十三話:告げられる事実
目蓋の裏が刺激され、ううんとくぐもった声が出た。眠い。雀の鳴き声と刺し込む光でああ朝か、と架谷は判じた。
(………ん?)
ちょっと待て。何かが可笑しい。一気に眠気という拘束を振り切った本能が告げる。
………私は今、一体どこで眠ってる?
がばり! うつ伏せの状態のまま腕立ての要領で跳ね起きる。待て待て待て待て待って待って! パニック状態が加速的に進み、それに伴って顔から血の気が引いて見事な顔面蒼白になっているが、架谷は全く気付いていなかった。
そんな事よりも、現状把握の方がよほど大事で重大である。目覚めたばかりの脳がアドレナリンで急激に増量して送られた血液で活性化し、意識に現状を呑み込ませる。
かくして。
「―――――――――っ!?」
悲鳴にならない悲鳴が、彼女の本日第一声となった。
その声に連動するようなタイミングで見知らぬ部屋の扉が開く。
「あ、架谷さんおはようぅ―――ぎゃっ!?」
早いねぇ、と続く筈だった暢気な非常に聞き覚えのある声を聞いた瞬間、架谷はその声の主に向かって飛びついた。目にもとまらぬ、という表現がよく似合う俊敏さである。………一瞬、飛びつかれた峪梨がネコ科大型肉食獣に襲われた錯覚に陥った程鬼気迫る、迫力のある動きだった。
何が起こったのか聞こうとして、峪梨はそれを止めた。代わりにその目が絶対零度の冷たさを滲ませる。
「何してるんですか、桐原さん」
汚物を見るような眼で、先ほどまでは死角で見えなかった桐原を見止めた。………正確には、桐原の行動を。
「い、いやあぁ~こんな美人な姉ちゃんおるんじゃったら何もせんのは失れじゃんぶるっ!」
訳のわからない悲鳴とともに顔面を本(世界地名大辞典・索引。全456287ページ。顔幅より分厚い)と一体化させて倒れ伏した。勢い余って後頭部を強打、その反動で顔面から突っ伏した。
「ごめん、架谷さん。こっちのガードが甘かったみたい。恐い思いさせてほんっとごめんね………」
「う、………へ、平気。でもしばらく視界に入れたくない。気持ち悪い………」
「うん。そうだよね。大丈夫、ハミルさんに頼んで遠いところへ捨ててきてもらうから」
「向こうで休んでるね………」
顔色が優れないまま出て行った友人の背を見詰める事しばし。そのままゆっくりと、ドアを閉じた。………ばたん。日常的な聞き慣れた音は、今の桐原にとっては無情に落とされる断頭台の前触れにしか思えなかった。
「…………」
「何をぶつぶつと言っていらっしゃるんですか。本当に気持ち悪いですよ、桐原さん」
「ぐえっ、そ、其処は踏まんでくれい………て、そんな敬語使うほど!?」
「お早い復活ですね。そしてもう一時間ほど、部屋の隅で眠っていて下さい」
床に転がっていた世界地名大辞典・索引をゆっくりと両手で持ち上げた。その背表紙が妙に赤っぽく見えるのも気にせず、大上段に振りかぶる。
「百合がどうとか呟かれる事も気持ち悪いですし、友人の寝顔を盗撮されているような方、いなくなって頂きたいと願わずにはいられませんね。出来れば即息を止めてください。いえ、むしろ今すぐ。永久に」
「え、それは死ねって言うんと同意義じゃ」
中々に醜いオブジェを後に、峪梨はシーツと布団と枕を抱えて部屋から退室した。
◇◇◇◇
「………ここ、かすみちゃんのバイト先、だよね」
半ば自分に言い聞かせる形で独り言を零す。先ほどの部屋の隣室であるこの部屋には見覚えがあり、そこから昨日の出来事が芋蔓式に思い起こされた。
薄ぼんやりとだが、確かにこの事務所の所長と会話した事は覚えている。その内容までは思い出せないのだが。
何か言い負かされたというか、一方的に、圧倒された? なんだか向こうばかりが何やら言っていた気が………―――そこまでは記憶にあるものの、それ以上の詳細はさっぱりであった。まるで雲を掴むような心地だ。もがけばもがくほど、手の中から水が零れおちるように虚ろになっていくのを感じた。
「目が覚めたのか」
