十六話:開幕前夜前夜前夜
物語には必ず始りと終わりが存在する。
しかし、現実にそんなモノはない。
もしそんなものが在るとすれば、それは読み手が生まれた瞬間と死んだ瞬間の、二回だけだろう。
―――ならば、自分の始まりは、終わりは一体どこで区切るべきなのか。
あれは確か、一週間前の昼前の頃だったろうか。彼の助手の娘が大学から戻ってくる前だったので、確かそうであった筈だ。
ハミル探偵事務所に依頼が持ち込まれたのは、所長のまともに顔合わせをした事のないという知人から電話を受けた直後であった。
その男は牧師の格好をした、この人種閉鎖的な国では目立つ異人だった。まあ、人の事を言えた義理ではないのだが。
名前からしてイタリア人であろうその男は、どう見ても女性を愛する軟派師とは程遠い。浮かべる笑みは酷薄で慈愛とはほど遠い色合いを呈しており、慇懃で大仰な口先から零れるのは優越感よりも更に性質の悪いもので染まっていた。蛇の様な眼光に滲むのは、どう言い繕おうと歓迎できる類ではない。
ある意味で同種であるハミルから見ても余り関わり合いになりたくない手合いと言わしめる男は、ある人物を引き摺り出したいのだと言った。
しかし、その人物を引き摺り出すのはとても難しい。だから、その人物が大切にしている者を利用したいのだと、男はそう前置きして依頼内容を告げた。
裏の世界にどっぷりと浸かっているであろうに、わざわざこのような場所に依頼をしてくるのだから碌なものではないだろう。そう思っていたが、やはり碌でもない依頼ではあった。しかし、受けない理由はない。気が進まないが、受けないわけにはいかなかった。
男が設けた期限は一週間。それまでに対象の周辺を洗う事。
そして今日は報告日の一週間後である。
「これが報告書だ」
「ほう。一週間でこれほどとは、見事な手際ですねぇ」
アンタの使えねえ部下よりはな、とハミルの揶揄に、返ってくるのは悪意を受け流す事に長けた喰えぬ笑みだった。端から期待はしていないのだろうが、それでもつまらんと思っているのだろう、確実に。
「使えそうな情報は纏めておいた」
普段ならば、ハミルは依頼人には最低限の礼儀は気を遣う。しかしこの依頼人だけは別だった。いや、そもそも依頼人として成り立つ関係か、問えるだけの隙間はある。その間を埋めているのは嫌悪か懐疑かはたまた別のものか、大して興味もないので不明ではあるが。
素っ気なさを通り越して無愛想な態度を、しかし男は気にした様子もない。恐らくこちらが如何なる態度を取ろうとも、男に対して危害を、或いは彼が守護し崇拝するものを害さない限り態度が変容する事はないだろう。それが良いか悪いかはともかく。
とまあ考察しては見たものの、真実が否かは全くの不明である。検証する気もないので未来永劫真偽は不明かもしれない。
さて。本来ならこれは氏が引き受けた依頼である。調査は確かに我々が行ったが、しかし報告だけならば態々ここにいる必要はないだろう、然るに今すぐ退席しても何の問題も無い筈で、
「おい、どこ行く気だ」
「い、いや別にわしいなくてもいいんじゃないかのうむしろ邪魔? だったら居なくなろうと何の問題もファングルッ!」
………いえいえそんな事まるで思っていませんいませんですからそんな目で見ないで下さいよハハハ、などとリーガンは考えていた。正直逃げ出したい気満々である。
時折悪魔より尚悪魔らしい人間はいるものだが、悪魔より数倍恐ろしく凶悪で逆らえば人生ならぬ悪魔生が終わりそうな人間はそういないだろう。だと言うのに、何故自分の周囲の人間はその類が多いのか。本気で泣きに入りそうになる。
「さっさと報告しろ」
「はっ!」
軍兵よろしく敬礼し、リーガンは直立不動で報告を始めた。本人としては横目で見たきっとたぶんおそらくそのつもりなのだろうがレーザービームの眼光(命名:峪梨)は疚しいところは無くとも恐ろしくあった。レーザービームとは言い得て妙、向けられただけで突き抜け焼きつくす暴虐辺りが良く似合う、などと常々リーガンは思っていた。自分が大事であり且つ聡明であるので一ナノメートルも表に出す気はないが(それでもばれていないと断言できない、恐ろしい事に)。
リーガンの心境としては粛々と且つギスギスとそしてつつがなく報告が進行していく中、隣で瀕死になっている彼の友人(仮)を顧みる人物はいなかった。誰一人。
「………成程。それでは、この娘を餌に彼を誘き寄せたいのですが」
「逢引の手筈なら、報酬は弾ませてもらうぞ」
ハミルの皮肉った言い回しに、しかし男は動じることなく愉快そうに笑みを深めて見せた。
「ええ、言い値で構いません」
〝条件外〟ですしね。男はそう言ってにっこりと微笑った。
終始存在を無視(というか気にも留められる事はなかった)され続けた桐原(現在進行形で床のシミになっている)とともに客人を送り出す。普段なら酷いとか何とか喚き出す床のシミは、そんな事をすれば確実に本物の床のシミと化す事を本能で理解していたのか、最後まで静かなままだった。珍しく賢明な事である。
「お前ら、今日はもう帰れ」
「は? しかし、いえ何でもありませんそう言えば今日は家の用事がさあ帰ろうかキリハラクン!」
「は? いや今日こそは可純嬢の胸を揉むまでは返らんぞ?」
―――空気読めや糞爺いいい!!
