閑話:いつか誰かのカンショウ
赤、赤、赤、黒、赤、黒、黒、黒。
錆色が乱立する空間に2色が入り混じって浸食する光景は、何とも筆舌に尽くしがたい。
或る者は絶景と。或る者は異常と。或る者は美しいと。或る者は気持ちが悪いと。或る者は、この世ならざるモノと、評するのだろう。
「まあ、どうであれこう〝ニオウ〟とな」
その中心に立つ柱―――否、人が呟く。
撒き散らされた赤と倒れ伏す黒の中心に立つ姿は花柱を思わせる。………それは、撒き散らされた赤も倒れ伏した黒も、その人物を中心した花弁のようであるために受ける印象なのだろう。
数えるのも馬鹿らしくなるほどの撒き散らされた色と、両手両足さえ生ぬるい数が倒れ伏す色。赤と黒からなる花の軸となった人物は、どこまでも面倒臭そうに呟いた。
「あぁ、鼻が駄目になる。こんなことなら私が地下に行けばよかったか?」
しかし任せるのもなぁとぼやき続ける。薄暗闇の中で表情は読めないが、その声の調子からしてただ暇だから呟いているだけ、という回答が最も正しく思えるため、本当にぼやきなのかは怪しいのだが。
その人物の周りに漂う紫煙が、風もなく揺れる。
「主、確認が終わりました」
「ああ。………これで貸し借りは無し、といきたいものだがな」
背後から、目の前から、天井から、あるいは別の場所から。気配もなく姿もなく声を掛けられたのにも関わらず、花柱の人物は動じない。むしろ別件について気にしている様子で、再び独り言のようにぼやいた。
「難しいのでは?」
しかし、そのぼやきの中に含まれた希望的観測はバッサリと声に切られる。
「あっはっは、無理だろうなぁやっぱり。………ううん、笑って吹き飛ばせるかと思ったけど、やっぱり無理だ。こう、腹のあたりがずぅんとする気がする」
「気のせいです」
「そこはストレスでは? じゃないのか」
ばっさり切り落とされたためか、声が幾分か沈んでいる。しかし、冷徹な声には一切手加減しなかった。
「あなたにそのようなものを感じる理由はありません。むしろこの状況とて楽しんでいるのでしょう。―――空調システムの調整が終わりました。そちらの悪臭も直に消える筈です」
それきり声は沈黙した。
まるで初めから花柱の人物以外誰の声もしていなかったかのような清閑とした状況に、しかしその人物はまるで気にした様子はない。
「んー、後は〝アチラ〟次第という訳か」
周囲に何一つ興味を引かれないかのような足取りで、今最も気にするべき案件に思いを馳せる。前が見えているのかさえ怪しくはあるのだが、その足取りに迷いはなく、黒色を踏みつける事はない。
そこでふと、足を止めて呻きに近い呼吸を吐きだした黒色を見下ろした。
「運が悪かったのか良かったのか。私が相手だった事がせめてもの救いかな」
聞こえていないと分かりつつも、私以外なら皆殺しぐらい平気でやりかねないものなあと付け加えた。
それは事実である。彼らの成した事、成そうとした事は紛う事ない禁忌であり、恐らくはこの十数年は確実に三大組織の二角は最も神経を尖らせる事案だろう。それこそ、事案そのものを消す為に、一切をなかった事にしかねないほどには。
「全くもって、本当に幸か不幸か分かったものじゃあない」
しかしそれでもその人物はそうぼやく。
いや、それは決してぼやきではない。声が告げたように、その人物は常に楽しんでいる。彼らが成す事に対して絶対の障壁であるにも関わらず、それを自ら望んでそうあるにも拘わらず。
楽しんでいる。その感情の底にあるものは、恐らく常人には決して理解できず、また共感できないであろう感情だ。
「ああ、本当に忌々しい」
かつての宿敵であり自分自身とも言えた一人の〝人間〟―――その影を懐かしむ感情も、その影があることへの好感も、そう感じてしまう自分への嫌悪も。総じてその人物は『忌々しい』というカテゴライズに放り込む。
その『忌々しい』という表現でさえ甘いのだから、ああ本当にこれは末期なのだ―――かつて、結局は敵意ではなく殺意で、嫌悪ではなく友愛で、反感ではなく共感で殺し合った宿敵を思う。
それら全てを受け入れて、くつりと哂う。
「主、連絡がありました」
突然耳元で囁かれたような距離感で声が耳朶を震わせる。それにもやはり驚く事はなく―――寧ろ、目を細めて言葉を待つ。
「どうやら一足早く、プランが移行しそうです。術がソロモンに解かれ、鳥目が例の場所に」
「おや、あの子は?」
「………事務所に来客があったそうです。どうやらタダモノではないらしいのですが」
僅かに、声が詰まる。恐らくどのような人物か見当がついていないのだろう。だが、
「ああ、分かった。そいつなら問題ないよ。しかし、プランは多少の変更が見られるだろうね。ルートCを考慮して、プランDを一足早めておいた方がいい」
あっさりと答えが返る。もともと穴だらけでその概要の殆どが立案者の頭の中にしかないのだから、声が詰まるのは当然だった。そして、立案者があっさりと声の戸惑いを解消するのも当然である。
「了解しました」
「それと、出来れば全員に連絡。そろそろこの案件も終わりそうだ」
それだけを告げて、その人物は暗い室内から明るい外へと抜け出る。
夕日に染められた空を見やり、黄昏に近づく光景を遠望する。
「誰彼時、逢う魔が時、ね」
次に此処を訪れる時を思案しながら―――もう一度、ここでこの光景を見る事はあるのだろうかと、ふと憂いた。
憂うという感情など、あるわけがないのに。