びっくぅ! 架谷の体が大げさなぐらいに跳ねる。全く気配がないから気が抜けていた、というのもある。自分の中に中にと潜っていたという事も。しかしそれ以上に、その声だ。低く掠れたテノールが、記憶をざらりと撫で上げて動揺させ、湧き上がった不快感と危機感をごちゃ混ぜにした感覚が心臓をきゅっ、と縮こまらせてきつく束縛した。
「驚かせたようだな」
「………いえ」
ゆっくりと振り返る。………昨日と変わらずの何を考えているか分からぬ鉄面皮を張りつかせて峪梨の上司―――恐らくは、ハミルという名の人物が、居た。
「〝あれ〟から一晩丸丸寝入っていたんだ。流石に少し気になってな。どうやら、体に特に問題はなさそうだけど」
一晩寝入っていた、と言う事には納得したが、その後の『流石に』『少し』などという発言には引っかからざるおえない。その上ぱっと見で健康状態を判断しないで欲しい、と架谷のハミルに対する心情は大暴落だ。事実彼の言うとおり、架谷の体に異変が全く無いとしても、だ。
だからと言って噛み付くわけにもいかず、またベッドを一晩貸し渡してくれた礼を踏み躙るなど論外だろう。相手がどのような人物であれ、感謝するべきところはしておくべきだ。弱みを握らせ続けるのは非常に恐い、と算盤が弾かれた。
「一晩御迷惑をお掛けしました。………どうしてこうなってしまったのか、よく覚えていないんですが、本当にありがとうございます」
最後の部分は、『何があって一晩も寝入る破目になったんですか教えて下さいよ』という催促なのだが、すぐさま後悔する。しまった、これは後でかすみちゃんに聞けばよかった。
しかし一度口から出てしまったものは仕方がない、と即座に切り替えた。そうっと上目使いで相手を窺う。
…………。何故だろうか、と架谷は絶望した。何故だが物凄く聞いてはいけない事を聞いてしまった気分に陥った。
彼が怒っていたわけではない。不機嫌とも違う。悲しそう―――あり得ない、薄ら寒さを覚える前に切り捨てた。とかく、そういった感情ではない。
………追いやった獲物が予め仕掛けておいた罠に予定通り掛ったのをほくそ笑む、実に陰湿な顔をしていた。してやったり、という表現が近いのだろうが、滲む陰湿さが薄暗い混沌な方へのマイナスへと印象を振り切らせていた。『陽気』『快活』、正の因子その悉くが真っ黒く塗り潰される陰湿さである。そんな冗談や悪餓鬼の使うような表現は欠片も似合いそうにない。というか生温い。
まるで、とその対比例を思い描いてさらに絶望感が犇めきあう勢いで募り募ってくる。まるで、そうまるで。
―――まるで、所長みたいなワライカタ何ですけど!
漢字は絶対笑い方、ではなく嗤い方のほうだ。
嵌められた。この言葉が自然と浮かび上がる。一体どこに向かって蹴落とされるのかは知らないが、碌な場所ではない事だけは保障されてしまっている。本気でお断りしたいと切に思った。
「そうだな、まだ峪梨君もまだ説明していないようだし―――良いだろう」
昨日の丁寧な言葉遣いがない事はともかく、架谷は昨日数度聞いた峪梨の呼び名が『さん』から『君』に変化している事に気付かなかった。些細と言えば些細だが、この変化に気付いていれば僅かながらにもハミルの関心の矛先を逸らせたかも―――否、と訂正する。気付いていても積もる心労に大差はなかっただろう。
「君は昨日、私の話を聞いている途中で倒れたんだ。そこまでは良いかな?」
問いかけられて、記憶を探る。確かに昨日目の前の男と会話をした記憶は架谷には有る。それが〝会話〟と呼べるものかは一先ず置いておくとして。
「その、お話を聞いていた事までは覚えているんですが、………その内容が全く」
語尾をごにょごにょと濁す。ハミルの浮かべる笑みの陰湿さが一瞬倍増したのだが、丁度僅かばかり視線を逸らしていた架谷はその瞬間を見逃してしまった。それを幸運と呼ぶか不運と呼ぶかは人それぞれだろう。………大半は見なくてよかった、と胸を撫で下ろす笑みだろうが。
「それは―――」
そこでハミルの言葉は途絶えた。腰を浮かしたと思った途端、彼の体が大きく横に傾ぐ。
直後、ばさぁ、と布の塊が彼の座っていた場所に不時着した。
