プロローグ:半年前
深夜。かつては草木も眠ると言われる時間帯であれ、現代の街は眠る事を知らない。
車の往来、夜を照らすビル、目まぐるしく瞬くネオン群、道路をいきかう人々、そこかしこに蠢く息遣い。
人口の光が星と月明かりを追いやり、暑苦しい生の吐息が充満した人の営みに満ちた場所。
その薄壁一枚を隔てた場所で、ソレは絶望に沈もうとしていた。
「が、ぐううぅぅぅうう……」
寸先さえ窺えない薄暗い路地で、襤褸雑巾のような人影が、苦痛に唸った。
獣のように唸り声を漏らし、身を捩るように転がるそれは獣に等しい姿だった。
それはその人と思えぬような唸り声、その無様な様を論った言葉ではない。むしろ感心と称賛の言葉だ。
そうであるべきと決められた通りに、本質的な意味で、それは獣と呼ぶに相応しいカタチをとっていたのだから。
その身体からは濃厚な鉄錆の芳香が漂っていた。血の匂いは既に体臭に等しく、先ほど付着した鮮血も既に古い匂いと混じり合っている。その指先は泥と血が混じり合って爪を黒くと染め上げ、元の皮膚の色が何だったのか判別がつかないほど有様であった。
「さて」
暗闇から声が来る。
淡々と。重苦しく。静かで。冷ややかな。
恐ろしい場所へと手招きする、悪魔の如き人ならざる声が、路地を通り抜けた。
「う、ううううううっ」
地面を捉える四肢には力が漲り、ざんばらの髪は逆立ち、喉の奥から獰猛な声が漏れる。
ソレは、獲物を狩らんとする肉食獣のようでありながら、しかしその実、追いつめられ爪牙を失った、憐れなケモノだった。
その目に灯る感情は見間違えのない程明確な怯えと恐怖。抑制しようのない原始的な感情は全身を巡り、絶えず冷や汗と脂汗が皮膚に浮かび続けて衣服をぐっしょりと濡らしている。夜風に冷やされただけではないのだろう、指先までが極寒の僻地に投げ込まれたかのように、カタカタと遠目からでもよく分かる程に震えていた。
「石津谷和介君。君はここ数カ月に及びストーカー行為に耽っているようだね。耐えかねた相手方から依頼があってな、―――『どんな形でもいい。ストーカー(キミ)を排除して欲しい』、と」
名を問うことなく、罪状をひけらかす様に声は紡ぐ。
くつくつと、嘲笑が漏れ響く。実に楽しそうなその声音は、舌舐めずりをせんばかりの愉悦に濡れていた。
―――だというのに。空虚なほど、声は空々しいほど寒々しく耳朶を打つ。そのアンバランスさが、獣をさらなる恐怖へと引き摺り込んでくる。
「これまでも何度か〝その手〟の業者に頼んでいたようだが、君のその〝特性〟のためにどうにも上手くいかなかったらしくてね。まあそこら辺は君の方がよほどよく知っているだろう。何せ当事者なのだから」
そう。影の語る通り、石津谷は比喩なく獣としての特性を持っていた。
彼の爪は鉄を裂き、腕は木々を薙ぎ払い、足はその身を高々と天へと踊らせ、その牙は獲物をやすやすと食い千切る。単純な暴力だけではなく、視力、聴力、嗅覚、あらゆる面で彼は獣に近い。
もはや〝石津谷和介〟という自我のみが、彼を人という定義にかろおじで入れるほど、彼は獣に近い―――いや、既に等しいと称してもいいほどに、持ち得る身体機能の全てが、あらゆる獣に匹敵していた。
それらは人の手には余るもので、そして彼の行く手を阻む全てを破壊してきた最強の矛だった。
しかし、障害を易々と破壊したその力が、目の前の人物には通じない。
それは、石津谷にとってまぎれもない恐怖としてその身を縛り付けていた。
なんで、どうして、どうなって。ありえないありえないありえない。確かに爪は届いた。この腕が、爪先が、その血の詰まった肉袋に届いた感触が確かにあった。なのに何故だ。何故だなぜたなぜたなぜだなぜなぜなぜなぜなぜ、何故!
何故目の前の男は何事もなく俺の目の前に立っている!?
その身体は容易に人を引き裂き、食い殺す―――はずだった。
十数と繰り返されたその条理を軽々と無視した存在に、石津谷和介という名の獣は言いようのない感覚を、深く深く刻み込まされる。
……そして、不運な事に、その感性さえも石津谷は獣に相応しい性能を得ていた。
影と出会った瞬間からその鼻腔を擽る、言いようのない馨に皮膚が泡立つ。
その馨の意味を本能で理解し、絶望が身体を捉えた。
―――それは死の匂い。圧倒的な強者から、万に一つも逃れ得ぬという現実を突き付ける、絶望の馨だった。
「障害は乗り越えるもの、という信条の下での行動だったんだろうが、いささかやり過ぎたようだな」
嬲る声色がゆっくりと変質していくのを、一方的に聞き続ける。
聞き続け、させられる。
先ほどまで囃し立てるように踊る声は見る影もなく、平たく無機質な音へと変わっていくのを聞き届ける。
「依頼ならまだ趣味の範囲で済んだんだが」
そこで、獣は声の根幹、影を突き動かす感情を理解した。
「―――あの子に手を出したのなら、相応の覚悟を負ってもらおう」
疑問ではなく断定で影は静かに告げた。
あらゆる意味で一切の余地を与えぬ、蹂躙の宣告を。
そして、暗闇から影が現れる。
否、暗闇が怯えるように退き―――狩人が、幽かな月光にその身をさらした。
獣が初めて見る事となったその貌に浮かぶのは、紛れもない憤怒。口元に刷かれているのは完璧な微笑である。しかし、ただ一つ以外を読み取ることが不可能なほどの激情を毛の先にまで満たしきり、それはそこに居た。
空気を揺らめかせる感情の余波が、獣の終焉を彩るように踊る。そこから濃密な死の馨が咽んばかりに匂い立っていた。
そこでようやく獣は悟る。
自分が何に手を出してしまったのかを。
自分は、何に手を出してはいけなかったのかを。