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夏の幻



 一人暮らしの部屋でぼんやりと天井を見上げた。

 これから先のことを考えるのが少し憂鬱で、けれど楽天的な僕には明確な未来像など持てるはずもなく、行けば楽しいだろう、なんて気軽に考えていた。

 目を閉じたら楽しい日々が蘇ってくるようで、皆で行った海も、散々泣いた卒業式も、スラックのライブも全てが鮮明に思い出せる。

 そんな日常を思い出すのが辛いようで愉しいようで、僕は一人自嘲的に笑うと目を閉じた。


 * * *


 初めて学校生活を楽しみにしていたのも事実だったし、でもどこかで曇った心を抱えていたのもまた紛れもない本心だった。

 愛花に会った瞬間も、新しくできた友達の白川にも井坂にも、新たな生活に何か言いようのない違和感を拭い去れない日々がずっと続く。

 それだけで僕の心が黒く濁っていくような錯覚に、徐々に大きくなる悲鳴をどこか遠くで聞いているような心地に包まれていた。


 最初はそれでも楽しかったと思う。だんだんと非日常だった生活が日常へとシフトが変わっていくまでは。初めて通う学校も、初めて出会う人達も、すべてが新鮮だった。


 白川と井坂と話す時間がただ単純に楽しくて、話の会う奴がいる、そう思えるだけで楽しい日々を送れていた。


 そんな二人と少しずつ価値観の違いを感じ始めたのも、ただつまらないだけの毎日を繰り返すのが辛くなったのも、昼休みに一人きりでコンビニに行くようになったのも、いつからだったか今はもう思い出せない。


 * * *


 初夏の香りが漂う頃、スラックのライブが終わると僕は家に帰宅して充電器をスマホに差す。点滅する電源ボタンを眺めると、小さくため息を吐いて指を滑らせた。

 ライブは楽しかった。けど拭い去れない疲労からベッドに横になってしまうのは仕方ないことだった。しばらくしてもう一度点滅したスマホを開くと、twitterの通知が目に飛び込んでくる。お疲れ様です。その言葉が嬉しくて、女の子から些細な連絡が来ただけで少し舞い上がってしまうのも悪い癖だ。

 ライブかっこよかったです。また行きたいです。ぜひ来てね。来月にも2本あるよ。当たり障りのないやり取りをしばらく続けるうちに少しづつ彼女のことが気になっていったのは、後になって気づいたことだった。


 その女の子が僕の彼女になるまでに一ヶ月かからなかった。


 * * *


 晴天が眩しい、ジメジメと蒸し暑さを感じる頃。夏休みの初めに僕達は初めて会った。

 そういえば3つも年下だったな、なんて、初対面のユリナの敬語が今はもう懐かしく感じる。

 カズさん、なんて笑顔で名前を呼ぶユリナを愛おしく思えた。触れ合った体温が温かくて、離したくないと思った。

 しかし迷いも拭い去れなかった。知り合ってからの期間とか、初めて会ってからの時間とか。ユリナの事をよく知らない僕はすぐに付き合うとか、そんな考えは持てなくて、ただ純粋な気持ちを伝えてくれるユリナに一言、待ってとだけ告げた。

 でもそれから数日間、連絡を取るだけで何故か踊る心や、不意に思い出してしまうユリナの顔に、僕はこれ以上自分の気持ちに気付かないなんて出来るはずもなかった。


 付き合おう。そう口にするのにそう時間はかからなかった。

 ユリナの嬉しそうな顔は、今でも鮮明に思い出せる。


 * * *

 

 何度も何度もユリナとの日々を過ごした。

 夏休みの間散々会って、それでもまだ会いたくて、ユリナの声も、表情も、体温も、全てが愛しくて大切だった。

 しかし楽しい時間というのはあっという間に通り過ぎるものらしく、ユリナとの夏休みも例外では無かった。

 また学校が始まる。そう考えるだけで憂鬱な気分になっていた。ユリナとの通話中に泣いてしまうような日もあった。

 結局僕は気持ちを奮い立たせることができず、無理して笑顔を作って、あるいは無理してただ時間を過ごす為だけに通うという選択もできず、何日間も学校に通えなかった。

 親からかかってきた電話に、もう学校を辞めたいと、自然と口にしていた。


 * * *


「学校、辞めた」

 通話越しのユリナが小さく息を吐いた音が聞こえた。

「……これからどうするの」

「実家に帰って就職する」

 もう一度、ため息が聞こえる。

「あんま会えなくなるかもしれないけど、車も買って、週末とか会いに行くから」

「そんなこと心配してるんじゃないって!……ちょっと寂しいけど」

 普段から男勝りなところがあって、可愛らしい事も物も似合わないような子だったけど、その時だけは誰よりも可愛くて、そんなユリナに心配をかけていること、寂しい思いをさせてしまうことが、ひどく申し訳なくなった。

 その分、頑張ろうって、確かに思っていた。


 * * *


 結局、僕が実家に帰ることはなかった。

「このまま一人暮らしして、アルバイトでもして、何か得て帰ってこい」

 親のそんな言葉が胸に刺さって、しっかりしようと決意した。


 そんな決意の裏腹、バンドに明け暮れる日々が始まった。


 * * *


 スラックは思いの外調子が良くて、皆の努力の甲斐もあり、徐々に評価も得られるようになり、自分たちの目指す何かに近づけてきたような気がする。

 そんな中、僕はといえばステージング、パフォーマンス、ボディー表現を褒められる回数は増えたのだけど、技術面は目に見えて伸び悩んでいた。

 メンバーからも対バンからも、もっと練習しろと言われる。家でベースを弾く時間が少ないのには自分でも気付いていた。

 けれどどうしても先回しにしてしまう性格が足を引っ張ってなかなか前に進めない。何もかもを中途半端にしてしまっているような気がして、自分の価値に少しだけど疑問を感じ始めた。


 もしベースが僕でなければ。


 そんな思いが沸き起こるが、スラックを好きな気持ちだけは負けないつもりなのだ。それを行動に移さなければいけないのだって、わかってはいる。

 泣きそうな気持ちを必死に取り繕って、僕はベースを肩にかけた。


* * *


 ユリナの連絡が冷たいと感じ始めたのは10月の終わりくらいだった。くだらなくて、だらしなくて、けれど最高に楽しい生活を送っていた頃だった。

 学校も辞めバンドでも悩みがあり、僕のメンタルは最悪の状態だった。ユリナだけが心の支えだと思ってすらいた。

 でも同時に不満もあった。嫉妬も増えていた時期だったから。先輩によく好かれ男との交流も深い、行動力のある彼女に嫉妬するなというほうが不可能だ。

 もう好きじゃないんだ、と思った。

 何故、と言われると少し困るけれど、何か確信的に、ユリナはもう僕のことを好きじゃない。そう思った。


 だから、別れた。

 本当にそれだけだった。


* * *


 ユリナとの日々は特別だった。

 大した思い出はないかもしれない。びっくりするエピソードもないかもしれない。でもくだらないことで笑えるユリナとの会話も、温もりを感じながら眠りにつく深夜も、何気ない連絡を交わす携帯電話でのやりとりも、そんな些細な毎日の全てが僕にとってはどうしようもなく特別だった。

 後悔していない、と言えば嘘になる。

 拭い去れない喪失感は、確かにある。

 でもそれ以上に感謝とか、そういう感情が大きく勝っているのが、自分でも少し嬉しかった。



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