十八話:演出者の意図、そしてイレギュラー
「まさかこのような場所で、明るいうちに死人と出くわすとは思っていませんでしたよ」
それは、受け取る者にとっては、少なくとも世間一般の大多数からすれば侮辱と受け取り、腹を立てるか眉を顰めるかするであろう挨拶だった。残りのごく少数ならば嘲笑を返すか無視か。まあ何らかの対応は取るだろう。
しかしその嫌味、そもそもにして前提が狂っていると指摘してやるべきだろか。
赴夜蒼葩にとって、過去と生前、この二つ単語は最早同意となり果てているのだ。死んでいるか、生きているか、その境界は曖昧になり、廃れて等しい。ならばその契機を死と評してもなんら問題はないだろう。
少なくとも、赴夜蒼葩と言う名は、<破滅の黒>や<深淵にて見下ろす魔神>が死んだとされた瞬間から、世間では、それは死人の名となったのだから。
だからこそ、彼の言葉は私にとって毛ほども痛いものではなく。寧ろ何を当然の事を、という感想しか抱けないような嫌味だった。いや、そもそも嫌味にすらなっていない。例えるなら、『あなたは息をしている』と指を指された、と表現すればいいだろうか。返せる反応など、精々、
「じゃあ私がその貴重な体験の第一号という事かな?」
ぐらいなものである。……これではただの感想だろう。つまらん、つまらんぞ私。
ああ、しかし死人死人と行く先々で貶す意味合いで使われるであろう行く先を思えば、もう少し気の利いた返しが必要だろう。そうでなくてはこの悪名が廃るというものだ。この四年の内半分はこの世にはいなかったし、残り半分は少々忙しすぎていたので言われる機会がほぼ皆無、実際今言われたのが初めて。しかし考える時間ならいくらでもあった。何故すぐに思い至らなかったのだろうか。いかん、脳神経が耄碌し始めたのかもしれない。
自分の脳の劣化の度合いに対して些か本気で思い悩んだ瞬間、
ドロドロに溶かして煮詰めて濃縮したような殺意が、
胸を突き破り心臓を握りつぶした。
現実では、血など一滴も流れていない。余りにも厳烈な殺意が脳髄に閃かせた死の妄想にすぎない。
しかしそれは同時に、真実死に肉薄した感覚でもあった。
―――ああ。
くにゃりと、表情筋が歪むのを抑える事が出来ずに貌が歪む。
なんでもない、私にとってありふれた感覚は、しかしこの瞬間においては絶大な意味を持たせた。
「本当に、変わらないなぁ」
忘我、と言うのだろうか。今と言う現実を、事態を、悉く忘れ去ってこの甘美に浸りたいと思ってしまう。
変わらない。変わらない。
私とここまで深く関わっても、この友人は変わらなかった。
……錯覚に過ぎないその思考は、しかし何にも勝る安堵を生み出す。故に、易々と、すぐさまに感情を切り離す事が出来ない。切り捨て、打ち捨てる事に一瞬以下であれ躊躇いが生じてしまう。執着が、産まれてしまう。
打ち震えて、歓喜する。
「そう殺気立つな。こんな往来で」
「そう言うのであれば、是非とも死んでいただきたいですね。ええ今すぐにでも」
「ははっ。殺されるぐらいなら構わないが、死ぬのは勘弁願いたいな」
何せ、今度こそ正しく殺されそうだ。
恐らく、今度は些か苦笑じみたものになっただろう。或いは、寂しさ、戸惑い、ほの暗い歓び、そんなものも入り混じっていたかもしれない。
アールグレイが注がれたカップから視線を上げてみれば、リカルドは、
「………えらく複雑そうな顔だが」
本当に複雑そうな顔をしていた。いや、予想では嘲笑か苛立ちとか、そんな反応が返ってくると思ったんだが。好意的な態度は歓迎するので、侮蔑した様な目で見られなくてとてもうれしいが。マゾヒストの気はないので。でも、なんでそんな顔。
心中も大分複雑そうで、なんか色々な感情で(苛立ち、怒り、悲しみ、それに対する…………戸惑い?)すごい複雑な心境のようだ。大事なことなので繰り返してみたが、本当に複雑な。
「…………。いえ、あなたからそのような言葉が出るとは思っていなかったので」
いや、昔からこういうキャラだったと思うが。