「ハミルさん、何やってるんですか!」
「何やってるんだ、峪梨君」
腕組みをして仁王立ちになった峪梨がハミルを見下ろしていた。どう見ても怒っていますよのポーズである。
「説明は私がするって了承したでしょう。なのに何を勝手にしちゃおうとしているですか?」
昨日とは違い少し砕けた喋り方になっているのはそれだけ怒りを感じている為なのだろう。視線に刺々しいものが入り混じっている。
「とにかく! 私が引き受けたんです、邪魔しないで下さい」
「こっちの話聞く気は………なさそうだね」
「聞いても意味はないでしょう」
次第に落ち着いてきたのか、その仕草からは十分な余熱が抜け始めている。恐らくはこれ以上からかっても面白味はないだろう、適当に見切りをつけてハミルは「それじゃ、お願いするよ」と話を畳んだ。その意図がどうであれ、架谷にとっては救い以外の何物でもなかったが。
そのまま隣室(先ほどとはまた違う部屋に)のドアを潜った後、思い出したように峪梨は〝それ〟を切りだした。
「そういえば、桐原さんが彼女にセクハラを働いていました。一応お話ししておきますので」
何気なさを装った、確信犯として咎人を断罪者に投げ渡した。
「………あの、話って」
「うん。………ちょっと長くなるから、そこに座ろうか」
架谷に席を勧めて、彼女自身も向かい合うように座る。真っ直ぐに姿勢を正せば僅かに視線がすれ違うように意図的に設置されている椅子は、カウンセリングの時のように相手の緊張を解すよう配置されていた。
その事実を知った時、態々従業員しか使わない部屋まで気を回さなくとも、と呆れ半分で話を聞いていたのだが、人生とは何が起こるか分からないものだと峪梨は現在に至って感心した。とりあえず有難うございます、ハミルさん。数少ない感謝の気持ちを、胸の中だけで告げておく。
「ごめんね、うちの上司が」
「ううん、平気。………何というか、濃い、ね」
「濃いというか、真っ黒い感じではある」
「捕食者って感じだよねぇ。うちの上司と似た雰囲気だった」
「あ、やっぱり? 話聞いてて似てるなーて思ってたんだよねー」
「似て欲しくないところで似てるね」
「あはは、ほんとにね」
「…………」
「…………」
たいして続かなかったキャッチボールが途切れる。
無言の中、先ほどの光景を峪梨は思い出した。
ああ本当に余計な事を! と峪梨は怒ったが、後の祭りである。そもそも予想外だった。ハミルは一度寝ると自分で起きるのは殺気や敵意、周囲に異変があった時ぐらいで、放っておけば丸一日程度優に寝入り込んでいる。それがたった10時間足らずで自分から起きてくるなど小惑星がピンポイントで事務所にぶつかるぐらいの、いやそれ以上の確率ではないだろうか。
しかし普段なら嬉しいであろう誤算は、今回に限っては最悪と言えた。いや、もしかしたらだからこそ起きたのかも、と勘繰る。だとしたら最悪だ。嫌がらせのためなら川を逆流させるぐらい平気でやりそうな辺り、十二分にあり得そうでもう本当に最悪である。
「かすみちゃん、話って?」
いきなり、真正面から架谷が切り込んできた。しかも的確に急所に迷いなく。
あまりに躊躇なく踏みこまれて二の足を踏んだ。こうも明け透けに切られるとその気でも腰が引けてしまう。
しかし、そんなわけにはいかないのだ、と自分で自分を励ました。架谷は、他でもない当事者なのだから。
何から話すか。慎重に言葉を選んで、舌の上で丹念に転がして、言葉を紡ぎ出す。
「架谷さん、≪魔術≫って知ってる?」
「ま、じゅつ?」
戸惑った様子が傍目にもよく分かった。当然だろう、と峪梨は思う。そんなもの、空想上のお話でしかない〝ハズ〟だ。………少なくとも、数ヶ月前の自分にとっては。
「うん、魔術。ほら、小説とかゲームとかで出てくるでしょ? ≪魔都≫関連での噂でもよく聞く、何もないところから火を熾したり風を吹かせたり。あの魔術。………ハミルさんはね、その魔術が使えるの」
「………嘘、じゃないの?」
「まあ、論より証拠というわけで」
