六話:友人=職場を間違えた者同士
架谷が〝それ〟を見たのは、本当に偶然だった。
友人が慌ててバイトへと向かった後、何気なく床を見た時にきらりと光るものが視界に入った。拾い上げてみれば、それは友人が珍しく酷く気に入っていたアクセサリーだった。
ここでメールの一つでも入れて明日にでも渡せばいい。そうすればよかったのだ。しかし、架谷はそうしなかった。
彼女の職場が気になった。俎上に上った上司が気になった。彼女が嫌そうに(けれど柔らかい表情で)話す同僚が気になった。理由ならいくらでも挙げられて、それはただの好奇心で、そしてそんな好奇心は捨て去ってしまうべきだった―――後悔とは、後で悔いるもの。全くもってその通り。
しかし、既にそれは遅い。架谷はその好奇心に負けて、友人を追いかけてしまった。
………そして、彼女が〝それ〟を見たのは、至って必然だった。
―――え?
架谷は一瞬、見間違えたのかと思った。
友人の向かった方向と以前教えられた職場の大まかな位置を頼りに追いかけていたのだが、幸運にも(そして、不運にも)架谷は友人の背を視界に捉える事に成功した。
その背が細い脇道に逸れていくのを見て、彼女の名を呼ぼうと息を止め、
そして、彼女は〝それ〟を見た。
―――所長?
猫背気味で細身の長身に、僅かに癖のある真っ黒な髪、男の癖に女性より白い(いっそ病的ならまだよかった)綺麗な肌。そんな特徴を併せ持つ人物など、架谷の周囲ではただ一人だった。
―――でも、今、目が………。
ちらりと見えた横顔で確信を得た―――同時に、別人だという疑念が靄のように湧き上がる。
自分が所長と呼ぶ橘という男は、切れ長の釣り目に真っ直ぐに通った鼻梁、そして薄い唇。パーツは一級品であるはずなのに、無気力と陰険と嗜虐が綯い交ぜに表情がこの上なくよく似合う人物だった。そんな人物も架谷の周囲に二人といない(というかいて欲しくない)ので、それがまた確信を深めさせるのだが………
―――きんいろだった?
彼の眼は、海の底よりも暗く、暗闇よりも黒い、真っ黒な瞳だったはずだ。
焦慮という靄が湧き出る。それは、確かに黒々しい色をしていた。
その背を追いかける。既に追いかける背は柔らかな女性のそれからなだらかで骨張ったそれにシフトしていたが、架谷は毛ほども気にせず、そして気づいてさもいなかった。
虫の知らせ、女の勘―――あるいは、彼とともに過ごした時間から得た、経験が。彼女に何かを告げているかのように思えた(■■のはだめ)。
かくして。
裏路地の先には、彼女の上司の背中と、彼女の友人の怯えた表情が―――
「―――橘さん!」
そこから先の記憶は酷く曖昧で、靄に包まれたように掴む事が出来なかった。
◇◇◇◇
何が起こったのか。正確に峪梨可純が把握したのは、実のところ事態が終盤を迎えて落ち着いて記憶をなぞった時だった。
「―――橘さん!」
その声を聞いた時、まさか、という言葉と、やっぱり、という思いが頭を埋めていた。
まさか―――まさか、友人がここにいる筈が。
やっぱり―――やっぱりこの人は、友人の。
夜の獣―――架谷の上司の肩越しに、友人の姿を認めた時、峪梨の頭を埋めていた言葉の全てが、すとんと心に収まったのを確かに感じだ。
どうして、もなぜ、も消える。あるのはどうしようだけだった。
どうしよう。どうして………どうやって、この場を切り抜けよう。
架谷の上司の言動からみて、まず彼は架谷を傷つけるような真似はしないだろう。だったらあとはどうやってこの状況を切り抜けるかだけ―――
「こんの………バカ上司ーーーっ!!!」
ばちこーんっ!
右手一閃。問答無用で架谷が上司に平手を喰らわせていた。
「………へ?」
いやいや、と思う。いやいやいやいや。え、なにそれ?
言い訳も言い分も一切聞かずの制裁に呆然とする。架谷の表情には毅然とした色はあってもヒステリックな色はない。それでも目尻に浮かんだ涙が彼女の精神の状態を如実に語っていた。
「前から犯罪スレスレというか犯罪そのものに手を染めていてもおかしくないような事ばかりしてましたが………流石に見損ないましたよ! 女性に手を上げるなとは言いませんが、もうちょっとスマートにやったらどうなんですか! しかも、私の友人ですよその人!」
その時の峪梨の心情を一言で表すならこうだ。
………えー。
何か大切なものを放り投げているうえ、友人と言う立場の置きどころを問いたくなるような台詞だった。言い方というものがあるよね、ついでみたいなんだけど、オブラートって言葉知ってる? 架谷さん。
それでもまだこうして感情を爆発させているところは人間らしいというか、何というか。色々と突っ込みどころのある状況ではあるが、あんまりにあんまりな発言に言葉も出なかった。いや、本当に。
「いや、架谷さん話を」
「いま私は怒っています。頭を冷やしてくるので話しかけないでください」
ぺいっ、と伸ばされた手を容赦なく叩く。その姿はまるで浮気の言い訳をする旦那に釈明の余地なしと追い払う奥様のよう。
―――似合わない。似合わな過ぎるよ、架谷さん………!