「……まあいいでしょう」
さっきの表情に苦々しさをたっぷりとブレンドした顔で言われた。気になるぞ、まあいいけど。
「それよりも、あなたは私と接触しないものと思っていました」
「だが、お前が舞台に上がるよりもこうして私と茶を飲みあっていたほうが被害はないだろう? だったらこちらを選ぶさ」
「そうですね。ですが、私の目的はそれで達成されます。あなたが、」
そこで、リカルドは真っ直ぐに私の目を見て、
「お前と接触しないよう色々と前振りを入れておいたのに―――とでも言いたいのか?」
私がその続きを掻っ攫った。
「…………」
「という報告は虚偽だったのか―――という訳でもない。実際、それらしい伏線は何通りも用意しておいたさ」
にっこりと笑って見せる。リカルドは、相も変わらない濁った眼で空を見詰め、しばしの間沈黙した。
「……どうやら、彼の事はばれていたようですね」
「レオにはばれていないがね。そもそもお前の間諜じゃあないんだろう」
「どうしてそう思うんですか?」
「勘、とニオイ」
濁った眼で、じっと見られた。子供だったら泣くぞ、エセ牧師。
「動物ですか」
「私の本能なんぞ腐っているからアテにはならんよ。単純に経験と洞察」
場数だけならば、私はこの世界でも屈指と言えるだろう。伊達に修羅場続きの人生で長生きしている訳ではない。
「それにしても、衆目があるとはいえ攻撃してこないんだな」
「……あなたが言いますか、それを」
「いやいや、あちらも随分と放置していたものだから、気が長くなったのかと思ったというのに先ほどの。意外に思っただけだよ」
「…………」
一瞬。ほんの一瞬、恐らく瞬きでもしていれば見逃していた筈の、僅かな間、リカルドは表情を消した。
「あの半年前、やはりあなたが絡んでいましたか」
「『フラグメントが関与している事件を潰したのならば、赴夜蒼葩が絡んでいない筈がない』―――随分と短絡的だし、私直々に絡んでいると思われるなどあり得ないと思っていたのに、まさかここまで広がるとはね。本当に予想外だったな」
どうしてそう単純な輩が多いんだろうなあ。確かに私が直接手を下さなければ、何一つ問題などなかっただろう。今頃こんな騒ぎになどなっている筈がないと断言できる。確かに軽率とも言えたのだが。
……そもそも不在証明なら数年前に実証された。その上で今更掘り返されるとは思っていなかった、というのが真相なのだが。
「あの件で、あなたらしき痕跡がありました」
「だがネイやはじめが絡んでいた。私の痕跡というならそれで充分に説明が付いてしまった」
私の痕跡そのものと言えるネイと、弟子であるはじめ。二人が絡んだ時点で、私と思われる痕跡が残るのは当然だ。私がした様な、私がいる様な。私のやり方を熟知し、かつ私の意向に沿って動いていた二人がやったのなら、どうしようと私に類似してしまう何某かが発生するだろう。
ネイとはじめの存在は周知されたものなのだから、大丈夫だろうと高を括っていた。だというのに私と疑わないとは。ある意味尊敬する。呆れ果てるわ。
……ああ、或いは。それでも、
「それでも。もしかしたら。―――人は、そんな可能性を無視しきれないのですよ」
それほどに、弱いのですから。
一瞬私の思考を攫った静かな声は、仄暗い湖を思わせた。深く、深く、底なしのような―――まるで惹きこまれるかのように暗い音。
その声を聞きながら、思う。
―――果たして、それは本当に弱さだけだろうかね?
◆◆◆◆
「あなたは―――」
そこに立っていたのは、左目の眼帯が印象的な見た事のない男だった。
ハミルの味方だろうか。それとも。
男が口を開くのを、架谷は聞き逃すまいと注視した。
「ちっ!」
男が、当てが外れたと言わんばかりに激しく舌打ちした(……)。ええ、それは清々しいくらいに思い切り遠慮なく。
「赴夜黒葩の手掛かりがあるかと思えば監禁現場か? 笑えねえなオイ。俺は仕事に来た訳じゃないんだぞ」
え、何?
というか赴夜黒葩って―――赴夜?