そう言ってから手をかざす。方向は斜め上。微妙に右寄りで架谷とは反対側に掌が付きだされる。そのままゆっくりと掌が天井を向いた。その上には、小さなビーズ玉が一つ。
それを確認させた後、小さく、しかしはっきりとした発音で言った。
「<解放>」
突如。音もなくビーズ玉が弾けた。
四散した欠片が方々に飛び散り、しかし球体状の見えない壁に阻まれるように10cmの飛距離で急停止した。それだけの事が、0.1秒の時間を置かずに繰り広げられる。
変化はそれだけに留まらなかった。欠片は先ほどの1/10程の時間を置かずにさらなる変化に及ぼした。
ぼう、ともごう、ともつかぬ音が生まれる。赤い光が生まれて渦巻いたと思えば、すぐさま青へ、そして白へと色が変わっていく。真白い光に埋め尽くされた球体の内部に渦は見えない。そのまま、白が薄れて透明色へと変化していった。
光が収まった時、球体があった場所には無数の水球が浮かんでいた。拳大のものを中心に、爪先ほどの水球が浮かび、滑るように大きな水球を中心として回っていた。
「これが魔術」
「………ほん、もの………?」
架谷が茫然と呟いた。重力下で完全な球状を保ったまま液体が浮遊するなど、どう考えても不可能である。いや私が知らないだけであるのかもしれないけど。心の中で呟いて逃げ道を作ってしまうが、少なくとも峪梨が知る限り、そのような技術は聞いた事もなかった。
以前女子大学生らしくない会話にてその事実を共有した時の知識は健在だったらしい。何らかのトリックではない、という点においては信じてもらえたようである。
「これはハミルさんに〝借りた〟だけで、私自身が魔術を行使―――使った訳じゃあないんだけど………。こういう、特殊な物理現象を引き起こすものから、何かを召喚して使役したり、人の内面に影響するものまで様々なんだって」
伝聞の態で説明をしていく間にも、水球は形を変えていった。兎や犬、電車、自動車、鳥、木。峪梨が意識するまでもなくコロコロとその形を変えていく。
「………どうして魔術の事なんて説明するの?」
「―――さっき、人の精神に影響する魔術もあるっていったよね?」
「…………?」
それが、どうしたのだろう。そう言いたそうな表情へと変化する。
「………架谷さんの上司って酷い人だよね。話聞く限りでもそうだし。前から言ってたよね、辞めてしまいたいって。………この機会に、バイト辞めちゃったら?」
「いや、確かに酷い人だけど………」
「ねえ架谷さん。どうして一度もさ。バイト辞めようとしなかったの」
ぐ、と喉が詰まった、そんな顔をした。ただ実入りが良かったから、何となく。そう続ければいい。しかし、架谷はその〝言い訳〟を続ける事はなかった。
「架谷さんって結構淡泊っていうか、冷静だよね。だから危ない事にはあんまり首突っ込まないし、他人の面倒事に近づくことだって稀だし。だから、ずっと不思議だったんだ。架谷さんが、借金の為だとしてもあんな危ないバイトし続けてるのが」
恐らくはぐうの音も出ない程、峪梨の語る事はそのまま架谷自身の描く己の人物像に当て嵌まる筈である。事実、彼女は何も言わない。確かに最近では貧困な生活に金品への執着は以前より遥かに強い。それでも〝以前と比べて〟であって、身の危険を顧みず、というレベルではない。
だが、それを鑑みても、がっちりと首輪を着けられた架谷には橘から逃れる術などないのだ。辞めれば借金まみれの日々にあっという間に倒れ伏すに違いない、そんな確信が架谷の中に根付いていた。―――そう彼は語っていた。
「本当に? 本当に逃げられないって思ってた?」
「………いや、だって、借金が」
「その借金ってあとどれぐらい? 半年かけてもまだ全然目処が立たないぐらいなの?」
それは。そこまで口の形を作って、架谷は青褪めた。何に青褪めたのか、借金に関する事、そこまでは分かってもそれ以上は推し量ることはできない。
しばらくの沈黙。架谷は何を言うでもなく、何も反駁しない。その視線は峪梨に向いてはいたが、全く焦点が合っていないのがよく分かった。
殊更に優しく、峪梨は語りかけた。
