プロローグ
ヒュン
空気を切り裂くその音はそいつが大きな鎌状の手を振る動作をした後に聞こえてきた。
まるでおもちゃのようにコロンと転がる田中さんの首。
コロコロと地面を転がるその首は、何が起こったのかすらわからなかったのだろう。普段と変わらない温和そうな表情を浮かべている。
一呼吸おいてから迷宮の天井まで届くんじゃないかと思うほどの血が田中さんの体から吹き上がった。
「ヒッ、ヒィィィィィィィィ」
そのシャワーのような血を浴びながら、田中さんの隣にいた武籐さんがまるで気でもふれた様に悲鳴を上げはじめた。
女性特有の甲高い悲鳴は、しかし長くは続かない。
そいつが振り下ろしたもう一方の鎌状の手が、武藤さんを胸のあたりで真っ二つにしたからだ。
悲鳴が途切れ、どさっと崩れ落ちる武藤さん。
クンクン
と、まるで犬が臭いをかぐように、そいつは三角形の顔を武藤さんだったものに近づけると、鋭い牙が並んだ口をあけ、がぶっと喰らいついた。
ビチャビチャ
肉を咀嚼する音があたりに響く。
大きな蟷螂。
そいつは僕達の世界でよくみる蟷螂を馬ほどの大きさにした生物だった。
まるで鉄のような光沢を持った両腕。大きな2つの複眼。
怖気が走る生き物だ。
「なんなんだよ! なんだよこいつ! なんで最初のダンジョンでこんなのが出るんだよ!」
「いいから走れ! 逃げるぞ!」
混乱してわめき散らす少し柄の悪い如月さんに、僕たちのまとめ役、年長者の田所さんが怒鳴った。
その声に我に返りわっと逃げ出す生き残った人たち。
この迷宮には6人で入ったから、死んだ2人と僕を除いた如月さんと竹内さんがダッと後ろを向いてわき目も振らず駆け出している。
田所さんも僕のほうをチラッと見ると顔を背けそのまま走り出した。
恥ずかしい話だけれど、田中さんの首がはねられた時に、僕は腰を抜かしていた。
正直に言うと少し失禁もしていた。
先ほどから頑張って立とうとしていたんだけれど、自分の体じゃないみたいにすこしも動けない。
だから、田所さんが僕を見捨てた時にも悲しいというよりもほっとしていた。
僕を助けようとすればきっとその人たちも助からないと思ったからだ。
出来ればこの蟷螂が二人分のお肉でお腹一杯になって満足すれば良いんだけど。
薄暗い迷宮に一人残された僕は、死んだ田中さんと武藤さんには申し訳ないけれどそんなことを考える。
だけどそのささやかな希望もどうやら潰えてしまったようだ。
あらかた武藤さんを食べつくしたそいつは気持ち悪い複眼を僕のほうに向けたのだ。
ポタポタと口元から血を流しながら首をかしげるように僕をしばし見つめる。
ああ、これは助かりそうもないや。
恐怖のあまり、自己防衛なのか妙に冷静だった僕はそれでもギュッと目をつぶる。
料理が好きだったからいろいろな生き物を食べたし調理もした。因果応、そういったものなのだと自分に言い聞かせる。
そうでもしないと本当に狂いそうなぐらい怖いからだ。
ザザ、ザザ
目を閉じているのに蟷螂が近づいてくるのがはっきりと分かる。
できたら苦しまないように田中さんのように首をはねてください。
そう祈る。
でも、そもそも僕がこんな目にあっているのもミューという女神のせいなんだから効果はないかな。
そんなことを考えていると、唐突に蟷螂の足音が消えた。
変わって僕の目の前に大きな生物の気配がした。
お父さんお母さんごめんなさい。
蟷螂が鎌状の腕を振りかぶる気配がして、いっそう堅く堅く目をつぶる。
キィン
だけど僕の耳に聞こえてきたのは、そんな金属同士がぶつかったような音だった。
いつまでたっても蟷螂の鎌が振り下ろされる気配がない。
恐る恐る目を開ける僕。
最初に目に入ったのは大きなお尻。
むっちりとした肉付の良いお尻。
安産タイプだ。場違いだけどそんなことを考える。
「おい少年! 大丈夫か?」
そう声をかけられて視線を上げれば、皮の鎧に身を包んだ大柄な女性。
彼女はその手に持った大きな剣で蟷螂の鎌のような腕とつばぜり合いをしていた。
と、彼女はツイッと一瞬身を引き蟷螂のバランスを崩す。
「やあああーー!」
気合の声と共に振り下ろされた大剣は見事に蟷螂の鎌のような腕を両断した。
苦痛にもだえているのか数歩後ずさり、めちゃくちゃに残った腕を振り回す蟷螂。
彼女は油断なく剣を構え威嚇する。
彼女と蟷螂はどのぐらいにらみ合っていただろう。
しばらくすると分が悪いことを悟ったのか、蟷螂は首のない田中さんの体を咥えると、のそのそと洞窟の奥へ奥へと去っていった。
「ふう。引き上げてくれたな。少年もう大丈夫だ。立ってもいいぞ」
安堵の息をつきながら彼女がこちらに顔を向ける。
真っ黒に日焼けした大柄な体。整った顔。優しそうな瞳。茶色の髪は短く刈り込んでいた。
でも、一番目を引いたのは彼女の目から頬にはしる大きな傷。多分火傷の痕だ。
でも、火傷なんて気にならないぐらい綺麗だ。
もしかして僕はもう死んでいて、この人は本物の女神様なんだろうか?
そんなことを思いながら、安堵のあまり一気に気が抜けた僕は目の前が暗くなるのを感じた。