一話:彼と彼女の関係性
「こちらが御依頼の品となります」
渡された封筒、その中には幾枚もの写真が入れられていた。所謂〝決定的な証拠写真〟が。
何の証拠写真か。―――ずばり、『浮気現場』。それも言い逃れの出来ないような、盗撮紛い(いや、如何言い繕っても普通に盗撮だよ、コレ)の色々な意味で際どい数々だった。
ディープな場面も十数枚撮られており、一体どうやって、と慄く事間違いない犯罪並み(というより完全に犯罪だと思う。口出しする気はないけど)のそれらは、重ね合わせれば人を殴り殺せる厚さになるほどの枚数だった。
現像されたものを取りに行った時のあの重み、あの時感じた驚愕はしばらく忘れられそうにない。恐ろしすぎて震えてしまった。
―――こんなにも簡単に、プライベートって暴かれてしまうものなんだなあ……。
その衝撃は一生忘れまいと心に誓った。忘れてとんでもないものに手を突っ込みたくない。その矛先が自分に向く可能性を(思わず)考えて、写真の整理をしている最中薄ら寒くなった事も忘れられない出来事だった。なんだか忘れられないことが多すぎる気がするが、気のせいだろう。
封筒には丁寧懇切に対象の行動や浮気相手の経歴を筆頭にアレコレまで取り揃えられた書類も同封されていたが、これも碌でもない手段で収集されたものなのだろう、と思われた。
多分、犯罪ギリギリのグレーゾーンを突き進むような裏技である可能性が濃厚な線なのだろう。………確証ではないのは、今現在に至るまで事実確認を取っていないからだ。何度か聞きそうになった事はあるが、これから先も聞く事はないのではないだろうか、とも思っている。主に、自分の社会的安全と心的安定を考慮して。
後、知らなかったという事実さえあれば、何かあった時どうにかなるのでは、という計算もちゃっかり存在している。
依頼人はそれらに目を通していくほど興奮していき、最後にはこちらが気の毒に思うほどしおらしく泣き伏せてしまった。か細く「なぜ」「どうして」と呟く様は、さながら美貌の未亡人の如く儚げな姿だ。
表面には一切出さず、心の中でだけ溜息を吐いて、思う。―――ホント、人間ってコワイ。
今回は、ほんの少し調査を齧っただけの彼女にもばれる様な、本当に見事な泥試合だった。
悲哀に濡れたその仮面の下には、目を背けたくなるほどのどろどろとした感情とドン引く計算が繰り広げられていることなど、ちょっと調査に噛んだ程度の彼女にさえ透けて見える事実である。
ただしそれは書類上の事だ。依頼人の横顔にはそんなおどろおどろしいものは欠片も見当たらない。どころか、憐憫さえ感じてしまうほど憐れで儚く思えてしまう。本当に怖い。しかし本人は気付いていないが、そう思いつつも依頼人を見る彼女の目は冷めきって、を通り越して無味乾燥気味である。
この認識、そして線引きある付き合いしか出来ない悪癖(と、自分では思っていないのだが)が拍車どころかジェットエンジン搭載で加速させ、『他人を見たらまず疑え』精神を大いに育んで下さった諸悪の根源―――ドス黒所長は、慰めているのか楽しんでいるのか(後者に100円)分からない態度である。こんな人物相手に、よく依頼人が来るものだと呆れ半分感心半分で話を聞き流す。
―――いや、やっぱり来るんだろうなぁ、と思い直した。
何せこのご時世、何の後ろ盾もなく(それこそ≪叶え屋商会≫にすら登録していない)、従業員以外まず情報が漏れる事のないような極細事務所でありながら、依頼達成率100%など他に存在するのだろうか。少なくとも、彼女はここ以外知らない。
依頼は週に一度ある程度。大体は探偵がしそうな浮気調査などや、犬猫ではない人探し(何故か犬猫の類は一回もない)。そして後ろ暗い背景の依頼である。
今回の様な浮気調査などの泥沼、それらの何らかの〝後始末〟を求める者は多い。そういう所は実に<探偵業>らしくなかった。いや、そんなもの求めてどうする彼女、と突っ込みを入れる。
しかし、そんなモノを態々「金になるから」の理由で平気でやってしまのは理解しがたくもあった。確かに金にはなるが、泥仕合の後始末など人間の汚い部分目白押しである。面倒くさくはないのだろうか、と首を捻った事は数度ある。だが―――と結論はその度、彼女の脳裏にどこからともなく飛来してきた。
―――この人に理由はないだろう。ただ単にみたいだけなんじゃないの?
