、跡取りだ。みんな、仲良くしてやってくれ。でだ、席は火野中の隣に机を置くしかないが、いいか?」
綺麗な笑顔で頷くと廊下から机と椅子を持ってきて、凛火の隣に置いた。そして優雅に座る。椅子に座る単純な動作で優雅さを見せ付ける霧雨に凛火は埋もれていた過去を思い出して幼馴染の成長を垣間見た。
「それにしても、随分成長したな。見た目が変わり過ぎて分かんなかったぞ」
「凛火は変わってないね、とても綺麗で巫女装束が似合いすぎだよ」
「相変わらず面白いな。私にそんな事を言う男はお前くらいだぞ」
「そうかな、昔から思っていたよ。だから、楽しみだった」
「再会が?」
「それもあるかな。それよりベッド越しから僕を見つめる赤ん坊が居るんだけど」
「ああ、こいつは」
男性教師は大きく咳払いを三回ほどすると教科書をチラつかせた。
凛火と霧雨はペコリと頭を下げるとお互い苦笑して黒板とにらめっこするのだった。
午前中の授業をすべて終え、昼休憩に入った頃、弁当も食べずにぐったりと机に寝そべる、凛火は半ば放心状態と化していた。
「お疲れ様です、凛火」
この状況を理解している祥子は凛火の机に広げている自分のお弁当のタコウィンナーを口に含みながら言った。
心配しても己の食事を止めない祥子は結構酷いと思う、凛火だが疲れて口にも出さない。
フラフラと身を起こし、椅子にもたれると横で眠っている赤ん坊を恨めしそうに見つめた。
「こいつは好き放題やってくれたよ」
そう言って先ほどの午前中の授業風景を思い出す。
一時間目の授業を終えて小休憩を挟んで二時間目の授業が開始された頃、教室は異臭で包まれ始めた。クラスの生徒達はコソコソと小声で噂話をしながら原因を突き止めるべく辺りを伺いだして、それと同時に泣き声が響き渡り、結局視線は赤ん坊に注がれる。
結局、異臭の原因は赤ん坊が付けているオムツからだった。
凛火は急いで対処するべく、替えのオムツと赤ん坊を抱いて保健室に赴いた。ここで空き教室ではなく保健室に行った理由を挙げるとすれば主の養護教諭は仕事をしながら子供を三人も育て上げた、ベテランお母さんだと知っていたからだ。
ろくにオムツの替え方も知らない凛火はベテランおばちゃん先生に優しく指導されながら死闘を繰り広げ、その際、尻を拭いていたらおしっこを飛ばしてきやがって、抜群の反射神経で避けたのはいいものの、オムツを替えるのに使っていた机と床に飛び散ってしまい後片付けを約束させられ、それでもやっとの想いで替え終えた次の瞬間には溜まっていたのか、もう一度発射されやり直となる。
すべてを終えた頃には二時間目の授業が等に終わっていた。その後も、何回も泣きだしては教室から連れ出してあやすなど、大変な午前中だったのだ。
もたれかかり、ぐったりとしている凛火の頬に冷たい物が当たる。霧雨が買ったであろう缶を押し当てていた。
「はい、アイスココア。疲れた時は甘い物に限るよね」
「私の好みを憶えていたのか?」
「凛火は甘い物が大好きだからね。小さい頃はよくお菓子作りを一緒にしただろ。特にチョコとココアのクッキーがお気に入りだったよね?」
アイスココアを受け取ると一気に飲み干して手で口元を拭うと疲れた表情から笑顔に変わる。
「そうだったな、私が作ったのは美味かっただろ?」
「……うん」
「何故、間を置く?」
「……美味しかったよ」
「だから何故、間を置く」
誤魔化せてくれないと分かって霧雨がようやく本心を口にする。
「甘すぎるんだよね、凛火のお菓子って」
「菓子は甘いものだろうが」
「限度があると思う」
「言ってくれるじゃないか、霧雨のくせに」
「酷いなぁ、でもそのくせにって言い方懐かしいよ」
「変なところで懐かしむなんて変わっているな。私はそんなにこれを多用していたか?」
「ごめん。気のせいだったよ」
「どうして謝る」
「何となく、かな」
