七話:叶え屋商会(1)
「し、死ぬかと思った………」
「笑顔って人によって劇物なんだな………ほんと怖かった………」
ある意味ゴルゴンとの面談より恐ろしい矢岸の尋問(あれは尋問だった査問だった、あんな圧力的な尋ね方!)から生還したハンナと威津島が零した。もう嫌だ、と全身が語っている。
「ハンナちゃん大丈夫? 矢岸深く関わんない限りは無害だから、さっきの事も大丈夫だって! ………きっと」
「いちいち『多分』とか『きっと』とか不安材料挟むんじゃないわよ馬鹿犬!」
「きゃいんっ! ちょ、マリいい加減頭叩くのやめて! 尻尾握り潰さないでーっ!」
ハンナに気を使っているのかそうでないのか、二人のやり取りは可笑しくて張り詰めていた緊張の糸が緩んでいく。
「仲いいですねー」と言えば「違う!」「どこがっ?!」と漫才のような言い合いに、気持ちが解れていく。
―――ああ、二人とも優しいなぁとほっこりしていたのに。だというのに。
「おい餓鬼。ここで何してる」
顔を上げれば、そこには怖そうな人が。左右後ろに援軍なし。
………神様。わたし何かしましたか?
◆◆◆◆
事は、3時間ほど前に遡る。
「ええっ、こ、ここ≪叶え屋商会≫なんですか!?」
「と言っても末端もいいトコなんだけどねー」
「じゃあマリさんも威津島さんも職員なんですかっ?! うわ、すごいっ!」
「いやあ、照れるなぁ」
マリは仕事が立て込んでいるからと威津島がハンナの案内を買って出た訳なのだが、当初二十代半ばの男と十代半ばの少女という組み合わせに『果たして会話が続くのだろうか』という最大の不安要素は、案外あっさり解消されていた。
これからハンナにはいくつかの手続きを踏んでもらった後、正式に謝罪が下るのだそうだ。無論全力でお断りさせていただいたのだが、彼女の意思はあっさり却下され最後には泣き落とし同然に(泣き落したのは威津島だった)承諾させられた。そのゴリ押しの弱さに、いつか騙されるのではと年長者二人が若干の不安を抱いた事をハンナは知らない。
まあ色々と疲れただろうという事で寛げるよう個室で休んでもらうという事になったのだが、道中から到着した現在までハンナと威津島の会話は途切れる事を知らなかった。
「ハンナちゃんもさ、ここで働いてみる? 俺らの上司いろいろこっち振り回してくるけど基本いい人だし、矢岸と張り合えるような人だからさ。あいつに手ぇ出される事もないし。絶対さ!」
不安材料ではなく『絶対』と言うほどなので、よほど彼のその上司に対する信頼は強いのだろうと窺え、その安心感に釣られて思わず欲が出る。
「来年から≪魔都≫の学園に通うんですけど、ここまでならそんなに距離もないですし。アルバイトも考えてたから………わあ、≪叶え屋商会≫でアルバイトかぁ………」
「………ん? あれ、留学生ってバイトできたっけ?」
「帰国子女なので長期ビザ取得してますから大丈夫です」
話題のタネは、威津島とマリが所属し、現在ハンナが滞在している施設を保有する〝企業〟≪叶え屋商会≫に終始していた。
≪叶え屋商会≫の発足起源、時期は不明であるが、この商号を掲げるようになったのは1987年と正確な記録が残されている。
その主だった業務内容は派遣会社に近い。基本的にはジャンルを問わず、あらゆる依頼を請け負い、職員が依頼を果たす事もあれば登録している業者に斡旋する事もある。また登録した業者の会合の場を設ける、情報のやり取り、時には売り買いなども手掛けており、その伝手は多岐に渡り、政界や官僚の大物、果ては≪三大組織≫にまで及ぶと噂されている。
『あらゆる依頼』という謳い文句を掲げているものの、厳粛たる規則があり、踏み越えてはならない一線が存在する、いたって〝健全な〟企業。そして、魔術・異能・異形への対処に特化した請負会社。
わずか30年ほどで大企業へと発展した、それが≪叶え屋商会≫の実情と外聞である。
さて、この≪叶え屋商会≫。先にも説明したように魔術・異能・異形への対処に特化した会社でもある。必然社員や登録業者も〝その筋〟の者が多い。つまり、魔術師、能力者、そして特に人外が。