毎度全く同じである。それで毎度助手である彼女はあっさり納得するのだから、所長の性格は推して知るべし。
そんなドロドロとした依頼とは一線を画すようで、実は根本的には同じではないのだろうか、と彼女が邪推(しかし本当に邪推であるかは不明)しているのが最後の後ろ暗い依頼だった。
後ろ暗い、とは人死にや怪奇現象絡み。他は―――魔術や異能、異形関係。
………一番安全なのが浮気調査筆頭の、それもベタベタにドロドロな、と言うのは皮肉だが、しかしそれでも、最後の依頼よりは1000倍マシと言えた。断言できた。
何せ揃いも揃って、今までどの業者も放り投げて、最後に依頼人がこの事務所に辿りつく………などと言う〝訳アリ〟の依頼である。碌なものである筈がない。
そういった〝訳アリ〟の依頼は、恐らく他の同業者と比べて圧倒的に比率が多い筈だ。専門としているところと比べる事など本来なら可笑しい筈なのだが、どうやらこの事務所が〝そういった筋〟の者たちからも一目も二目も置かれている事を彼女は知っていた。正確には知ってしまった。
………嫌な事まで芋蔓式に思い出してしまった、とその時にまつわる出来事を思い出して即座に後悔する。そのままその時垣間見せた所長の表情も思い出し、顔を青褪めさせた。下腹辺りががきゅ、と冷え込んだ気がする。
(………ああ、うん。あれだ)
彼女は曖昧な表情で、心の中で呟いた。普段から堅気らしさは全くないが、あれは悪魔めいてどころか魔王じみた表情だった、と回想する。断じて笑顔や微笑みに分類してはならない嗤い方だった。
この事務所に流れ込んでくる依頼に真っ当なモノはない。
それは、嫌というほど身に沁みていた。
何せ―――その〝不真っ当さ〟が原因で、彼女は此処で働く事になったのだから。
◆◆◆◆
そもそもの原因、それはストーカーだった。
ストーカー。Stalker。特定の人物に対して粘着質且つ執拗的に付き纏う者。百害あって一利なし。最悪。最低。好意または害意を以って付き纏ってくる変質者。いくらか偏向した嫌悪感溢れる見解ではあるが、こういう意味でのストーカーである。
誰が。変質者(性別男)が。
誰を。彼女を。
そして姿の見えないストーカーに怯えた彼女は、最終的には〝とある筋〟の業者にお世話になる事となった。
もちろんそんな怪しげなところを頼るよりずっと先に、かなり初期段階の頃、かなり迷いはしたものの警察に届けに出した。適当に差し障りのない事を言われて終わりだった。もしレイプされたら覚えてろよ手前、などと叫んだ事は忘却の海に殴り捨てたい良い思い出である。
周囲に相談もした。そう日を置かないうちに人間不信に陥った。今でも彼女が友人と断言できる友人は一人だけである。
お金を払って、藁にも縋る思いで〝業者〟に頼み込んで。しかし、ストーカー被害は一向に収束する気配を見せる事もなく。
しばらくして、手には負えないからと別の業者に依頼が回され、それが片手を数えるほどになる頃には、自分の見通しが予想以上に甘かったのだと思い知らされた。
エスカレートする被害。
いつどこから見られているのか分からないという恐怖。
常に怯え、大学から遠のいて久しくなった頃。
いくつかの証拠を警察に持っていっても、それでも腰が重い国家公務員に対して既に諦めと汚物を見る心地になっていた頃。
それでもどうにかしたくて足掻けば足掻くほど、アリ地獄に嵌っていくような状況に陥っていた。
その頃には見事にすっからかん。最後の業者には騙されて〝からだで〟支払う事となってしまった。―――まあ、正確には〝最後の手前〟の業者で、支払う前に救出されたわけなのだが。
どうやら『下手な鉄砲数撃ちゃ当たる』戦法はどうにか功を制したようで、どうやら業者の一人が〝とある伝手〟で依頼を回してくれていたらしい。それを知った時、彼女は神に祈る気持ちでその人に感謝の念を捧げた。無神論者ではあったが。
そうして詐欺師―――そう、腹立たしい事に詐欺だったのだ。人を食い物にして、さっさととんずらする気だったらしい。それをその場で聞いた時、彼女はそいつの×××を踏みつけた。ちなみにその時履いていたのはピンヒールだった。
それからの事はあっという間で、正直何があったのか、詳細は知らされる事はなかった。
ただ、彼女が二度とストーカーに悩まされることはない、ということだ。
当時の彼女にとってそれは十分な救いで、だからその報告を聞いた時その場で崩れ落ちて子供さながら大泣きしたのは、仕方がないと言えよう。
