二話:上司の天敵
「架谷さん、出かけてくるから」
橘がこう言って出かけるのは大して珍しい事ではない。仕事柄、外出する機会は多い。そもそも、書類整理以外は殆ど外での活動が主なのだから当然だった。
「面倒な客が来たらコレ使ってでも叩きだして」
……ただ、この文句が来るのはこの半年の間でも2回だけしかなかった。同時に、『コレ』と言われて渡される事も。以前ならば「無視をしろ」と出された指示が変わったのは一体いつの事だったかと記憶を辿ってみるが、どうにも思い出せない。……まあいいか。
けれど、まあ、つまりあの人が来るんだろう。その人物を思い描いて、架谷は思わず苦笑してしまった。
―――この人でも苦手な人がいるんだなぁ。やっぱり人間だもんね。
「いってらっしゃい。お帰りは何時頃になりますか?」
「知らん」
出た。これは相当に機嫌が悪い、と心のメモに書き留める。最近気づいたのだが、橘の「知らん」「分からん」は大概機嫌が悪い時で、低空飛行であればあるほどのっぺりと低い声で言う。今回は冷気を感じるほど低い。ここ最近稀に見る機嫌の悪さ。しかしこれもまた過去数回と同じであり、尚々確信を得てしまう。
依頼の対象の人、大丈夫かな。しかし対象がどうなろうと架谷に影響はなく、また訴えられるようなヘマをする上司ではないので、その心配はあっさりゴミ箱行きとなった。おそらく二度と意識の舞台に上がらないだろう。即焼却処分の可能性が大である。
非情と言えば非情で、冷淡と言えば冷淡で、淡泊と言えば淡泊なのが架谷の特徴だった。余計な心配はストレスの元、という家訓が捻子曲がった結果ともいえる。
「いってくる」
頭が一瞬重くなって、そしてすぐに軽くなる。
橘に目をやれば、脇目も振らずに事務所から出て行くところだった。振り返る事は、ない。
「………そんなに苦手なのかな」
そっと頭に手をやる。撫でるでもなく、その大きな手を頭に乗せる(叩く、というのとは違う)のも、これで3回目だった。
なんだか儀式みたい。そう思って、や、本当の儀式ってもっとメンド臭かった、と思い直した。
再び仕事と向き合う。
量は目算で2時間と少しで急ぎの分が終わるぐらい。超特急なら1時間半と少しで終われる筈だ。
頭の中でざっと計算して、急いで終わらせようと張り切る。
気分が高揚して、橘とは真逆に機嫌が良くなっている事を自覚する。仕方がない。橘の事情はどうであれ、架谷はあの人との会話を楽しみにしているのだから。
◇◇◇◇
「あ、あとちょっと………」
目算が外れた。それはもう見事に外れた。
何が超特急で1時間半だ、何が2時間分だ。時計を見れば既に四時過ぎ、既に3時間以上経っている。橘が出るのはいつも4時間から6時間ほどなので余裕ではあるが、それでもあれやこれやの予定が儚く崩れ去った事には変わりない。
ケーキを買ってくるつもりでいたのだが、もう今からでないと間に合わない時間になっていたのが痛恨だった。お茶受けが切れていた事を思い出して、目を付けておいた店(五時から30分間クッキーを20円値下げ、ということをこの前知った時に、絶対買うと決心したばかりだったのに……)から買ってくるつもりだったのだが、それも最早取らぬ狸のなんとやらだった。
―――いっそ仕事を放棄してお茶受け買いに行こうか、それとも諦めるか。
究極の二択が突き付けられる。
具体的に言うと、楽しいひと時か、はたまた鬼上司からのキツイ叱咤か………。
「さっきからどうしてうんうんと唸っているのかな?」
「うぎょはっ!?」
誰もいないはずの事務所、それも背後から声をかけられて跳び上がった。おまけに首筋に吐息。今、間違いなく心臓が出た。早鐘を打つ胸を両掌で抑え込む。
誰、と思う必要さえなく、精一杯動揺を押し込めて背後に立つ人物を思い切り睨めつける。
「赴夜さん、いきなり声をかけないでください!」
「ははは、悪い悪い。あんまり集中してたもんだから」
どうやって中へ―――それは聞いても意味のない事だと架谷は過去の経験から既に学んでいた。こういった飄々として傍若無人で人のペースをすぐさま崩してくるところが、橘が苦手とする理由なのかもしれない。
「驚かせたお詫びに」
ひょいと目の前にぶら下げられたそれに、一瞬で架谷の心は奪われる。
「ああっ、これ東京で新しくオープンしたっていう………!」
「うん。ちょうど本場の方に用事があってね。数日日持ちしそうなのをいくつか。あと、こっちは東京のほうで売ってたやつを何個か」
「あああああ、一日100個限定の和栗モンブラン!」
「気に入ってもらえたようで何より」
それでも嫌いになれない、むしろ好きの部類に入るのは、こういったサービス精神からだろう。うんそうに違いない赴夜さんホントいい人!
