老人の願い 巫女と祖母 髪は女の命なり
セクハラ発言をかまして来たエ老人を物理的なお仕置きで成敗するも親友の言葉で心に大打撃を負った。老人は心身ともに負った。しかし、親友は通常通り裏表のない笑みを浮かべている。客観的に見て同じ被害者である凛火だけがダメージを食らうのはおかしい。
解せないと凛火は思ったがもちろん口には出さなかった。怖かったともいう。
「あんたを警察に付きだしたい所だが、生憎この焚火から目を離せない。かといって祥子に連れて行かせたら親友を殺人犯にさせてしまう恐れがある」
「凛火、どういう意味ですか?」
尽かさず、祥子の微笑が顔に刺さる。刺さるほど強い微笑など初めて感じた。
「というのは冗談だ」
そう撤回すればいくらか和らいだ。祥子がどんどん恐ろしくなる凛火である。
「とにかくあんたの言動は不問とするから、さっさと出て行ってくれ」
境内の出口を指して言った。
しかし、老人は無視して燃え盛る焚火に手を当てる。
「冷えた体には暖かい……先ほどまで酷く冷たい場所にいたもので有り難味がよくわかりますな」
「話聞けよ、じじい」
「時に黒髪のお嬢さん、火炊き祭が何のために行われているか知っているかね」
「そんなことはいいから」
「この行事は神様に人の温もりと信仰を差し出す慣用儀式なのですよ」
「もうなに、この、じじい」
「神様は孤独なのです。だから温もりを欲する、そして人々は自分たちの町を守ってもらう代わりに信仰と感謝をこの焚火に込めるのです」
凛火にとってそんなことは百も承知だ。先代の守人からこの神社の守人候補として生まれてから耳にたこが出来るほど教えられてきたのだから。
「ですが神様は初めから孤独だったわけじゃない」
老人は焚火を見つめ酷く冷めた物言いで述べた。
「火炊き祭を行ってもらえるから、神様は温もりを忘れない。ですが、逆を言えば忘れることが出来ないと言っているようなものだ」
老人は視線を凛火に向ける。
「まるで今のあなたのようにね」
「何を言って……」
老人にしては鋭い眼光が真っ直ぐ凛火を捉えると思わず声を発するのを躊躇させた。
「温もりを忘れられない神様はそれでも孤独でなくてはならないのでしょうか?」
ポツリと小さくつぶやかれた問いは何故か物悲しさを想像させる。
「し、知るか……私は神様じゃないんだ」
数秒の沈黙の後、吐き出された言葉に老人は満足したのか焚火から離れ、最初の言葉通り境内の出口に向けて歩き出した。凛火はその後姿を目で追う。
出口付近まで来ると老人は急に振り返り、軽く会釈した。
「そう、君は人の子でその子供も同じ……それを忘れないで……愛してあげてほしい」
「おい、それはどういう」
意味だと紡ぐ前に老人は背を向けて歩き出してしまった。
「それでは、また会いましょう。その時はおっぱいを揉ませておくれ」
という台詞を残して。
「祥子、焚火を消さないようにしてくれ、私はあのエ老人をやっぱり警察に突き出して来る」
「えっと、その必要は無いようですよ」
言って焚火の方を指さした。凛火がその方向に目をやれば、勢いよく燃えていたはずの焚火が鎮火して白い煙を上げている。
すぐに老人のいる場所に視線を戻したが既にその姿は影も形もなくなっていた。
瞬間、頭に過ったのは鬼の形相を見せる、それでも綺麗に年を重ねた老婆の姿だった。
「最悪だ、ババアに殺される」
震える声で呟いた凛火に忍び寄る影。
想像通り、鬼の形相をした凛火の祖母―――火野中麻炎が薙刀を肩に掛けて立っていた。
「儀式をまともに遂行できない馬鹿孫には血の制裁が必要なようじゃのう」
肩に掛けていた薙刀を構え、臨戦態勢に入る。
「違うんだ、祖母ちゃん。弁解の余地を」
さすがに面と向かってババアとは呼ばないところが、力関係を表している。
先代守人の麻炎は次世代守人候補の教育係をしていることもあって頭が上がらない。
「認める、言ってみろ」
素直に聞き届けられた。
凛火は薙刀を構える麻炎を前にして、エ老人の事、炎を絶やしていなかった事、急に消えてしまった事などを身ぶり手ぶりで必死に説明した。
「ほう、セクハラを働く老人と話していたら急に焚火の炎が消えたと……」
そう言って片手で長刀を持つともう片手を顎に当てて無言で考え込む。その間、凛火は判決を待つ被告人の様な気持ちである。
「結局は火を見ていなかったお前が悪い。よって、死刑」
俊敏な動きで構え直すと、これまた凄い速さで凛火の背後に回り、薙刀を振り切った。
一瞬の出来事で自分に何が起こったのか理解できなかった。だが、祥子が抱きついて可愛いと連発してきた事で身体的変化が起きたのだと理解する。
「凛火、ショートも似合うですよ」
祥子の言葉で地面を見ると艶がある長い黒髪のほとんどが無残にも散らばっていた。
麻炎は斬った黒髪をすくい上げる。
「髪は女の命、確かに処刑した」
冷静に言うものだから凛火の頭に血が上る。