叫ぶ。心の中で。貴様ほんとに黙れお願いします。
先の言を撤回する。賢明などこの男には到底に合わないのだと、心底リーガンは思った。というか学習能力がないのか。一体今まで何度どういう目に合ってきたのか覚えてないのか痴呆か健忘症か。
怒濤に流れゆく罵声の反面、リーガンの背にはだらだらと嫌な汗で気持ち悪いほど湿っていた。
まずい。このままでは巻き込まれる―――世に言う死亡フラグを建てるわけには、と思う反面、上滑りするばかりで現状打破の一手は思い浮かばない。
「―――いいから帰れ」
怒りもせず、不機嫌さを滲ませず、ただ静かに退去を命じる声に、今度こそリーガンは凍りつく。
そして悟る。
この命が、掛け値なしに最終通達であるという事を。
「さっさと行くぞボンクラ! それでは失礼させて頂きますハミル氏!」
「こきゅっ!」
疾風怒濤の勢いで、同僚の襟首を鷲掴んでノーモーションでスタートを切った。握った際奇妙な〝音〟がしたが、それさえも関係なく疾風の如く退室していく二柱の悪魔たちに、ハミルは既に興味を無くしていた。
世に言う悪魔、という存在であれども、自分の生死与奪を握る相手に怯えるのは―――否、悪魔であるがゆえに余計、当然の理なのである。
◇◇◇◇
「はぁ……はぁ……はぁ……、貴様は馬鹿か、氏を怒らせる気か」
「げええぐおおおえええぇぇきゅおおおおぅぅうう………」
「言語で会話しろ、言語で」
リーガルは地面にへばり付く同僚を冷めた目で見やり、口にしようとする先を促してやる。
「て、てめ………く、首の骨折れるかと思うたぞ………」
確かに、あと数メートル引きずられるか、はたまたあと数キロ握力が加わっていれば、桐原の頸椎は確実に砕けていただろう。そうならなかったのは、リーガンの観察眼と力加減と心遣いの賜物だった。人はそれを確信犯という。
普通なら絶交ものだろうが、幸いにして桐原という名を人界で名乗る男はどんな事も一秒で無かった事になる鳥頭だった。どれだけ怒っていても一度堪えればすぐさま忘れ、恨みが後に引く事もなく復讐などという単語とも縁遠い結果論的に刹那的な男である。
「なんじゃ、ハミル、えろう機嫌悪かったのう。あの男、何者じゃ?」
「さて、私は知らんな」
事実、リーガンは俎上に乗った男について何も聞かされていない。ただ、只者ではない事、魔術に精通しているであろうこと。そして、
「≪魔都≫の関係者とは、皆ああなのでしょうかね」
人に≪魔都≫と呼ばれる歪みの深部の〝移り香〟を漂わせていた事ぐらいしか、判別できる事はない。
「まあ、我々に被害が及ばないのならどうでもよい事だろう」
「そうじゃのう、ついでにあの陰険面がくたばれば万々歳じゃわい!」
しかし、それはどうでもいい事だった。自分が良ければそれでよし。それが彼らの根本であり根源。文字通りひとでなしの彼らに、人間の道徳を説く事は全くの無意味である。
ビルに張られた結界と連動する魔書から通じる異界―――彼らの出魔界にて、しばしの休息を充実したものにせんと、それぞれがそれぞれの穴倉へと帰って行く。その後ろ姿はすでに、人ならざるものであった。
「あ」
「ん、どうした爺。まさかなにか―――」
「えろうってなんかエロいに聞こえんか?」
どうじゃどうじゃと喚いている桐原へ白けた視線と嘆息を向けた後。リーガンのかろうじで人のそれであった爪先が同僚の顔面に貫通痕を残さんとめり込んだ。
■■■■
峪梨可純がハミルの下につく事になったのは、彼女の預かり知らぬ出来事の結末として用意された事だった。
元々、それまで世間一般のそれと同じ平穏で退屈な日々を送っていた峪梨は、確かに変化を求めていた。
ここではない、どこか。
ここにはない、なにか。
―――しかし。
果たしてその欲求は、世間一般のそれと同じものだったのだろうか。最近、ふとした瞬間に峪梨の胸を過る疑問に、未だ答えを出せていない。
悪魔。
この単語を聞けば、大抵の人はこんな単語が思い浮かぶのではないだろうか。
魔界、神、天使、敵対者、悪魔憑き、害、悪者、蝙蝠の羽、尻尾、ファンタジー。