そう言って霧雨は苦笑した。これ以上は話すつもりはないらしい。
凛火そこで気づく。ある可能性を。
「まさかお前も知って……」
最後まで言う前に霧雨は凛火の頬をムニっと掴んだ。
「にゃにをしゅる!!」
「言わなくて良いよ。僕は知らないから」
微笑を浮かべてそう断言されれば、凛火としては頷くほかない。仮にそれが嘘でも霧雨は認めないだろう。昔から霧雨は凛火に優しかったのだから。
凛火と霧雨の掛け合いに瞳をキラキラさせている祥子が言う。
「凛火が男子と仲良く話している姿、新鮮です。祥子が見た所、幼馴染同士の会話ではありますが良い感じですね、祥子も安心です」
「なぜ、祥子に安心されなければならない?」
祥子は霧雨に聞こえないように凛火の耳元で口を開いた。
「言ったでしょう? 取るに足らない男は潰すと。霧雨君なら外見も内面も最高です、これはあくまで私の予想ですが、彼は凛火に惚れてますよ。他の女子に見せる笑顔と凛火に見せる笑顔が全然違いますからね」
凛火の顔が朱に染まり慌てふためく。その様を見て祥子はケラケラと笑い出した。
「顔が赤いから熱でもあるんじゃない、大丈夫?」
霧雨は凛火の額に手を当てて心配そうな表情を見せてくる。手を当てられたことで更に顔を赤くさせてしまう。これ以上は精神衛生上勘弁して欲しくてとっさに霧雨の頬を平手で打ち抜いた。
「そ、そ、そんな大胆な事をするな!!」
「えぇぇぇぇ、熱があるか調べるだけなのにビンタって。小さい頃は良くやったじゃない」
「う、うるさい! 恥ずかしい真似するな。昔とは違うんだ。お互い高校生、もっと、そこを尊重しろ、いや、別に心配してるのは分かった、嬉しいぞ。だが、優しくするな」
霧雨は困惑の表情をするわ、祥子は腹を抱えて笑いだすわ、凛火は動揺しながらご立腹するわ、ダメ押しで赤ん坊まで泣きだした、そんな可笑しい空間をクラスの生徒は平和だなと思いながら見守っていた。
「そ、それよりも、今日の朝から一つ気になっていたことがあるんだ」
クラスの生暖かい視線を向けられて凛火は話題を変えようと祥子に話を向ける。
「え? 祥子にですか?」
「ああ、朝は色々あって聞けずじまいだったが聞いていいか?」
「祥子に答えられることでしたらどうぞ。ただし、胸の大きさに関してはいくら親友の凛火にも教えられませんよ。私もどうしてこんなに大きくなったのか知りたいぐらいですから」
その豊満に実った胸を強調するように突き出した。それを見ても凛火は笑う。悔しい気持ちなど微塵もないと言わんばかりの笑みだ。
「それに関しては必要ない。私も成長期だからな」
祥子に比べればまだまだ小ぶりだが、火焚き祭の時とは確実に大きくなった胸を主張する。オプションで母乳がでてしまうものの、そんなことは些細なことなのだ。
二人の女子の胸の突き出しあいに挟まれた霧雨は顔を真っ赤に染めて視線を伏せる。紳士であった。ただ、他の男子生徒にとって霧雨の行動は尊敬に相対するも、そのポジションは喉から手が出るほど羨ましい。そして何より、普段は静かな廊下に数多の女子生徒がひしめきあっている。皆、転校生を見に来ているのは自明の理である。漫画のような状況にこれまたクラスの男子生徒は羨ましく、それ以上に妬ましく思ってしまう。
変わりたくても変われないクラスの男子生徒は心で己の不甲斐なさに泣いて霧雨を睨み付けるのだった。
「まあ、二人とも胸の見せ付けあいはここまでにして話を戻したら」
男子生徒の嫉妬が絡んだ視線と自分の状況に居た堪れなさを感じた霧雨が二人を止めた。
「それもそうだ」
「ふふ、争いは何も生み出しませんからね。祥子も賛成です」
二人は互いの健闘を称えて握手を交わす。何の健闘だよと、突っ込みたくてもそう言ったスキルに乏しい霧雨は呆れるしかなかった。
「それで、祥子に聞きたいことはなんですか?」
「それだよ」
言いながら視線を祥子の口元に向ける。