彼女の性格やら性質やらを把握し、かつ旦那役である架谷の上司を少しでも知れば、その構図は悶絶モノ以外の何物でもなかった。
そう、この状況が頭から吹き飛ぶぐらいあり得なく、笑わざるおえない。
だってあれだ。恋愛という言葉が宇宙語になっている架谷と、どう好意的に見ても家庭的という言葉がUMAの架谷の上司という組み合わせ。突飛を突きぬけて魔界にランデブーしてる、結婚という言葉の意味がどっかに逃避行してる!
腹筋が、腹筋が! と口元を押さえている姿は滑稽なのだろうがいたしかたないだろう。此処で笑えば空気が壊れるどころか架谷の上司にいらぬ油を注ぐことになるのは間違いなかった。
峪梨の反応は逸れに逸れた。
峪梨の対応も遅れに遅れた。
「行こう、かすみちゃん!」
いつも通り微妙に滑舌の悪い呼び方で呼ばれたと思ったら、手を取られて連れ去られた。架谷の上司を放り出して。
―――というか、え? これって痴話喧嘩? 私巻き込まれてる?
もうすでに色々と遅い。
「………架谷さん」
「なあに?」
「ええと、上司の人は………」
「知らない!」
いや知らないって、子供みたいな。そんな峪梨の突っ込みは心に仕舞われた。
「………架谷さん」
「なあに?」
「行く宛ては?」
「………ない」
見切り発車もいいところだった。
冷静な部分が残っているようで、結構いっぱいいっぱいだったらしい。
要約すれば、感情が高ぶり過ぎて興奮した架谷が切れて、上司を平手した後、その場にいた峪梨の手を掴んで連れ出し逃走した―――これが裏路地での一連の出来事だった。
◇◇◇◇
住所も抑えられているし、落ち着いて考える場所がいい。出来れば人のいない場所が。
架谷の要望に応えるべく選ばれたのは、皮肉なことに峪梨のバイト先だった。皮肉、というのは峪梨にとってである。絶対に架谷を連れてきたくなかった彼女にとって、最大級の苦肉の策だった。しかし無断欠勤など言語道断。最近のヘマと上司様の御機嫌を考えても電話で伝えてもどうにかなる問題ではなかった。そうなれば明日の朝日を無事拝めるか………。そこまで考えて背筋がぶるっと震えた。
何故か―――その問いは、事務所の扉を開ければ即解消される。
「こんにちはー」
「おう、やっと来たか―――ふおおぉぉっ! なんじゃなんじゃ、その嬢ちゃんは! いいのういいのう、むっちむちじゃのうげひっ!」
「何をしている、邪魔だ。峪梨さん。お客様ですか?」
「………ああ。いえ、私の友人ですよ」
扉を開ければ何とも残念なイケメン(外見若者、中身絶倫老人)に出迎えられ、
「なにすんじゃこの×××野郎! ファックすんぞ!」
「臭いんだよ爺。年相応に干乾びてろ」
「んだとこの女王様主義が! SM嬢も真っ青な癖に何言うとるか、この間とて×××プレイで×××させた挙句×××だったそうじゃのう!」
目麗しい麗人の性癖(女王様に甚振られるより甚振る派。女王様の意味あるのだろうか)を叩きつけられ、
「人の趣味に難癖付けてんじゃねえぞ×××が!」
「ふん、×××の×××め!」
「×××が何言ってんだ×××して×××で×××されて死ね!」
「この―――め!」
「やんのか―――が!」
聞くに堪えない罵詈雑言の嵐に出くわすからである。ちなみに、この現象に遭うのは5回に1回の割合で、そして大抵客を逃すため、5回に1回は客に逃げられている回数とも言える。よく持っているよなあこの事務所、と峪梨がしみじみ思う実績だった。
「あんまり煩いとハミルさんに怒られますよー」
『ハミル』という単語一つで喧しい彼らも石になるのだから、我が上司の威光には感謝感激であった。その分痛い目も随分見ているが。
「もう一度言いますが、彼女は私の友人です。………だから彼女に変な事しないでくださいよ、特に桐原さん!」
「わしか!?」
「当然ですよ。リーガンさんも可笑しな真似しないで下さい」
所長に事情を説明してくるから待っててね―――友人に伝えるよりも先に、この常識外二人組に釘を刺しておく。万が一でもあれば、峪梨はその瞬間唯一と言っていい(多少の執着はある)友人を失うことになるだろう―――予見というより未来視レベルの一寸先を回避する為、念入り過ぎるほど〝お願い〟をしておいた。
この年で心を許せる相手がこの探偵事務所にしかいない………などという危機的状況を招くわけにはいかない、という危機管理意識に基づく判断である。そうなれば確実に近い未来破滅する、という窮地を回避するためである事も理由の一つだった。
どこまでも自分本位だな手前は、などという言葉が聞こえた気がするが気にしない。脳内で友人がそれは大変だねえと同情なのかどうでもいいのかもしくはその中間なのか、かなり他人事に呟いた気がした。
「ハミルさん、いらっしゃいますかー………」
尻すぼみになる声を、懸命に維持する。この扉を開けるのは毎回非常に勇気がいる。もしかしたら勇気が上がっているかもしれない。
疑問の態ではあったが、この所長が部屋にいない時などまずない。
だからこそ、不安と安堵とが常に心臓を締め付けてくる。
―――いや、そもそもハミルさんの居場所が分からなくなる事なんてあるのかな。
果たして、
「………どうした。客か?」
我が探偵事務所最高責任者様は、いつもの通りソファでまどろんでいらっしゃいました。