「ねえ、架谷さん。―――どうして、辞めようって、実行した事ないの?」
半年前。僅か半月で憔悴していく友人をあっという間にすくい上げた彼女の上司対し、峪梨は本当に感謝していた。あの時の自分には何も出来なかった。その事実は負い目の様に今も棘として刺さり続けている。
―――しかし、だからこそ。これは。
真正面にある友人の顔は、青を通り越して白い。
「………あんな危なそうな人と、どうして離れようってしなかったの?」
ずっと思っていた疑問を投げかける。いくら命の恩人でも、何度も危機的状況に追い込んでくるなら逃げたいと思うのは正常な本能だろう。
確かに何度も辞めたいという愚痴を聞いてはいたが、所詮愚痴は愚痴、それらにはいつも真剣味が全く含まれていなかった。たまに「じゃあ実行してみれば?」と発破をかけてみても、冗談だからと曖昧な笑みで躱されるのが常であった。
ずっと疑問だった。自分というものを弁える友人は、決して無茶をする性格ではない。そして、他人に入れ込む性格でもない。今まで何度かいた恋人に対する辛辣且つ冷淡なあしらいを知る身としては、どこか歪さを感じてしまう。
それでも、踏み込むことはなかった。踏み込む必要性を感じなかった。踏み込むための理由がなかった。
だからと言って、心配しないという訳ではない。むしろ心配しっぱなしだった。
自分の置かれている状況に似ている―――その事実が、酷く恐ろしいものであるように思えて仕方がなかった。目を逸らし続けたソコを改めて直視した時、背骨に凍み渡る悪寒が身を震わせた。
自分の立ち位置と友人の立ち位置は全く違う。
だと言うのに『似た状況』に置かれている。その現状がどれほど歪に歪んでいるか考えた時、思考を放棄したくて仕方がなかった。
鳥が海を飛ぶ為に空を飛ぶ事を止め、鳥が大地を走るために羽を切り捨てるように。全く違う環境に適する為に切り捨てるモノは一体何なのか、峪梨には想像もつかない。捨てるべきを捨てられず此処にいる峪梨と違い、架谷は此処にいるべきではないのに此処にいる。
その事に何の違和も持たず、当たり前のように空と海とを飛び回り、歩けさえもしない大地をうろうろと徘徊している姿は、滑稽を通り過ぎて不可思議だった。だって空を飛ぶ鳥は海中では息が出来ない。大地を走れない鳥はあっという間に捕食される。誰もが知っている事を知らないかのように振る舞うさまは、どう考えても可笑しかった。
それでも峪梨はその可笑しさから目を背けていた。気の所為だと思っていた。日常から非日常を覗いた人間特有の感覚だと、軽視していた。
その可笑しさの根底を、昨日ハミルに告げられるまでは。
「でも、あの人は恩人で。借金もあったし、給料が良かったから。利子も、働いている間は、ないって」
白い顔のまま、それでも理由を挙げていく。それは言い訳と言うよりは、一つ一つを確認していく為の独り言のようだった。
普通なら、と峪梨は夢想した。普通なら、この程度では到底揺らがないだろう。人の脳は都合よく継ぎ接ぎをして現状を受け止めさせる。高々こんな問い詰め程度で揺らいでしまうほど、人は脆いものではない。
「…………」
「…………」
何度目かの沈黙が下りる。架谷が現状に対してパニックを起こしていない事が、冷静さを失っていない事が峪梨には理解できた。それ以上、何を思っているかは考えないようにした。考えてしまえば、何を言えばいいか分からず泥沼に嵌ってしまいそうな気がしたからだ。
「さっき、人の精神に影響する魔術があるって、いったよね?」
「うん」
「それは、今、関係ある事?」
「………うん」
峪梨は知る由もない事だが、先ほどハミルと会話をした際、昨日の会話を忘れてしまった、と告げていた。正確には思い出せないと。
先ほどからの会話、そして渦巻き助長し続ける感情が不安を煽り、ハミルの言葉を思い出させていた。
―――他人に深入りしない性質だそうだね。
―――冷静で冷徹で淡泊だ。
―――何故だろうな。
―――ある人物が関わる時、その関係性が揺らぐ瞬間、君は激昂する?