「えっと、祥子の口元がなにか……まさか、狙って」
口元を押さえ怯えを含む表情を浮かべる。
「ないから安心しろ。むしろ何でそんなドン引きするんだ。普段、お前の言動の方がドン引きだわ」
「凛火からだとマジっぽい感じが……」
「見た目か? 見た目とこの男口調のせいなのか?」
「そんな……凛火はもしかして女の子が……でも俺は…」
霧雨は涙目で悲痛な表情を浮かべる。
「うおぉぉぉぃ!! 幼馴染まで信じそうになってるよ!」
「ふふ、霧雨さん、凛火をその手に抱きたいなら祥子を倒すことですね」
フォークに刺したブロッコリーを霧雨に向けて掲げ不敵な笑みを零す。
「尽かさず、そこで乗るな! 霧雨は純粋だから、信じちゃうから」
「負けません、必ず祥子さんから救い出して見せます!!」
拳を握り締め、親の敵ばりに祥子を睨み付ける。
「間に合わなかった!!」
「祥子が言うのもなんですが、彼は大丈夫ですか? 冗談をここまで信じられると逆に心配になってきます」
眉を潜めてぼやく様に呟かれた種明かしは残念ながら頭に血が上った霧雨に聞こえていない。
「元はといえば話に乗り出したお前が悪いんだろうが!」
「だって、普段の祥子達はこれくらい当たり前の会話じゃないですか。まさか、霧雨さんがここまでおバカ…ゴホ、ゴホ…純粋だとは思いませんでしたよ。祥子はびっくりです」
「お前、私の幼馴染にも容赦ないな!」
「ふふ、祥子は祥子の道を行くだけです。仮に祥子の道を阻むものがあるならば、祥子は祥子の名において、祥子の持てるすべての力を存分に発揮して祥子の行く道を阻む祥子の敵をぶちのめしますよ。それが祥子の目指すべき祥子であり、完全なる祥子道なのです」
「祥子、祥子うるせぇぇ!! お前、一話のときと二話のときは一人称『私』だったじゃねぇか!! なのに、二日たったら一人称が『祥子』って、お前に何があった!! いい子だから親友の私に言ってごらん!! それと最後に言った祥子道とは何なのか教えてください、何故か気になる!!」
「もしかして、気になることとはそれですか?」
「そうだよ、かなり長い前置きがあって結局聞きたかったとこはそこだよ!!」
ようやく本題にいけて内心安堵するも何度も叫んで肉体的にはかなり疲労した凛火であった。
荒い息を落ち着かせると改めて問う。
「祥子、まじめに聞く……何があった?」
「分かりました凛火の疑問を一つずつ整理しましょう。まずは祥子道について」
「よりによってそっちかよ!! 確かに知りたいと言ったけど、普通は一人称の話からだろうが!!」
せっかく整えた息が再び荒くなった。
ここまでの会話で要した時間は約一時間、肉体的に疲れていた凛火は気づいていない。昼休憩の終わりはすぐそこまできていた。
「今こそ教えましょう、祥子の一人称が変わった理由。それは――」
昼休憩が終わりを告げるチャイムが教室に響き渡った。
「残念ながらまたの機会に語るとしましょう」
「チクショォォォォ!!」
結果何も得られることなく、徒労に終わり、凛火は今日一番の声を張り上げて椅子ごと後ろに倒れこんだ。
「危ない、凛火!」
危うく地面に後頭部をぶつけるところで霧雨が危うくキャッチする、までもなく祥子が凛火の手を引っ張り立たせた。残ったのはかっこよく受け止める体制で主の失った椅子だけをキャッチする不憫なイケメンとそれを見て不適に笑う親友、抜け殻のように白い何かを吐き出す巫女だった。
男子生徒の恨みを込めた爆笑や、女子生徒の哀れみが込められた視線が注がれる教室の喧騒が終わりを迎えたのはその直後。
ドンッという乾いた音が特定の人物の耳に入るとそれは始まった。
先ほどの喧騒など気にもしないで眠っていた赤ん坊が急に目覚め、大声で泣き始める。屍のようだった凛火も音を聞いて赤ん坊を抱き上げると周囲を見渡す。椅子を投げ出した霧雨が凛火の側まで来て耳を澄ますように目を瞑る。
