四話:目覚めればワンダーランド
ぐわんぐわんと思考が揺れる。
何があったんだろうと考え、黄昏色の世界と、半魚人を思い出す。半魚人、マーマン、海の司教、サメ、幻想種。そう、遭ったんだ、半魚人に。裏路地でばったりと。
何故裏路地、何故都会のど真ん中、何故海の近くではなく陸地で。
………何かを忘れている気がする。何だろう。
そういえばどうしてわたしは寝ているんだろう。寝ている? 寝ている。ふかふかの布団で。暖かくて気持ちいい。もっと寝ていたい。でも眩しい。光が目蓋の裏に沁み込んでくる。眩しくて眠れない。暖かい、眩しい、暖かい、眩しい―――。
「あ、目が覚めた?」
「!?」
ふっと影が差し込んできて、思わず目を開ける。そこには―――
「災難だったわね。大丈夫?」
美女と野獣がいました。
「―――――っ!??!?!?」
◇◇◇◇
「ごめんなさいね、いきなり驚かせて。………ほら、あんたも謝りなさい!」
「きゃいんっ」
「あ、いえっ、気にしないでください!」
ハンナが目覚めたのは見覚えのない施設の一室だった。窓も何もない部屋にベッドだけが置かれた部屋は、寂し以前に狭く、適度な解放感を与えるには家具一つが限界だったのだろうと察せられる狭さだった。仮に机や本棚やテレビを持ち込めば、確実に足の踏み場が消滅するだろう。
あの部屋にいた美女と野獣―――マリと威津島と名乗った二人の言葉を要約すれば『ごめんなさい』だった。
ハンナはなんとなく理解し、そして肩を落とした。
つまり彼女はあのマーマンに攫われ、そして目の前の二人はあの半魚人の仲間であるという事だったのだ。被害者と被害者ではなく、被害者と加害者の仲間。理不尽な状況に対する憤りや悲しみを分かち合い意気投合するには、お互いの立場がアレすぎた。
しかし、と天啓が閃く。謝ったという事はわたしがここにいる事は彼らにとって予期せぬ事態で後ろめたい状況なのだろう。それならば、このまま帰してもらえるという可能性もあるのでは―――そこまで考えたところで、
「こっちの不手際で申し訳ないんだけど、ちょっとこのまま………ってわけにはいかないのよ」
本当に悪かったわね。
すまなさそうな声の裏に拒否を認めない強引さを感じ取って、がくりとした。僅かながらの希望を抱いた分、絶望は深かった。
「あの、マリさん。わたしどこへ連れて行かれるんですか?」
「ハンナちゃん、半魚人と会ったの覚えてる?」
「サメの半魚人の方ですか?」
名乗りもせずに名前を呼ばれた時は驚いたが、「はい、これ」と悪意なく渡された鞄を見てなんとなく察した。悪気が全く見られないあたりに常識や良識の置きどころの違いを多分に感じてしまう。
しかし仕方がないとも思う。そもそも、種族が違う時点で常識だって違うのは当然ではないだろうか。
「そうそう、そいつ。ちょっとハンナちゃんを巻き込んだせいでそいつが上司にめちゃくちゃ怒られてね。で、巻き込んだお詫びと、状況確認と報告との齟齬がないかを調べなくちゃならないもんで、ハンナちゃんに出向いてもらうっていうのが向こうの言い分なんだけど………」
マリの言葉から、ハンナは今から自分が今から行くのはそこそこ立場のある人の所なのだろうと察する。そしてマリから部下の半魚人ともども嫌われている事も。
さっきから「あの眼帯野郎女の子に無理を」「自分から出向くぐらいしたら」「妙なことしたら潰す!」………とすごい言われようだった。威津島が怯えているのも気のせいではないだろう。
―――それにしても、美人は怒っても美人だなぁ。
サファイアと同じ色の瞳に、バレッタで纏めた金色の髪は日本人の抱く典型的な欧米人のイメージに沿ったものだ。白磁の肌はきめ細かく、その細かさは東洋に近いものがある。肉感的な体にブラウスとパンツだけという出で立ちはシンプル故に、女性の目から見ても十分に健康的な魅惑を引き立てていた。