一瞬で買収された架谷の目が爛々とお菓子に釘付けになっているのを眺めて、面白そうに、そして愛おしそうに赴夜は目を細めた。
こういうところが気に入らないんだろうなぁと思いながら。
「で、そこで所長が井筒さんに蹴りいりましてね、もう周りのヤクザもドン引きで。本当に大変だったんですよぉ」
「くくっ、あの子らしいなぁ全く。その後どうせおっかない顔でヤクザともども脅したんだろ? 相手が誰であろうと容赦しないからなあ」
「ほんとですよ。………まあ、橘さんにはいつも助けられているので文句を言える立場ではないんでしょうが、だからって銃を持ってる相手に素手でって」
「その井筒という男、銃だけじゃなく爆弾も持ってたんだろうな。下手すればどかん、だからヤクザも手を拱いていたんだろう」
「……て、えええええ!? ちょ、知りませんでしたよそんな事! 私死にかけたんですか!?」
「まあ、死んだら爆発して周囲一帯の人間を物理的に爆死させるか、超極秘情報をばら撒いて関係組織共倒れ覚悟で灰燼にするか、の違いだな」
「………え、それってあれですか。俺が死んだら情報が、ていう爆弾ですか」
「あははは」
「からかわないで下さいよ~~~………あ~、ヤバい、このケーキ本当に美味しい」
机の上にはモンブランの他にショートケーキやベリータルト、フォンダンショコラ、クッキー、マカロンなどが所狭しと並べられている。
架谷が淹れた紅茶はこの前依頼主が送ってきた物だった。どうやら有名な店らしく、赴夜が僅かに目を見開いた。
薄いとはいえ普段自分ばかりがする反応をさせた事にしてやったり、と思う間もなく、告げられた値段に架谷が驚愕する事となるのだが。
赴夜がやってきた直後、仕事を放り出して少し遅いお茶会を開こうとしたのだが、
「さて、仕事を終わらせたらこのモンブランを食べようか」
しっかり釘を刺される事となり、30分必死にパソコンと向かい合う事となった。よく頑張った、私! と手放しで褒めたい。
話の内容は持ち合わせたお菓子の感想や事務所の近況、という名の愚痴で、どれだけ些細なことであっても赴夜はいつも楽しそうに話を聞いていた。
他に言いたい事が、聞きたい事がないと言えば嘘になるが、それでもたかが3回会話しただけの他人が踏み込めるわけもなく。また赴夜はその点に関しては放置の姿勢を貫いており。
結果、内容は変わってはいるものの、実質は何も変わらぬ会話を続けている。
「それにしても、驚くべきはそれが仕事ではないという所だな」
「ですよねぇ。何かに呪われてるんですかね、うちの所長」
「あの子を呪うなんて、相当度胸のある大馬鹿だな」
「大バカって」
「そうだろう。下手に手を出すと千倍返し程度では済まないだろうな。殺しはしないから、社会的抹殺か人間やめさせられるかぐらいはいくんじゃないのかね」
「…………」
反論できなかった。恐ろしい事に。
「架谷さん、一ついいかな?」
「はい?」
珍しい。架谷は思う。赴夜は質問に質問を反す態でしか尋ねる事をせず、自分から何かを尋ねる事がなかった。いや、まだ3回しか話していないから珍しくもなんともないのかもしれないけれど。
手に持っていたティーカップを机に置いて相手に視線を合わせ、
「んー、橘をどう思っているのかなぁと」
「所長、ですか? 怖い人だとは思いますけど………」
「単刀直入に言うと、好き?」
「…………。…………、―――はぁっ!?」
一瞬固まる。え、何が。脳が再起動してのろのろと情報を処理し、ようやく赴夜の言った意味を呑みこんだ途端、裏返って悲鳴のような声が出た。
すき、スキ、隙、鋤、スキ、スキ、スキ―――好き?