刹那、凛火と赤ん坊、霧雨の体にズンッと、重い衝撃が圧し掛かった。
相変わらず笑っていた祥子は二人の苦しそうな表情に異変を感じる。
「どうしたのです、二人共?」
祥子の問いに答えられない、息苦しさが頂点に達して呼吸困難に陥らせる。朦朧とする意識の中、凛火はとっさに赤ん坊を強く抱きしめた。すると、あの時のように凛火の周りから白い靄が噴出して自身と赤ん坊を包み込む。霧雨はそれに驚愕するも、祥子や他の生徒たちは見えていないのか、怪訝な表情を浮かべている。
親子が呼応することによって生まれる力、凛火の懐に入れてある術札が十枚ほど勝手に飛び出すと、ようやく祥子は表情を固くして凛火と赤ん坊を見つめ、生徒たちの不安を滲ませた声が所々で上がった。
宙に浮いた札は四方に飛び立ち、黒板、窓、天井に張り付いて淡い光を放つ。それと同時に息苦しさが幾分緩和して直接被害を受けた三人は取り敢えず落ち着きを見せた。
「長系巫女の力だね」
自身も神社の血筋だからこそ分かる。この事態とそれにともない的確に対処して見せた、凛火の実力が凄まじいものだと。
「不本意ながら目覚めた。それにしても力を持つ者は何時もこんな思いをしているのか?」
「ちょっと異常だよ。本来俺らは力と共に耐性もついているんだ。それなのに、息をすることも億劫になるなんて相手は相当強い存在だよ」
しっかりと張り付いて取れる気配のない札を見つめる。
「でも、凛火はあの一瞬で俺らを救ったんだ。もしあのまま何もなさなければ、死んでいたかもしれない。もちろん、このクラス全員だよ」
「私たち以外は平気そうだったが」
現に札が宙を浮くまで生徒たちは平然としていたはずだ。
「簡単に言えば、彼らは認識できないだけ、こう言った異能は認識されて、初めて効力を発揮するんだ。幽霊だって認識されなければ御伽噺や都市伝説みたいに語られるだけで実害はない。凛火自身、力を持っていなかった時は信じていなかっただろ?」
凛火は頷きながらも大多数の一般人でありたかったと未だに思っている。
「言っておくけど耐性のある俺らが動けなくなるほどだ、仮に彼らが認識した場合、そう時間を待たずして逝き絶えるだろうね。理由も分からず、対処も出来ず」
その言葉に凛火は諦めにも似た自嘲の笑みを浮かべる。
「いい加減諦めなければならない、か…」
麻炎は登校する凛火に言った、力を持つものの側を認識しろと、そうして渡された札が自分だけでなく他者の命を守った事実は少なからず、凛火に衝撃を与えた。
(私が他者の命を守る……そんなの皮肉でしかないじゃないか)
「大丈夫だよ、凛火は一人じゃない。俺もいるから」
そう言って、霧雨は見下ろす位置にあった凛火の頭を撫でる。
十年という歳月は思っていた以上に長い、凛火は大きくなった手のひらの感触を知って思った。
「あの頃と立場が逆だな」
「そうだね、人見知りの上、泣き虫だった俺を何時も撫でてくれたのは凛火だった」
自分が凛火の頭を撫でるときが来るとは、あの頃の霧雨には微塵も思いはしなかっただろう。
「あう、あう、うあ。きゃっきゃっ」
赤ん坊が凛火の頬を撫でながら笑う。自分の存在も忘れるなと言っているようだ。
凛火は逆に赤ん坊の頬を優しく突くと微笑んだ。
「お前のおかげだな。助かったぞ」
「きゃっきゃっ…あう?」
頬を突かれて楽しそうに笑っていた赤ん坊が、辺りを伺いだした。小さな目をきょろきょろとさせて世話しなく動かす。
「あう、あう、あうぅぅぅ!」
天井に向けて両手を広げ、赤ん坊とは思えぬ堅い声を上げ始めた。その行動こそ状況の変化をいち早く察知した赤ん坊の警戒だったのだろう。
残念ながら細かい疎通が出来ない今、出遅れるという形になった。
教室の前にある廊下から女子生徒の悲鳴が響く。同時に窓がカタカタと鳴りだしたと思えば、衝撃でひび割れ始めた。クラスの生徒たちも異変を感じて騒ぎ出す。
