十七話:開幕(或いは閉幕への行進)
橘事務所の応接間を盗み見ながら、庵夜は心中溜息を吐いた。
一週間の目途で報告を、という期日付きの案件が持ち込まれた翌日の昼下がりの頃である。丁度昼飯を終えたところで、庵夜はうとうととソファー(メチャクチャ寝心地いい。フカフカで昼寝には最高だ)で寛いでいたのだが、即時撤退を余儀なくされた。
時は少しだけ遡る。
庵夜の最近のマイブームはお気に入りとなったソファーで寛ぎながらの午睡である。
晩夏の終わりを告げる涼やかな秋風など存在していないかのような、まどろみを誘う陽射しがそこには差し込んでいた。その陽射しに身を任せれば、夜半から突如やってきた遅い初秋の訪れを忘れてうとうとと寝入りそうになる穏やかさに包まれるのだ。もう抱かれてるって言ったほうが正しいかもしれない。兎に角もうしがみついていたくなるぐらい気持ち良かった。というか、まどろみを通り越して寝ているのが常だが。
………正し、そのまどろみを凍りつかせる空気の中でも平素で居られるならば、という前提がつい先ほど付加されたのだが。泣きたい事に。
庵夜には無理だった。
まどろむどころか凍死しそうだった。
という訳での即時撤退である。
「それで、如何なされました? 確か昨日、期限は一週間で良いと仰っていらっしゃった筈ですが」
「いえ、その件とは別の事なのですがね」
にこにこにこにこ。昨日と違わぬ笑顔を浮かべたまま男が返した。昨日との差異は、橘がどんな緩い基準でも営業不向きと判定する無表情である事だろう。………つまりはもう、装う必要がないという事か。茶を汲みながら庵夜は判断した。
ブリザード地帯が突貫工事で建設された瞬間にこの安全地帯に逃げ込んだ訳であるが。うん。見ているだけでもよくやるものだと呆れてしまう。人間とはいえ、坊はあいつらの子供だろうに。
ああ、でも。
―――あの娘が、………だったら、〝らしい〟、よね。
その空白を埋めるよりも先に、
「〝我々〟にご協力して頂きたいんですよ、橘さん。≪破滅の黒≫を呼び寄せるために」
先ほどよりも緩やかで自然な微笑みのまま、男が、空気を殺す言葉を放った。
―――誰を? 何を? 誰が? ………ああ、こいつ、
「この娘と引き換え、に」
言い終わる刹那、黒い暴力が薙いだ。男が当たり前のように吹き飛ぶ。力加減がされていたのだろう、潰れていない血塗れの顔で、明確な意思を以って男は坊を見上げる。
その目には、恐怖や畏怖ではなく、狂気(それも、とびきり性質の悪い類の)が揺蕩っているのを、庵夜は真正面から、見た。
「は、はは! その娘の無事を望むなら、あの破滅者を! 呼び出す事ですね! そうすれば! 悲願が! あの方の望みが! は、ははははは!!」
壊れた様に言葉を紡ぐ男は、事実もうとっくに歯車が狂っているのだろう。或いは、あの男に繰るわされたのか。狂信、と言うのであろう濃密なそれを溢れかえして男は言うべき事を言い、それきり只管愉快そうに笑っていた。
ヒトが悪魔と謳うモノとしては、この類の感情は喉を震わせ嬉々として観賞するべき事柄なのだろう。………が、いかんせん、いけすかな過ぎた。これは、庵夜の趣向には合うモノではない。
橘が男に「吐け」と凄んでいるが(未だかつて見た事のない、他の奴なら絶対魘されるであろう凶相だった)、恐らく無駄だろう。少なくとも、あいつの子飼いなら、どんな拷問であれ苦痛は無意味だ。
魔術で吐かせるにも、恐らく事前の防護柵が二重三重に張り巡らされているだろう。どう見積もろうと容易とは思えない。出来たとしても、どれだけ時間を要するか。………ならば。
テーブルの上に置かれた写真を見る。男が橘に見せ、彼をブチ切れさせた元凶だった。そこには、眠りについた女性が映っていた。
庵夜がこの二週間余り幾度も目にした女性だった。
架谷めぐみと名乗った女性だった。
―――ああ、……だ、
「て、え、坊何してんの?」
思わず、魔導書を手にして術式複数展開している橘に声をかけた。
え、何八つ当たり? いやこの場合八つ当たりじゃないのか? ん?