三白眼ではあるがそれも彼女が笑えば愛嬌があり、どこかネコ科の肉食獣を思わせる美女だった。
そして、野獣と言うあだ名された(ただし、ハンナの心の中に限る)威津島は、どちらかと言えば優男の分類に入る。言いかえれば気のいいお兄ちゃんだろう。
「それにしても、ハンナちゃん俺見てよく悲鳴上げなかったね」
「わたし、イギリスで霊的生物専科してたんです」
「ええっ、じゃあ魔術師なんだ?」
「いえ、そっちは見習いで………。まだ満足に術式も組み立てられなくて」
「へえ、でもすごいじゃん。俺そっちの才能ないからなぁ」
「そうなんですか?」
「うん、そうそう。人狼って肉体が発達しすぎて、魔素の才がないのかねぇ?」
「いえ、そんなことはなかったような―――いえ、なんでもありませんっ。そんなに落ち込まないでくださいよ威津島さん!」
ただし、彼の体が茶色い毛に覆われ、その手足が獣のそれと同じであり、顔は犬や狼とそれほど差異のない状態でなければ―――人間と同じであれば、何も知らない一般人も共感するだろう。
人狼―――お伽噺の中で出てくる亜人の一種。竜や吸血鬼とならんで空想の世界に生きる住人という認識が、一般人の反応だろう。
しかし、現にこうして目の前に実在しており、そしてハンナも当然の事として受け入れている。………その目が異様に爛々と輝いているため、『当然』という言葉には語弊はあるかも知れない。
ちなみに、『気のいいお兄ちゃん』というハンナの評価は最初に自己紹介をし合った際、「こっちの方がいい?」と完全な人型になった時の姿に基づいたものなのだが、「別に平気ですよ」と流され現在に至っている。
「ハンナちゃん魔術師なんだ?」
「いえ、魔術師見習いで」
「じゃあ魔具って使えるわね?」
「いや、だから見習いですって……―――て、うわぁっ! ななななんあなな、なんですかこれ!?」
妙に『魔術師』という所に食いついてきたマリから渡された<魔具>を見て、ハンナの声が思い切り裏返った。動揺丸出しである。
それは、ハンナのようなぺーぺーのど素人から見ても一級品と言って差し支えないような一品だった(鑑定眼が無さ過ぎて、どれほどすごいのかもよく分からない)。
魔具とは魔術の演算や術式構成の補助機器の名称で、高価なものでは一定質量の魔力を込めるだけで魔術を発動させる事が出来る。お守りなどもその一種で、術者の魔力を吸う事で耐魔効果のある魔力を放ち、術者の守護という効能を得ている。ただし、よほど強力なものでなければ気休め程度の効果しか期待できず、それ一つで魔を退けられるならそれは既に別物なのだが。
そういう意味で、ハンナが渡されたものはタリスマンの形をした別物だった。その効果は、全く読み取るは出来ないが。
「何されるか分かんないからね―――そのお守り持ってなさい」
本当に上司の所に行くんですか。
いっそそう問おうかと思ったほど、マリの声は固く、険しい表情だった。
そんなこんなで、三人は上司の部屋と思わしき扉の前に立っていた。質素でありながら気品漂う作りになっており、相当古いのかだいぶ痛んだ印象を受ける。
先ほどから威津島が元気づけようと声をかけてくるが、その内容は「大丈夫だよ、さすがにあの人も女の子に暴力は」「……うん、ハンナちゃん部外者だし。うん」「い、いいいざとなったら俺が助けるから」「うるさい馬鹿犬!」「きゃいんっ!」………当事者の不安を煽る事この上ない惨状だった。
わたしが一体何をしたんだろう。ああお父さんお母さん、先立つ不孝をお許しください………。先ほどからそんな言葉が脳内をひたすらリフレインしている。普通なら不幸に酔った自己陶酔だが、嫌に真実味があって恐ろしい。背中を伝うのは、決して汗だけではないのだろう。
「じゃ、開けるわね」
マリが手をかけたドアが、地獄につながる扉にしか見えなくなっていた。
「危ないっ」
「ぎゃっ!!!」
バァドコドガシャンッ!!!!