◆◆◆◆
さて。これで終わればハッピーエンド。自分を救ってくれた探偵にときめきながらもさようなら、彼女は魔術や異能や異形とは無縁の生活を送り続ける事となるだろう。普通は。
しかし、当時の彼女はすっからかん。その日を暮らしていくにはかなりぎりぎりだが問題はなく、しかし報酬など到底払えるような金銭状態ではなかった。
そう、報酬である。
心身ともにぼろぼろのいたいけな女子大生なのだから手心を……という良心の持ち主ならどうにかなっていたのだろう。
詐欺師のような下種ではなかったが、しかし探偵は鬼畜なリアリストだった。
つまり、ないものは捻り出せ。捻り出せないなら労働力で賄え。
………はい、以外の選択肢は、彼女には、なかった。
余談ではあるが、彼が探偵ではないと知ったのは、目出度く彼の事務所で働く事となった初日の出来事である。まあ、探偵らしい風貌では全くなかったが。
◆◆◆◆
その後、仲介料をせびりに来た某業者とのやり取りを目撃した彼女が持っていたお盆を高々と振り上げる事となったある日。
その日は、その業者の連れてきた厄介事が、彼女に魔術を異能を異形を、現実のものであると叩き刻む、Xデーとなった。
「―――先日貴方が対処した〝サンプル〟を回収しに来ました」
業者と入れ替わり現れた黒服が挨拶ぬきで発した言葉がこれだ。
何の事だと白黒していると、探偵もとい所長は「知らん」と素気無くあしらった。対応する気ゼロ、接客業に永遠にむく事はないだろうと思わせる言い方である。
来訪者の対応も(つまり追い返す事も)業務に入っていた彼女は、そのままお帰りくださいと言おうと
「先日のストーカー行為をしていた異能者です」
する前に。ぎくり、と体が固まった。
いのうしゃ、という訳の分からない単語、の前に。付属した、『ストーカー』という単語。
―――それ、どういう意味。
固まったまま相手を凝視する彼女に、男は―――
「知らん。帰れ」
聞きなれない轟音が、男を吹き飛ばした。ように見えた。
実際には所長が男を問答無用で蹴り飛ばしただけだったのだが、目がついていけず、所長の長い脚が二重の意味で真横に突きだされているのを見て理解できた速さだった。足を見ていなければ、彼女は今でも所長は念動力の持ち主だと信じていただろう。
驚いた。訳が分からなかった。混乱した。それ以上に、恐怖した。
所長の暴虐に? 掘り返されるトラウマに? 黒服の言動に? 置いてきぼりの現状に?
………聞いた事もないほど、冷たく、冷たく冷え切った、苛立ちと怒りにまみれた、所長の声に。
その頃の彼女は所長に馬車馬の方がまだマシと断言できるほど扱き使われており、トラウマに怯えている暇も、過去に囚われている余裕もないほどの忙しさだった。それはトラウマが癒えたのだと錯覚するほどに。余談ではあるけれど、後にそれは所長の気遣いであったのだと告げられたのだが………いくらなんでも嘘臭く思えたのは仕方のない事だろう。
だから、癒えたと思えたトラウマを真正面から掴まれて、彼女の心は剥き出しになっていたのだ。
心が剥き出しになったままの状態で、真正面ではないとはいえ、今まで生きてきた中で最も凶暴で真っ直ぐで恐ろしい感情に触れて、彼女は身も心も竦んでしまった。
「帰れと言ったんだ。手前らに協力する事なんざ、何一つねえ」
後ろから声がする。音もなく下ろされた足で、一歩。また一歩。革靴が鳴らす音だけで、ここまで威圧感を持てる人を彼女は知らない。
彼女より二歩先、斜め前の位置で靴音が止む。表情は、恐ろしすぎて窺えなかった。
「言って分からんようなら実力行使させてもらうぞ」
いやもう実力行使ですよねこれ―――なんていう余裕はなかった。
所長が恐ろしかった、からではない。
それもあるが、どちらかと言わずとも黒服が理由だった。
―――肉が裂け骨がひしゃげるような歪な音とともに、彼女はそれを見た。
「ひぃっ!?」
血塗れの黒服が、さらに一歩詰め寄った所長の肩越しから見える。
いや、血だけならまだいい。よくないが、それでも―――皮膚から鱗が生え、背中から角のようなモノが突き出て、顔がネズミと鳥を混ぜたような形になって、骨格がバキバキ変形するのを目撃するよりは、数段ましだった。
その上後ろでなにかうねうねと………―――き、気持ち悪い動き気持ち悪い! 無理、生理的に無理キモイぃ!