「私は………―――橘さんに、精神を縛る魔術でも掛けられていたの?」
そして先日の、赴夜との会話を思い出す。
―――橘の事をどう思っているのかなぁと。
―――単刀直入に言うと、好き?
知っていたのだ、穿ち過ぎだと分かっていてもそう思わずにはいられなかった。
「うん。事務所でバイトをさせ続けるために関心が向くように、辞めないさせないためにしてた、って。催眠術みたいなものだって」
本来催眠術とは『したくない事』をさせるためのものではない。例えば『×××を殺せ』と掛けたとしても、人殺しを拒む心がその暗示を拒絶し失敗するそうだ。
心理学を学んでいた架谷から催眠術に関する事をいくつか聞いていた峪梨は、催眠術を掛けられていた、という説明は不可能だと判断した。もし魔術を無効化した時、架谷が本気で拒んでいたのならこの説明では丸め込む事が難しいと判断したためだ。あまり上手くない嘘をついて藪蛇に、というのを避けたかったというのもある。
「かすみちゃん、ちょっとお願いがあるんだけど」
「?」
「少し、一人で落ち着きたいんだ。………ごめんね」
そして、架谷はそこに至ってようやく峪梨から顔を背けた。
◆◆◆◆
「ああ、それじゃあ一度切るぞ」
「は、ハミルさん、なんじゃえらく機嫌がいいようで………」
「そ、そうですねぇ。一体どんな話をしてたんですか? その、は、鼻歌まで歌っていらっしゃって………」
びくびくと怯え媚びへつらう下僕2匹を蔑むように横目で見やった。それだけでびくぅっ! と過剰反応する部下を尻目に、手の中の携帯電話を弄ぶ。
「お前らには関係ない事だ。―――あっちはどうだ?」
「今あっちで嬢ちゃんに説明しとるとこじゃなぁ。何じゃ、えろう黙る回数が多いが」
「峪梨さんとしても不用意に事を進めたくなんだろう。彼女には珍しく、大事な友人の様だからな」
どれだけかは知らんがね、とリーガンは肩をすくめた。彼女の薄情さは職場の人間なら知るところである。一度敵に出会った時どうするのかと聞いた時、堂々と「安心してください。―――貴方を敵の真正面に突き飛ばしてでも(私だけ)逃げますから」と言い切った女である。悪魔か! と罵ったのは記憶に新しい。母性を滲ませ優しく触れながら言う言葉か、妙齢の女が。
「そうか。彼女が出てきたら教えろ。寝る」
「………らじゃー」
「了解しました」
暴君め、と心の中で罵る。直後に脳天に突き刺さる一撃を浴びせられたのは、お約束という奴なのだろう。
心からいらんわ! という絶叫は、彼らの脳内だけでしか響く事はなかった。
ドアを閉めて数歩歩くと、見計らったように(実際、見計らったんだろうな)携帯が鳴りだした。
「………もしもし、俺だ。ああ、今説明しているところだ。………不安か? ………ふん。喰えん女だ。まあいい。こちらの条件は分かっているな? ………そうだ。ふん」
口が歪に歪む。口端を裂けんばかりに吊り上げて、ハミルは嗤った。
「本当に相変わらずだな、お前は。………ああ、お前の目論見はどうでもいいが、俺は好きにさせてもらう。………それじゃあな」
携帯をそのままアンダースローでベッドへと放り投げる。そのままその場で立ち尽くした。
………くっく、喉の奥で笑う。
全く目的は見えないが、態々あちらと関わってまで舞台に乗り上げる気か、アレは。この状況で関わってくるとなると、恐らくは逆鱗に関する事だろうと当たりをつける。しかしそれさえも無意味なのが、ハミルが〝アレ〟と称する人物だった。
終わったものを掘り返してまでやってくるモノに、嘲笑する。
―――いや、終わっていないのか。アレの中では。
恐らくこの演劇は喜劇であり悲劇でもあり、そのどちらにも辿りつけない中途半端で面白味もない、実に下らないものへと成り下がるだろう。
それさえ惜しみながらも踏み潰す人物を思い描き。ああ本当に最悪だなお前は。
そうしてもう一度嗤ってやった。