擬音にすればこんなところか。
両開き戸が勢いよく開くと同時、〝何か〟が飛び出してきた。
その〝何か〟は勢いを殺すことなくコンクリ製の壁に叩きつけられ、ピクリとも動かない。
え、死んだ?
思わずそう思ったのもつかの間、うう、ともぐう、とも形容し辛い呻き声らしきものが聞こえたので生きているのかと安堵する。………はずもなく。
その〝何か〟をハンナは知っていた。それは、
「ちょっと半魚人、リンディ! 危ないじゃない、ドアにぶつかる前に受け身ぐらい取りなさいよ!」
「ちょ、マリそれ無茶苦茶! パール大丈夫かよ、派手にやられてんじゃねえか」
元凶、とも言える存在―――ハンナを攫った半魚人だった。
気のせいだろうか、いま、ノーバウンドで。
「おいこら矢岸、ドアに向かって飛ばすなって何度言ったらわかんのよ、危ないでしょうが! わたしが!」
勇ましい姿は実に恰好がいい。しかしその内容は小気味良いほど自分勝手なものだった。しかし、それを処理するだけの余裕と容量は、今のハンナにはない。よって彼女を気に入っていたマリの猫が外れた事も何の問題もなかった。
「うるせえ腰巾着。あの糞狐がくたばったら止めてやるよ」
「なあんですってぇえええ!?」
「ぎゃあっ、落ち着けマリ! ハンナちゃんの前、ハンナちゃんの前!」
一瞬で混乱を極めた室内に冷や水を浴びせたのは、本人は全く意図も何もしていない、むしろ巻き込まれたハンナだった。威津島の台詞に、一瞬にして視線が集まる。ただしたったの2組。
ぎしり、と動きが止まった。いまだ彼女は部屋に踏み込んでいない。しかし、最奥に座る―――恐らくはパール・リンディと呼ばれた半魚人の上司であり、シミネと呼ばれた、この部屋の主の視線が、まるで眼球の奥まで覗きこまれているかのように思えて、酷く恐ろしく感じた。
「へえ、この子が?」
「ハンナちゃんは単なる被害者。妙な真似したらぶっ飛ばすわよ」
「ふん、本性知っても態度を変えなかったのか? その程度で懐柔されるとは、流石獣。主人の器も高が知れるな」
「………矢岸、殺されたい?」
「手前如きがか? 醜女」
「―――ちょっとあんた!」
恐ろしい目を恐ろしい男に向けられている。ハンナは動物で例えれば小動物だった。小さな小さな草食獣は、見つからないように隠れ怯え逃げ惑うのが常だ。対して、男は肉食獣、それも大型の生き物に思えた。残虐と言うより傲慢、他者を踏み躙る事に厭いがない、天性の略奪者に。
弱者が強者に出来るのはただ一つ、目を付けられぬようにする事である。媚びへつらうか、小さく縮こまっているかの差異はあるだろうが、とにかく注意を引かぬ事。強者に勝機もなく抗う事は愚の骨頂。
―――だというのに。ただの小動物であるハンナは、捕食者に爪を立てた。
勝機もない。戦略もない。ただ、怒りにまかせて糾弾する。
「あんたが一体誰か知らないけどね、マリさんになんてこと言うのよ! シコメ? それって不細工ってことでしょ! こんな美人掴まえて言うに事欠いて不細工!? それならアンタの方がよっぽどアグリーフェイスよ、Mr.シミネ!」
腹の底から怒鳴って肩で息切れしていくうちに、頭から血が抜けて思考が冷えていく―――だが構うものか。
ハンナは小動物だ。しかしハンナにも意地がある。感情がある。怒りがある。一度腹を括れば、彼女はどれほど怖くとも必死に爪を立て、牙を向けて威嚇する。
逆光で顔さえ見えないデスクに座ったままの男も、マリも、威津島も無言だった。本人も含めて、皆矢岸という男の恐ろしさを知っている。視線で人を圧倒させ、指先一つで人を傷つけられる、小娘では歯向かえもしない男だという事を。
今まで彼を怒らせて来たのは二つの意味である一定水準に達した者たちばかりだ。つまり、強さと愚かさ。