………なんて暢気に考えている場合ではない。なんだか剣呑を通り越して真っ黒い感じの声が男に宣告するのを、やや呆気に取られていた庵夜は止める事が出来なかった。その後ろ姿がどこかの誰かと重なって魅入っていたとも言う。
「おい、選べ。この場で拷問されるか、全裸で表を走り回るか、駅前で粗末なもんおっ立てたまま性癖大声で叫ぶか、大衆の前で亀甲縛りされた挙句糞尿垂れ流すか」
………庵夜は術式をよくよく視た。魔術の知識はないが(それらに感応して食む側であって、使役し解読する側ではなかったので、そういうのは不要だったから覚えなかった。主にはしょっちゅう『知って損はない!』と説教されたが)、それでも『あーあれやばそうだなー』という雰囲気は大体理解出来た。ぱっと見、精神や生体に関与する術式だろうと当たりを付ける。
そして、思い出す。彼の片親を。
―――そう言う所、本当に似なくて良いのになァ………。
精神及び社会的にダメージを徹底的に与えるその姿が重なり、血と言うモノを考えずにはいられなかった。なんだこのデジャヴ。
流石に(最初を除いて)この手は予想していなかったのか、やや男の顔が青褪めているのを、庵夜は「成仏しろよ」と眺めた。
ただ眺めていた。
眺めるだけだった。
まあ耐えきる可能性は十二分にあるだろうが、これで済むという保証などない、寧ろエスカレートしていくだろうから甘い考えは持たない方がいい。―――その忠告を与える気は、まるでなかった。
◆◆◆◆
「………う、あ?」
寒気を感じて、架谷は目を覚ました。身を包んでいる布団はふかふかのぬくぬくで抜け出したくないぐらいに居心地が良い。のに―――と思ったところで気が付いた。
―――なに、この臭い。
錆付いた、臭気とも言うべき不自然な臭いが空気に染みついて鼻を衝く。まるで古びた鉄錆の様な臭いに、酷い違和を覚えた。
どこ、ここ。
周囲を見渡せば、そこはどこかの廃工場の様な様相だった。赤茶けた重苦しい色の鉄筋が空間を仕切り、広い筈の空間に圧迫感を付与し、狭苦しい印象にすげ変えてくる。
「なんなの、ここ」
空が見えない、光が届かない。室内だから、で片付けられない。天井は高く、壁と壁との距離は充分過ぎるほどにある。この区切られた空間は一戸建てが入りそうなほど、広い。しかし、先も述べたように狭苦しい印象である。何故か。
―――まるで、地下みたいだ。
空が見えない、光が届かない。正にその通りだ。まるで地下通路―――いや、坑道の様な場所だった。なんだか、鉄製の天井が剥き出しの岩盤の様に見えてくる。
「何で私、ここに………」
そうだ、どうして。なんで。
ようやく脳が危機感を呑み込み始める。
「目が覚めた様だな」
「、ハミル、さん?」
ああ、ともうん、ともつかぬ曖昧な相槌を返した男は、友人の上司である男だった。
茫洋とした目で「タイミングが良いのか悪いのか」と小さく呟いた後、
「ちょっ!?」
いきなり踵を返された。
訳のわからない状況で知り合いに見捨てられる―――彼と架谷の間には情もへったくれも存在しないが、しかしそれでも焦るものは焦る。
何せ状況が掴めない。そして唯一意思疎通できる相手が知り合い。ならば是非にでも説明してもらいたい。なのに、あっさりと背を向けるとは。
「ま、待ってください、ああもう待てこの非にんげ―――っ!?」
ゴッ!! 額から突っ込んだ。
「―――――………っ、………っ、、、!」
声にならない声を漏らし、額を両手で押さえる。
痛い、痛すぎる。何、今何にぶつかった………っ?!
悶える架谷を、ハミルは冷静に、無感動に見下ろして―――つまりは結果的に架谷の望み通りに足を止めて振りかえっていた。
だがなぜだろう。架谷はその事実を認識した時、寧ろ怒りを覚えた。
「…………」
「………、なんですか、なにか言ったらどうですか」
「…………」
「ちょ、無視ですかというか行かないでって言ってるでしょうが!?」
架谷は怒りを覚えていた。
だから些か口調が荒れた。
そしてその勢いのまま手近にあった石(※赤ん坊の拳大)を―――〝投げた〟。
ゴッ!