「ふ、ふざけんな。わ、私の髪の毛をどうしてくれんだ。ホントの裁判で訴えてやるかな」
「儀式を遂行できなかったのだ、仕方ないの。長系巫女として命を捧げるのは至極当然のこと。批難されるいわれはないわ」
懐から取り出した和紙で何本かの髪の毛を包んだ。その行為に祥子が疑問を投げかける。
「それしか必要無いなら、バッサリ斬らなくても良かったのではないですか?」
「そうじゃ、火炊き祭を蔑にした罰としてバッサリ斬ったのじゃ」
凛火は思わず拳を振り上げたが、麻炎の鋭い瞳で一睨みされその姿のまま固まってしまう。
麻炎は先代守人として引退した身である。しかし、諸事情により現守人が活動できないのだ。だから今でも火ノ打チ神社のすべてを司る者として君臨している。
巫女としても、歳を重ねた女性としても半人前の凛火が勝てるはずもない。
この神社では最初に生まれた方を長系巫女と呼び、名前に火をつける。そして次に生れた子を後系巫女と呼び、名前に炎をつけるのだ。よって麻炎は後系巫女である。何らかの不測の事態が起きなければ長系巫女が守人を襲名しなければならないのが通例だ。
「凛火よ、火炊き祭の重要性を考えてみ、神殿におわす、火ノ(の)打チ(ち)処乃神様に新鮮な炎をお送りし、生気を養ってもらう事によってこの神生町を守って頂けるのだ。それは直接、お前を含めたこの町の人々を災厄から守る事に繋がるのだぞ。それを蔑にする意味、分かるであろう」
静かなる言葉には威厳と重みが合わさる。祥子などは言葉にのみ込まれて黙り込んでしまった。
しかし、そこは長系巫女か、凛火は恐れながらも反論を試みる。
「儀式は所詮、儀式だ。怠って乃神がこの町を守らないと言うなら人々自身が守れば良い」
「人間は弱い。それを一番理解しているのはお前自身じゃろう。違うか?」
即座に返され、否定できない。麻炎の言うとおりだからだ。
「……くっ」
凛火は唇を噛みしめ、震える手をポケットの中に入れた。ジャラっという音が鳴る。
「疲れたであろう、帰って休むがいい。後は私と果炎がやっておく。今日は学校へ行かなくて良いぞ、特別欠席扱いじゃからな。祥子ちゃんもありがとうな」
「どういたしまして、祥子も楽しかったのですよ。凛火、大丈夫だから…また明日ね」
祥子は凛火の震えた腕をギュッと掴むと笑顔を見せて帰って行った。
「さあ、お前も部屋で休め」
「…神様だって心が強いとは限らない。孤独かもしれない」
何故かその時、老人の投げかけた問いの言葉を思い出し、口にしていた。
「もう良い、疲れているだろう。これは祖母としての言葉だが、過去を顧みすぎるな」
それに何も言わず凛火はそのまま住居の方へ逃げるように走って行った。
入れ違うように凛火の妹、果炎が石段を上ってきた。
「石段を照らす篝火を消して来た。途中で祥子さんに会ってハグされて大変だった」
果炎はすっかり消えてしまった焚火を見る。
「姉さん、儀式を放り投げたんだ。長系巫女として自覚が足りない。私が先に生まれれば良かったのに残念」
「果炎、石段の篝火を消しに行った時に老人とすれ違ったか?」
「何それ、私は祥子さんに会っただけ…でも」
「どうした?」
「私が家を出た時、境内にあった気配は三つ、でも、すぐに一つが消えた。火炊き祭だったから悪い霊とも思わなかったから無視した。悪い事?」
果炎は巫女として、特殊な力を持っている。霊を見たり浄化出来たりするのだ。そういった力をまったく持っていないのに守人候補の姉が羨ましかった。
「いや、果炎は悪くない。だが、凛火の言った事は本当だったのかもしれん」
「祖母ちゃんは姉さんに甘過ぎる。例えどんな理由があろうとも焚火を二十四時間絶やさないのが仕来り、全面的に姉さんが悪い、巫女失格」
「それでも、凛火は長系巫女だ、この神社を継がねばならない」
「私は認めていないし、姉さん自身が望んでない」
「だから、儀式関係以外では甘くもなる。言葉のあやとは言え、思い出したくもない事を思い出させてしまったかも知れんのだからな」
「なにそれ、姉さんはそんな細い神経じゃない」
麻炎は微笑むと、果炎の頭を優しく撫でた。それは巫女としてでは無く、祖母としての姿だ。
「しょうがないお姉ちゃんじゃ、されど決してお前を嫌ってはいないぞ」
果炎はその言葉に無言を貫いた。
互いに沈黙していると二人の耳にカラスの鳴き声が聞こえる。
木々から飛び立つその姿に果炎は声を上げた。
「赤い、カラス」
炎の様に真っ赤な姿のカラスは二人の存在を知ってか知らずか、悠々と上空を二三回、旋回すると夜明けの空を飛んで行った。
「赤きカラスは事象を告げる者」
思い当たる節があったのか、麻炎は少し考え込むと果炎に後の儀式を任せ、神殿の隣にある自分の部屋へと駆け出して行った。本来は書物庫になっているその部屋を麻炎がそのまま、住処にしている。
果炎は言われとおり淡々と儀式を続ける。
朝日が完全に昇る頃、この月の火炊き祭は終わった。