その疑問が口を突く前に、
「……お前、叶え屋協会支部副所長の矢岸か」
「あ、お知り合いですか」
「ふん。見ない顔だな。モグリか」
スルーされた。
「だとしらどうする。いや、だとしてもどうする?」
「あの」
「……今俺は機嫌が悪いんだ。憂さ晴らしさせてもらうぞ」
「…………」
どうしよう話通じない、聞いてくれない。話を聞くどころか会話に入り込むことさえできない―――というか意思や意見を悉く無視されるこの感覚は、なんというか。空気か、これが空気と呼ばれる状態なのか。
状況に一切付いていけずに架谷は激しい疎外感を覚えた。急展開と言うか、あの本当にどんな関係なんでしょうか。初対面? 聞きたくはあるが答えてなどもらえないだろう。恐らく、ハミルはともかく矢岸という男にとって、架谷はきっと少しうるさい動く置物程度でしかない、筈。傷付けられるという可能性は薄い、と信じたい。
この半年で鍛え上げられた危機感知警報が「キケンキケン即退避即退避!!」と唸りを上げる。その本能に従って、なるべく睨みあう二人を刺激しないよう距離を取る。じりじりと距離は開き、壁から半ば露出した鉄柱に後ろに回った。といっても、半身を隠す程度で精一杯なのだが。
開いた距離も精々が4m程。ちなみにこれより先は1mといかずに壁である。架谷に逃げ場などなかった。
そんな架谷の行動には一切頓着せず、状況は進行していく。いっそ巻き込まないで欲しいと懇願してしまうのは罪なのだろうか。
そう思う間にも、架谷の事など全く気にもかけることなく時間は淡々と刻々と進んでいく。
何時までも続くかと思われた睨みあいは、呆気のないほどに終わった。
飛び交うのは只人の認識外での攻防。武人なら即座に打ち合いに突入したであろう不可視の交差は両者が距離を取り合った事で休止する。
ひりひりと圧する敵意が互いを襲う。架谷に分かる領域を超えた牽制と虚実が入り混じる、傷を伴わない斬り合いが拉ぎ合う。
あまりにも埒外。近づく事すら出来ない殺し合いに架谷は身動ぎさえ封じられていた。体が凍り、意識と剥離する。
圧倒された。その一言に尽きるだろう。
人の認識の外の外、何かが起こっているのだとかろおじで分かれば上等、それほどまでに高次のやり取りだ。恐らく、架谷がこの半年で蓄積した経験がなければそれさえ感じ取る事は出来なかっただろう。
敵意と悪意と害意の鬩ぎ合い。
撓めば一瞬で再度〝打ち合い〟が繰り返される事必須の、探り合いであり化かし合いの殺し合い。
その均衡が緩めば。ただただ見ているだけのであるというのに、まるで心臓に触れられている様な不快感と高揚に口の中がカラカラになる。喘ぎそうになるが、何が切っ掛けとなるか分からない状況では、呼吸さえもままならない。そして、架谷は自分が息を止めている事に気が付いた。
―――ドガアアアシャアアアアアア!
「!?」
派手な音を立てて壁が崩壊する。
全員の目が一点に集中する。誰も何もやっていない。どう見ても自然に、とは考えづらい盛大な破壊に、第三勢力、の文字が思い浮かぶ。
土煙に陰が滲み、謎の第三者の登場に一気に緊張が高まった。
「と、よし間に合ったか」
……この時の架谷の心情をいかに言い表せばいいのだろうか。
「え、あ、庵夜さん!?」
目を見開く。粉砕された壁の向こう、もうもうと立ち込める土煙から現れたのは何処をどう見ても眼帯をした黒い変人こと庵夜だった。
「よお嬢ちゃん、元気だったみてえだな」
この場にあまりにもそぐわない気楽な挨拶に一気に脱力しそうになる。いやしないけど。
そんなお気楽男へ、ハミルが口を開いた。架谷の視点からは見えないが、その視線には忌々しさと殺気が籠っている。
「…『陰の王』か」
「はっ、アンタが悪魔使いだな」
ぴりぴりと空気が緊張する。どうやらこちらも知り合いだったらしい。互いの呼び名については、碌でもない予感しかしないと警笛を鳴らす本能に従い言及することを架谷は放棄した。
ハミルが相対するのは矢岸と庵夜。だが、単純な二対一という形式には収まらない。何故なら、庵夜と矢岸は初対面、敵対する意図が掴めない状況で手を組む事が出来ないからだ。
つまりこれは共同戦線ではなく単一同士の混戦。
庵夜は架谷を保護しに来たのだろうが、人攫い主犯のハミルは完全な敵。ハミルに喧嘩を吹っ掛けた(いやそんな生易しいものじゃないが)矢岸は敵ではないのだろう。