「…………」
「…………」
無言。
「…………」
「…………」
沈黙。
「…………」
「…………」
静寂。
「…………」
「…………」
たっぷりと間を開けた後。
ゆっくりと。殊更ゆぅっくりと。
ハミルが、振り返った。
「…………」
「…………。………テヘっ」
世の中、ノリと勢いで後悔する人間は腐って山になるほどいる。
いくら怒っていても、社会に適合するには踏み止まるべきは踏み止まるべきである。しかし、怒りとは実に厄介なモノ。怒りと言う感情がより膨大に、より濃密になればなるほどアクセルは踏み込まれブレーキの存在は忘れられる。
そこを制御するのが理性と言うモノなのだが………、架谷は未だ学生。若干21歳。成人して一年ほどのぺーぺーで殻がお尻にひっついている若人である。
いくら実地(初っ端からおどろおどろしい裏社会で)を積んだとはいえそれも半年ほど。ハミルをして(間接的な観察眼からの批評なので完全に彼の意見、とは言えないが)、『冷静で冷徹で淡泊』と言わしめた性質であれ、それでも生存本能が腐っているわけではない。迷いなく保身に走る事を鑑みるに、むしろ彼女の生存本能は他人より強いだろう。
その生存本能が現状の危機によって、とっさの判断で〝現状の把握〟を最優先させた結果、先ほどの暴挙に繋がったのだ。
付け加えるならば、彼女の性質が消えたわけではない。むしろ彼女の性質と生存本能は密接にあると考えるべきだろう。
殺すならとうに死んでいて可笑しくない筈である。痛めつけられる、という可能性は無きにしもあらずだが。
更に言えば、これはどちらかと言えば実験的意味合いでもあった訳なのだが―――。
「痛いんだが」
「………スミマセンデシタ」
現実逃避、終了。
「痛いんだが」
「スミマセンホントウニゴメンナサイ」
「痛いんだが」
怖い! この人メチャクチャ怖ッ!
同じ言葉を繰り返し、一歩ずつ、一歩ずつこちらに歩み寄ってくる。じりじりと悪霊に追いつめられるようで恐ろしい。いや、悪霊よりずっと存在感も威圧感もあり過ぎるが。
一歩ずつ、一歩ずつこちらへと向けられていた足が、
「…………」
止まった。
「あ、あの………、本当にすみませんでした………」
「本当に、タイミングが良いのか悪いのか分からんな」
え? その言葉の真意を測ろうとした、その瞬間。
「え?」
人影を見た。
ハミルのずっと後ろ、錆付いて閉じれなくなったのか、開きっぱなしになっていた扉。そのずっと奥の暗闇から。一歩ずつ、ゆっくりと、しっかりと。こちらに向かってやってくる。
光量の少ないせいで、まるで影が歩いているような錯覚を覚えた。そのシルエットからして、恐らくは成人した男性。
およそ、10メートル手前で、影の足が止まる。
その、一瞬前。
ざっ。
そんな音が聞こえないのが不思議なくらい、影がその人から退いた。まるで影が怯えているかのように、ほんとうに一瞬で。
「あなたは………」
その容貌が、晒されて、架谷は、
◆◆◆
時は、架谷が目覚めるよりも前に遡る。
喫茶店、あす羽奈。
夜には人気のないこの喫茶店は、昼は真逆の顔を見せる。
ざわざわとした賑わいの波、人々の笑顔、安らいだ空気、生気に満ちた空間。
二日前、この喫茶店にやってきた客が知っている光景とは随分と違うものである。
そう思いながら、私は目的のテーブルへと真っ直ぐに向かった。いや、目的があるのはテーブルではなく、そのテーブルでランチメニューを頼んだ男なのだが。
後ろ姿を見た瞬間に、ああ彼か、と思えるほど記憶に深く刻まれていたらしい。或いは心か。どちらにしろ、彼は自分にとって忘れ得ぬ存在なのだろう。
「久しいな、リカルド」
舌に馴染んだ名で呼んでやれば、男は驚いたように振り返った。何だそんなに意外か、それともそれほど嬉しいか。
「あなたは―――」
瞳孔が、きゅっと開き、そして拡散する。動揺は一瞬で終わったらしい。相も変わらずの自制心である。まあ、表に出ていないだけでまだ混乱の坩堝に片足突っ込んでるだろうが。
「懐かしい顔を見たら声を掛けたくなってな。合い席をお願いしてもよろしいかな?」
なぁ、と殊更に馴れ馴れしい声で、
「リッカルド・ブッソッティ」
正しい発音で、彼の名をよんでやる。
同時に、蛇の様な眼光に危うい光が灯った。或いは、おどろおどろしい闇で濁る。
「ええ、どうぞ。我が恋敵、赴夜蒼葩」
長年の友人は、とっておきの笑顔で答えた。
相変わらず、恋に盲目なようである。