人外が多い理由はいたってシンプルだ。異能者が十全にその能力を揮える組織は他にもある。その最たるものであるSDPや教団、神殿に所属する者は珍しくないが、やはりそれらは人間が作り上げた組織である。そのため人間以外が所属するには(特に教団は)些か敷居が高く、≪叶え屋商会≫に所属する者が増加していく事は必然だった。
また、≪叶え屋商会≫は他の組織に比べその業務は非常に多岐に渡る(まあ、当然と言えば当然だが)。そのためあらゆる状況を想定した装備が必要となるわけで、日常から戦場まで、実用的・実戦的な装備の開発・作製に力を入れている事も有名、あらゆる場面での魔具の能率の測定なども請け負っている―――つまりは、≪叶え屋商会≫はあらゆる魔具と触れあえる機会があるという事で、それは魔工士にとって中々に素晴らしい職場であるともいえた(とはいえ、流石に請け負いこそないものの、魔具開発に関して他の組織が劣っているという訳ではない。単に倍率としがらみの問題だった)。
好きが高じて霊的生物学を修め、また来年から学園で魔工学についても学んでいきたいと思うハンナにとって、アルバイト先として≪叶え屋商会≫は理想的と言えた。自給の方は知らないが、この際二の次三の次だ。お金では買えない時間を、プライスレス。そんなフレーズが過る。
そんな夢を広げながらの団欒とした時間は、ハンナ本人は気付かなかった疲れが誘発した眠気のために一時お開きとなった。
夢を見た。
わたしは何かを追いかけていて、何かに追いかけられている夢。
――――…………。
真っ白で真っ黒な場所で、ひたすら走って追いかけて追いかけまわされている夢。
―――……ぃ……。
前へ後ろへ右へ左へ上へ下へと走りまわる夢。
―――………ぉ……ま…。
どこかへ向かって誰かへ向かって走る夢。
―――きろ……お 、………。
どこかから離れて誰かから逃げ回る夢。
―――、
「おい、いつまで寝てる気だ」
「が、あだぁ!?」
がちんと顎に衝撃、脳ががくんと揺らされ目蓋の裏で星が散った。
全身色々なところに衝撃が走って、喉で唸る。何、なんだなんだ何が起こったの!? 心の底から悲鳴が上がるが、衝撃が全身に浸透して痛いと思うより動く事が儘ならず、声も出ない。
「ち。弱っちいな………」
頭上から降ってきた不機嫌な声に、何が起こったかは理解できないがとにかくこの声の主が諸悪の根源だと当たりを付けた。怒るより噛み付くより怖さが先立つ。容赦なく人を、多分見知らずの他人を傷つけられる人。それはハンナが恐がるには十分すぎる理由だった。
霊的生物学においては優秀な成績を修めてはいるものの、基本教科を初めその他科目は凄惨たる有様。運動神経は悪くないはずなのにしょっちゅう転び要領悪く(ある意味器用に)ドジを踏み、同級生どころか五歳児にさえ舐められる始末。そんな人間は苛めの格好の的である。
従ってハンナの半生は苛めっ子との戦いの日々でもあった。つまり逃げ逃れ追いかけ追い立てられ。パシリ。引き立て役。もっとも身近な人種が苛めっ子。
苛めっ子が年上の不良と付き合っていた時期があり、その時その彼氏の前でさんざ揶揄されまくったため、現在もその類の人間は大の苦手という箱に収められている。
「おい、いつまで床で寝てる気だ」
床を蹴る音が思いの外近くで聞こえてびくりと震える。少し自由にになってきた首を動かして、恐る恐る音の方へと視線を向けた。
黒い革靴。ラフなカーゴパンツ、靴下。が、20cmより確実に近い距離にあった。
「動けるんだな」
質問ではなく確認。容赦ない声色で淡々としていて本当に怖い。
「おい餓鬼、ここで何してる」
ゆっくりと顔を上げる。………そこにはとっても怖そうな人が立っていた。
筋骨隆々のシルエットが最初に網膜で像を結び、次第に明順応していくにつれてさらに泣きたくなる。目付きが凶悪な、不良崩れ(チンピラ)というより軍人崩れという言葉の似合いそうな強面。ひしひしと伝わる不機嫌なオーラ。怖い。恐すぎる。飢えた凶暴な熊に出くわせばこんな気分を味わえるかも知れない。
―――………神様、わたし何かしましたか?