だが、一つ、重要な問題があった。
矢岸はハミルの言っていた通り叶え屋協会の人間、しかも副所長というお偉い様。一方架谷の身分は、叶え屋協会はおろかSDPにも登録していない、フリーと言えば聞こえはいいが実質勝手に商売をしている無法者に近い立ち位置の人間だった。
言わば天敵。今はまだいいがどのタイミングで身元が割れるか―――
「『陰の王』? ……へえ」
あ、なんかヤバいかも。
矢岸の目付きが変わった。どう見ても友好的とは思えない、むしろ猟犬とかに近いその視線の意味を正しく理解する。バトルロワイアルが確定した。
一気に背筋が凍る。拙い不味いマズイと脳内警鐘が叩き割れんばかりに鳴り響く。不可視の壁の効果は無機物を通すだけで、それが一方通行なのか生体を拒むだけなのか違うのか全く分からない状況なのだ。動きようがないにも程がある。
いや、よくよく考えるとさっきの不味かったよね。一歩間違ってなくてもかなり不味かったよね。あれもしかして命拾いした? やったー。架谷の思考は一層の混迷を極めた。現実逃避とかいうレベルじゃないぐらい混迷した。パニックを起こさなかったのが救いだった。
手持ちを確認してみるが、いやいや迂闊な行為をしたらこれ即死だよねと改める。死、というワードが冷却水となって少しだけ落ち着かせた。
死。そう死だ。
死なない方法、そんなものあるのだろうか。
架谷は戦いの心得などまるでない。だがこの半年で積んだ経験が、生物としての本能が告げている。―――自分は喰われる側なのだと。
ただ嵐が過ぎるのを待つしかない、無力な存在。腹立たしい以前にどうしようもない気持ちになる。
いや、ただ一つだけ、思うものがある。
―――橘さん。
所長、と頑なに呼んでいた人の背中は、こういったいざこざでは常に架谷の安全領域だった。けれど彼はここにはいない。庵夜がいるのなら、と思うが、それでも
―――橘さんは、
ただ思う、ただただ思う。
心の一部が声を上げる事を許さない、その先を許さないと締め上げる。
冷静で、冷淡で、淡泊。それは言い換えれば心が刺激を突き離しているという事。客観的な視点に立ち続ける心であるという事。
架谷が慌てていた事は今までたくさんあった。この半年でも、ストーカー騒ぎ、事件に巻き込まれた時、殺人鬼と出くわした時、魔術師との遭遇、その他にもたくさん。それらにはすべて共通点がある。生命の危機、未知の危機。架谷めぐみの根幹を揺るがす出来事。詰まる所、彼女は外側には強く在れても、自分の願望や生命本能といった内側からの揺さぶりには他者同様に弱く在った。
だから、彼女にとってこのズレは許容外。求める、拒絶する、欲する、怯える、助けて欲しい、どうすればいいのか分からない。反発しあってまとまりがない。
それでも。
歪な形で、架谷は初めて、強く強く願った。
お願い、なんでもいいからどうにかして!
―――その時、歪な形で願いは聞き届けられ、奇蹟は起きた。
奇妙な予兆、と言えばいいのだろうか。真っ先に、そして同時に察して、前触れもなくハミルと矢岸の動きが止まる。
「?」
ド―――ガァァアアアシャアアアアアアアア!!!
轟音、轟音、轟音の嵐。
誰もが声なき声を上げる。誰もが悲鳴さえ呑み込む危機が降ってくる。
岩と石と土くれと金属と鉄柱とコンクリートと配線とそれら一切の残骸が、文字通り降ってくる。
落盤事故。死さえ容易く呼び込むそれは、ハミルと矢岸の真上で発生した。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああ!!??」
その危機と共に、それらが鳴り立てる轟音に掻き消されない盛大な悲鳴を上げながら、
「なっ!?」
「ちっ」
「おいおい……」
「お、女の子ぉ!?」
―――駒としては不確定要素のみで構成された奇石は、投じた人物の予想外と呼ぶ事さえ生温いほど予想を斜め上に突き破って、文字通り舞台に向かって突っ込んできた。
ハンナ・ブース。この世界で最もイレギュラーと成り得る、ジョーカーすら霞む盤狂わしの一族、その傍流を汲む少女は女性に抱えられながら、大災害と共に落ちて来る。
それは、この舞台を作り上げた者も操った者さえも上回る奇石の一投。
かくして、水面にたった一つの石が投じられた事で、状況は一変する。