この時点で脳はショート済みである。常識や物理法則や質量保存や生物としてあり得ない、あらゆる価値観を一斉に粉砕して余りある光景に、彼女はついていけなかった。
「ぎ、貴様が、処理した男は、回収せねばならん。隠し立てすれば、ぎ、貴様もただではすまんぞ」
「一般人巻き込んでそれか。道理であんな事態なのに俺の耳に届くのに時間がかかったわけだ。―――ああ、架谷さん下がってて」
言うべき事は山ほどある気がするのだが、いかんせんもう何も考えられない状況で、所長の言うとおり従う以外彼女に道はなかった。
数歩じりじりと後退し、
「男はどこへ」
「うるせえ鳥人もどきが」
言い終わる前に勝負は決していた。
おそらく、彼女はその時の衝撃を一生忘れる事が出来ないだろう。
化け物と称しても問題ない相手に、何の躊躇いもなく一歩踏み込んで文字通り一蹴する。まるで漫画かゲームの世界が再現されたかの様な光景だった。
気付いた時には元黒服の鳥男が磨き上げたばかりのピカピカの床に倒れ伏し、それを下らないものを見るように睥睨する所長が立っていた。
勝者は、どちらがとは言うまでもなかった。
その後、角と思われた鳥男の翼を引っ掴み、所長は事務所の奥へと消えた。そこで何が行われたかは知る由もない。
彼女はただひたすら黙々と、何も考えなくていいように応接間の片付けに没頭していた。何故か床を突き破って生えた植物を引っこ抜き、落ちた羽や赤黒い何かを拭ってはゴミ袋に投入する。その作業をひたすらに続けていた。繰り返し、単調に。何も考えないで済むように。
逃避行為、という言葉はあえて意識しないよう、目を背けながら。
ただ、魔術や異能や異形が存在する。説明を一段飛ばししてまざまざと見せつけられた彼女には、逃げの余地などどこにもなかったのだけれど。
◆◆◆◆
この話には後日談がある。
一つは、鳥男と入れ替わりになった某業者は、実は事務所へ手引きしていたらしく、とばっちりを恐れてさっさとご退場されたらしい。その事実を知った時、何も持っていなかった彼女は右ストレートで彼の謝罪に無言で返答した。
もう一つは、魔術や異能や異形が存在するという事を強烈なインパクトとともに知らしめられた彼女を、所長がそういう関係の仕事でも使い始める事となった事である。抵抗は無意味だった。まったく無意味だった。
ただ、業者曰く、遅いか早いかだけの差異だっただろう、との事で、どの道逃げ道がなかったと判明した時、彼女は絶望に膝から崩れ落ち両手を地面に着いた。リアルで。どうあっても逃げれなかったという現実に絶望して。
以上が、彼女こと架谷めぐみと、所長こと橘との出会いと関係性の物語である。
この後、橘が正真正銘の大魔王様だったり、傲慢不遜理不尽暴虐DV男であるとかどうしようもない鬼畜であるとかその筋の人さえびびる恐ろしい人物であるとか色々判明するのだが、判明するたびに彼女の人生設計に罅が入り、ますます弱みを握られていく事となるのだが、この当時の彼女には知る由もまして回避する余地もないのだった。
ただせめて、ストーカーや鳥男の末路には興味はないけれど、どうか彼女だけは犯罪沙汰には巻き込まれていませんように―――。
ささやかながらもなにかズレテいるような、そんな祈りに似たものを、彼女は願い続けて日々を送っているのだけは、今に至るまで変わる事のない日課である。