「一上司一個人として」
相手の浮かべる貌をまじまじと見やる。何を考えているのか分からない、いつもと変わらぬ微笑み。その変わらなさに、胸の奥が僅かにざわめいた。
「………ええ、まあ。好きですよ」
「鬼畜生なのに? この半年でどれだけ酷い目に遭ったか分からない。その諸悪の根源である彼を、嫌いではなく好きというんだね?」
「………あの、一体何を言いたいんですか?」
苛々としだす。なんだっていうのか、この人は。
さっきまで好意を抱いていた相手に嫌悪に似た苛立ちが募る。赴夜は橘を好いていると思っていた。恋愛感情には見えない、けれど橘の話をする時、橘の影をなぞる時、常に優しい目をしていた。その目は確かに愛おしさを滲ませていた。
そう思っていたのに。
まるで架谷に橘の事が嫌いだと言わせたい、そんな言い草に腹が立って仕方がない。
確かに大魔王で鬼畜で人でなしで酷い人だ。上司として有能ではあるが酷い事には変わりない。いつも周りを見下していて暴力で物事を力技で解決して、人を陥れる事に躊躇も何もない非道の人だ。
上司として有能で、個人として真っ直ぐではある。しかし、それがいかなる方向で使われる才能か、どういった方向性の真っ直ぐさかは問題がありまくる人だ。
良いところを挙げるのが難しい、そんな人を好きだというのはやはり可笑しい。
それでも、確かに彼は自分を救ったのだから―――
「―――好きです。文句ありますか!」
―――そんな人物を否定しきった言葉を聞いて、黙っていられるか!
売られた喧嘩を叩き買うかのように、衝動任せに言いきった。
言いきられた赴夜は目を見開き、架谷を凝視していた。信じられないモノを見るような―――とは少し違う。驚きというよりは、相手を見通そうとするような、見透かすような、そんな目でじぃっと架谷の両目を見詰めていた。
…………。
あれ、なんだろう。何を間違えた気が。
………そこでふと我に返った。
そもそも、苛立ったからといってこんな喧嘩腰に言うような台詞ではない気がする。
赴夜の質問は、最初の揶揄い(架谷の中ではそういう事にされた)を除けば、橘に悪い虫が付かないように、あるいは架谷が橘と一緒にいれば酷い目に遭うからと気にかけたというようにも捉えられる(というか、後者の方が強い気がするのはなんでだろう)。
前述の通り、橘は人間的に相当問題のある人物だ。関わるだけで人生設計に相当のメスを入れること受け売りの凶悪物件だ(実際、私はもう既に何度もメスを入れられてるし)。
彼の事を知っている人ならば、常識的に考えて引き離そうとするのは当然である。
確かに赴夜の言葉は人の神経を逆撫でるようなものだったが、冷静に考えてみれば良心的な言い分でもあった。
考えれば考えるほど、彼を好きだと否定されたくない、ただそれだけのためあそこまで怒った自分が分からない。
そもそも自分は淡泊で流されやすくて、眉を顰めても他人の為に(と、言っていいの、これ?)怒ったことなどないのに。
「うん、よかった」
その言葉に、一瞬で現実に引き戻された。
わたわたと一人勝手に焦る架谷、を置き去りにして、何やら酷く満足気の赴夜。しきりによかったよかったと頷いている。あの、なにがよかったのでしょうか。
「安心したよ。あの子、ご存知の通り正確にちょっと難有りだから」
いや、あれはちょっとでは。
「私はここで失礼させてもらうよ。不愉快にさせてしまった事に関しては謝罪しよう。あの子が帰ってきたらよろしく伝えておいてくれ」
ペースに引きずられて目を白黒する。さっきまであった空気は霧散していて、何事もなかったかのようにどんどん進んでいくのについていけない。
「それと、最後にこれを」
差し出されたネイビーブルーの封筒を、つい反射的に受け取ってしまう。
反論の機会も何か言う間も与えないままに、赴夜の動作には一切の無駄も隙もなく、碌な挨拶をさせる間もなく出て行ってしまった。
その姿は、台風の如く。
「いっちゃった………」
茫然と呟く。
いったい何が何だったのか。
この時の架谷には知る由もなかった。
自分が言った言葉が、取り返しのつかない事態を招く事も。
ただ一つ。なんだかマズイ事になった―――それだけは確信できた。