まあ、大抵の人が思い浮かべるイメージは碌なものではない事は確かだろう。
そして一部の者―――専門家や関係者など専門用語として知る者なら、こう思い浮かべる筈だ。
『世界の法則を捻じ曲げる存在の総称』。
この分類には、異界からの来訪者が挙げられる。つまり(一部の無害と判断されたモノを除き)、異界人は総じて『悪魔』であるということだ。
この括りは何も乱暴であるわけではない。
そもそも異界―――この世界という枠の外側から『物質』が送られてくると言う事は、世界に内包される質量が増加すると言う事である。それが僅かなら、或いは既存の物ならばまだ良いだろう。しかし、それが大量に、そしてその世界の法理に存在していない物であった場合は深刻である。
世界とは寛容な器であり、その実酷く繊細でもある。対外においては枠が歪む事などまずないが、反面対内においては酷く脆い。
例えば、スクリーン越しに話しかけても意味がないように。例えば、直接触れなければ物を動かせないように。
しかし、悪魔を送還しようとも、己の意思で世界に潜り込んだ者ならば再びこの世界へと来るのは容易に想像がつく。
例え殺しても、物質はこの世界に留まり続けるし、死骸を送還しても溢れた血や臓物など〝別物〟として定義された全てを送還するのは酷く手間がかかってしまう。まして、悪魔を殺すために必要とされる労力は如何ほどか。それによって擦り切れる人材は、穿たれる厄災は。
―――ならば。
その思想が出現したのは、ある意味で必然であったのかもしれない。
逆の発想はどうなのだろうか、と。
この世界に組み込まれていない存在を、この世界に組み込んでしまえばいいのではないだろうか、と。
その思想を元に、とある魔術が生み出される事となる。
名を、魔導書。グリモアとも呼ばれる魔導書は、悪魔への制約を、強制を代償に、彼らをこの世界に在る者として定義する第二の心臓となった。
悪魔の定義に括られるのは、異界人だけではない。世界が果たす自浄作用。その絶対無非から逃れ得た、僅かな存在も同様の括りに入れられる。そして、彼らは元からこの世界に〝在る〟が故に、グリモアの制約も強制も受ける事はない。
その世界を歪める、その世界から生まれ出でた存在。<矛盾点>。
峪梨可純は、<矛盾点>の血を引いていた。
何の特性も特質も継いでいない、極々普通の娘。その娘に付与された、歪な背景。しかし、ただそれだけであり、それは珍しくは有れども特殊でも特別でもなかった。………けれど、歪な事に変わりはなく。
それでも平穏に。それでも、退屈に日々は過ぎていった。生涯、過ぎていく筈だった。
―――お別れだ、可純。達者でな。
過ぎていった日々に終止符を打った声は、未だに脳裏から耳朶から、離れる事はない。
「はい、もしもし?」
『峪梨君。シフト変更。明後日の昼に来て』
「へ、え、明後日って友達と予定が」
『拒否権はない。それじゃあ』
ブツッという遮断音を最後に、ツーツーという虚しさを喚起させる電子音しか聞こえなくなった。
なんて無茶苦茶な、と思わないでもない。瞬間的に怒りが沸々と湧き上がり、しかしそれが表層に現れる前に落ち着きを取り戻した。今ここで怒鳴り散らしても意味はない。精々虚しくなるだけか、周囲から痛い目で見られるぐらいである。
今から電話を掛け直しても、或いは今から乗り込んでいっても先の決定が覆されることはないだろう。
溜息を吐く。どうせなら、経費と偽ってやけ食いでもしてやろうかしら、と思わないでもない。しかしその後の手痛いしっぺ返しを思えば、実行する気などさらさら起きる事などある筈がないのだ。
別に諦めたわけでも、まして怒りを鎮めた訳でもない。ただ怒りが下へ下へと潜って行っただけ。
上司の顔を見た暁には、マグマの様にドロドロと圧縮された鬱憤を噴火させると胸に刻んだ。
そして指定された2日後、彼女は夜の獣と遭遇し、友人をバイト先に引き連れてくる事となる。
上司の意図も目的も全く知らぬままに。
上司もその偶然を全く予測せぬままに。
そして3日後の夜。再び彼女の預かり知らぬままに幕は開ける。