学校全体が揺れていた。地震とは違う、低く、まるで誕生したばかりの化け物が歓喜によってあげた咆哮のような唸り。
少なくとも、凛火と霧雨にはそう聞こえた。
「認識するものとしないものの違い」
「彼らには軽い地震と認識されているね。でも……」
そう言って窓の方を見つめる。向かいの民家は窓にひび割れもなく至って普通に佇んでいた。
「まだ解決したわけではないらしいな」
抱いている赤ん坊は先ほどから視線をいろいろな方向に受けていた。目的のものを探そうと必死になっているように見える。認めたくはないが、赤ん坊の行動の理由が分かってしまう辺り、血の繋がりを感じてしまう。
「どこかに大元が居るってわけか。まさか、悪霊とかじゃないだろうな、そうだったら泣くぞ、私は」
想像するだけで震える手を何とか押さえて鞄から束になった術札を取り出す。
「俺としては、その方が有難いけど、多分、悪霊とか生易しいものじゃない」
霧雨は冷静に判断しながら自らの鞄を開けて、中から水色の陶器のような腕輪を取り出して自らの手にはめた。次に術札を鞄から取り出して制服の内ポケットに納める。
取り敢えず準備は整った。
「とにかく、早く大元を探さないと更に混乱を招く事になる」
霧雨はそう言って教室のドアを開けて廊下に顔を出した。沢山の生徒達、教職員が異変を感じて通り過ぎている。
凛火は祥子に向けて言う。
「祥子、取り敢えずここは結界で安心だ」
静かに事の成り行きを見守っていた祥子が頷く。伊達に凛火の親友を名乗っているだけあって冷静なんものだ。
「分かりました、凛火達は行くのですね?」
「巫女だからな、他の教室を回りながら大元を探す。祥子はクラスの生徒たちに説明を頼む」
「任されてください。凛火も気をつけてくださいね」
そう言って、視線を霧雨と赤ん坊に向ける。
「霧雨さんも赤ちゃんも、お気をつけて。凛火をよろしくお願いします」
「はい、これでも水母神社の宮司ですからね、任せてください」
「あう、きゃっきゃっきゃっ」
赤ん坊は力強く声を上げる。任せろと言っているようだ。
凛火は両手が塞がれないよう赤ん坊を負ぶって結び目を締めると深く息を吐き出した。未知の体験に体が否応にも震えている。
これから、祖母や妹がやってきた家業を自分が行う。本音としては御免被りたい。けれどそれをすれば犠牲になる人々がいる。そしてその人々を見捨てられるほど凛火は薄情ではない。
(何より、自分のせいで誰かが死ぬ情景を見るなど二度と御免だ)
震える体を叱咤して先に出た霧雨に続こうと歩き出した時、祥子が声を掛けてきた。
「凛火、話しておきたいことがあります、祥子は…祥子は…」
「悪いが、話すなら早くしてくれ」
中々切り出さない祥子に苛立つ。
「祥子はこの先に不安があってキャラ付けをしたかっただけなのです!!」
ここへ来て何を言っているのか。冗談が過ぎると、注意するため振り向けば祥子は至ってまじめな顔をしている。
「この先、まだ見ぬ人物がきっと凛火の前に現れる気がしたのです。祥子のシックスセンス的なものが働いてしまったのです!! だから、私はこれから現れる濃い人物たちに埋もれたくなくて一人称を『祥子』にしたのです!!」
教室に響き渡るほどの叫び声で祥子は訴えた。
凛火は思う。
(それを今……言うことか?)
「心残りはもうありません。行って下さい。祥子のために!!」
(いや、お前だけのためじゃねぇし)
気負っていた自分が馬鹿しいと大きなため息を吐き出した。
「お前は十分、キャラ付けされてるから安心しろ。絶対埋もれない」
祥子に説教しても無駄だと判断した凛火それだけ言って教室を出て行くのだった。
ただ、その時の後姿から凛火の体は震えてはいないことがはっきりと分かった。
というわけで六話目でした。
祥子道が知りたいと思った奇特な方、もしかしたら別の形で字に起こしたいと思っていますが、何時になるかは未定です。