このまま気を失ってしまいたい。そんな願いを心の底から祈った。
◇◇◇◇
「おい威津島!」
「ぎゃあっ! 何すんですか副所長!」
どすりという不吉な音とともに体が大きく傾ぐ。倒れる寸前、なんとか体勢を立て直して威津島は叫んだ。
彼の上司である副所長、尾崎古銀がいつも通りにまにま笑って立っている。………その姿にどうしようもなく不安が掻き立てられるのは、この上司の下で働き続けた長年の経験ゆえだろう。
とかく、この上司はやることなす事無茶苦茶で、全ての基準を善悪ならぬ好悪感情、気に入らなければ依頼人であろうと叩き潰すという、矢岸とは別の意味で暴君なのだ。この出張所にはもう一人副所長がいるのだが、その三人の中で最も常識外れでありながら一番人格者であるのがこの人というのが些か泣けてくる実情だった。
矢岸は冷血冷酷鉄血宰相、もう一人はやり過ぎが標準装備というかろうじで規律に引っかかっているような男で、どちらも他者を平気で突き落とし踏み躙る、性格に難があり過ぎ、というのは職員全員の意見だった。
それでも矢岸の経営手腕は見事であったし(そもそも彼がいなければこの出張所の運営は危うい)、もう一人はやり方こそ危ういが仕事に対して意欲的であり、そしてどちらも他者に容赦はないが逆らわなければそこそこ面倒見は良かった(そういう所は尾崎と真逆だった)。逆にいえば逆らえばアウト―――逆鱗に触れれば人生が詰むのだが。
この出張所には所長がおらず、実質副所長三人がトップだった。3トップに難があり過ぎるのだが、彼らとやり合う他出張所の所長らも相当な曲者どもと噂なのだから、基本≪叶え屋商会≫というのは良くも悪くも一癖も二癖もある御仁の溜まり場なのだろう―――と威津島は思っている。閑話休題。
「威津島、左眼帯の手下が面白いの連れてきたと聞いたぞ」
―――あ、やな予感。
嫌な汗が米神を伝う。経験則と尾崎の性格を考えるとどうしても良い結果が浮かばないのは何故だろう。というかこの人ほんと本能と好奇心で生きてるよな―――どんどんと逸れていくその思考を、人は現実逃避と呼ぶ。果たして、
「そいつのところへ案内せい! 拒否権はナシ!」
「ぎゃああぁぁ! やっぱりぃー!!」
こうして威津島が上司の思い付き巻き込まれ回数は更新する事となる。これで三桁に上ったのだが、これは知らぬが仏だろう。
◇◇◇◇
「起きろパール」
矢岸の放った蹴りが容赦なくパール・リンディの腹にめり込み、意識を覚醒させるとともに悶絶・明滅させた。
「お前の証言とあの小娘の話を比較検討させてもらった。調べたところあの娘、渡英した間座網の血族の端くれらしいから、それが原因だろう。お前のおざなりな結界を通り抜けるには十分な素質だ、な」
最後の〝だ、な〟の間に再び蹴りが炸裂する。ただし先ほどよりは加減がされている。それでもえげつない一撃ではあったが。
「………っ、み、ま……せんっ」
「謝罪はいい。するならあの小娘にしろ」
さっさといけ。追い払うようにあしらいながら、封筒を投げつける。見事パールの顔面を強打したのは態とだろう。
その封筒にはハンナ・ブースの処遇、補償に関する資料と手続きのための用紙が入っており、つまりは残りの面倒な事務処理はパール一人でこなせという指示だった。手続きにはハンナの署名なども必要となり、あんな事があった後で正面切って向かえ合えなど嫌がらせ以外の何物でもない。
パールへのペナルティのつもりなのだろうが、嫌がらせの中に〝小娘〟が入っている事を理解しているのだろうか―――そこまで考え、パールは思考を揉み消した。
何とはなくだが、これ以上思考を続ける事は良い結果を生まないような気がしたのだ。
「副所長、どちらへ」
「野生の熊が帰って来たそうだ―――挨拶がてら、所用を、な」
………それで全て理解できた。今回3トップの内の一人が依頼担当したそうだが―――それはもう酷いものだった、主に経理の面で。
依頼は十全、しかし破壊した建築物、公共物、情報の揉み消し、備品、エクセトラ。それらにかけた出費は半端なものではなかった。
その報告を聞いた時、パールは眩暈がしたものだ―――主に、自分の上司の怒り狂い具合を想像して。
報告を受けてから日常となった暴力から手加減という文字が差っ引かれ、彼の放つ殺気の純度が日を追うごとに増していき、それらを濃縮させるためとしか思えないほど仕事に没頭していく様は見ていて胃に穴が空きそうだった。副所長付きという代わってもらえるなら即断する立場だが、そんなモノ好きはどこにも存在しない。最近パールの常備剤に、胃痛薬の他に頭痛薬が加わった。いつ入院するかというトトカルチョが行われている事を、彼は知らない。
………それらの諸悪の根源の帰還に、思う事は唯一つだった。
「途中までお供します」
あの強面が無様に潰れるところを間近で見ずに気が晴れるか。