ハンナはそのどちらにも当たらない。いや、取った行動から見れば後者と言えたが、少なくとも、彼女は自分と相手の立ち位置を正確に把握していた。あまりにも今までと毛色が違っている。
沈黙が、重い。
「ふうん………」
「矢岸、この子は被害者よ。余計な真似したら潰すからね」
「黙れ、人事権は俺にある」
「そんなものうちの室長が撥ね退けるわよ」
堂々としたマリの態度に、心底忌々しそうに舌打ちする矢岸。しかしすぐさま気を取り直し、ハンナに視線をよこした。にっこり。
「さて、ハンナ・ブースさんでしたね。わたしは矢岸。貴女をここへ連れてきた半魚人の上司に当たります。貴女にはこれからいくつかの質問をさせていただきますのでお答えください」
慇懃かつ拒否を一切認めない物言いである。
隣で「何今更猫かぶってんのよ」という嫌味はスルー。直後に上がった悲鳴もスルー。それにしても胡散臭い笑みである。温和な好青年の笑顔であるはずだが、何故か一物抱えているようにしか見えないのは彼の本性を見たせいだろうか。
今更ながらに、自分のしでかした事に眩暈を覚えるハンナであった。
◇◇◇◇
結局、いくつかの質問が交わされた後、ハンナは無事解放された。部屋を出ただけの筈なのだが、本人の心情的には『解放』以外の表現方法が見つからなかった。
い、生きてる………という声が廊下から聞こえる。というかドアぐらい閉めてけ腰巾着ども。他にも何やら励ましや憤りの声も聞こえるが、聞きなれているので右から左へ抜けていくばかりだった。
可笑しなものだと矢岸は思う。あれほどの啖呵を切り、矢岸の質問(他者にとっては尋問)をはっきりと答えていたくせに、部屋を出た途端不抜けるなど。
だが、それ以上に興味深くもあった。視線が合った時、矢岸とあの娘は確実に両者の彼我を理解し、己の立場を弁えたはずだ。即ち捕食者と被捕食者の関係を。
だというのに、見知らずと言っていい相手を侮辱され、その立場を殴り捨てて矢岸に爪を立て、牙を向けてきた。矢岸にとって、何の痛手でもないという事を、恐らくは理解しながら。
矢岸は弱者に興味はない。あの程度の反抗など、部下でない限り気にも留めない。ただし、あまりにも愚かであれば苛立つし、ある程度力を持つ相手なら容赦をすれば痛い目を見るのはこちらだと理解していた。矢岸は強者ではあったが、絶対者ではなかった。
矢岸は大手の取引なども受け持っていて(そもそもここの連中の経営という概念は当てにならない)、外部の接触者である商談相手に暴力を振るう事は無論ない。足元を見られぬよう立ち回ってはいたが、それでも業界では年若いため侮られてはいる。また、広報や経理も担当する彼が暴虐性を示すのはほとんどが仕事場であるこの支部だけであったことも合わさって、必然彼の暴虐性が知れ渡ることもなく、彼を弱者とする愚か者は尽きたことはない。しかし強者と知って抗う者はいなかった。
それがひどく苛立たしいと思う。
そこがひどく目新しいとも思う。
そっと左目を抑える。そこには眼帯があった。病院などで渡されるような、真っ白い眼帯だ。
その下が、眼球にあたる部分が疼いた気がしたからだ。故に矢岸は苛立つ。此処に受けた呪いを思い出し、そして呪いをかけた人物を思い出すがために。
残った右目で、デスクの上に並べられた資料を眺める。それらは部下に集めさせたものだった。
事の始まりは半年前。彼の情報網に奇妙な食い違いを見出した。
それを徹底的に追及し、あるいは脅し、賺し、ある意味人道的に(人間らしく)情報を収集し続けた。その結果が、この紙の束だ。
この紙の束が一体いかなる意味を持つのか。それは矢岸のみが知るところである。
ただ、彼は目的に近い者を見出した。
資料の文面には、とある文字が記載されていた。
『橘事務所』、と。