十一話:橘事務所では
「あーれてるなァ、坊」
庵夜の呟きに、無言でレナが頷き返す。普段なら小動物のようなその挙措に相好を崩す人物がいるのだが、今いるのは庵夜の他にはブチ切れた挙句に荒れ放題の凶暴魔人ぐらいである。そして今現在、彼は庵夜の一部を粉砕し続ける事に全霊を傾けていた。
「たく、痛みがねえ訳じゃないんだぞ。修復とて燃料要らずとはいえ手間は掛かるっつうのに」
「………大丈夫?」
「おう、全力でシャットアウトしてるからなぁ。しかしちょっとでも気を緩めればこっちに速攻で影響出るかもな。あーあ、ますます力上がってねえか、坊の奴。まともにやり合ったら即殺だな」
重い溜息を吐く。帰ってきた途端あの調子で、一向に説明をする気など欠片もないのだ。そもそも庵夜たちは彼の手駒ではない。それゆえに何一つ説明も指示ない。当然と言えば当然である。そもそも、庵夜に説明というものは不要である。それを重々承知している橘にとっては、その理由は腹立たしい以外の何物でもないのだろうと理解できた。
仕方がなしに大人しくしていたのだが、急に激しく舌打ちしたかと思えば「殴らせろ」と宣言、そのまま現在までバーサーク状態を続けている。
―――まあ確かに、坊のは〝貯め込む〟事に向いてねえしな。普段ぶれない分、一度荒れるとほんと殺されそうだ。
「と、うおっ!」
突如、顔面に向かって何かが強襲してくる。直撃コースのそれはすぐさま後ろの壁に激突した。
ドグシャアッ!
派手な音から察するに、原形さえ残っていないのだろう、恐らくは。此処はテナントではなかったかと心配になるが、自分の気にする事ではないと切り替えた。というか、今のタイミング、まさか考えが読まれたかと危ぶんだ。もしそうなら後で相当恐ろしい目に遭う可能性が非常に高い。そこまで考えて、
「………………………ソファー」
「レナ、落ち着け。あるから、もっと良いのが用意してあるから。後で取り換えるし、このソファーもきちんと直してやる」
すぐさま相方を宥める。どこまでも純で無垢な幼子は、優しく穏やかで泣き虫ではあるのだが、その分感情に素直でどこにあるのか今一つ判りづらい地雷は非常に危険であるとよくよく理解していた。かつて一度だけ放置した結果、見るも悲惨な状況になった事があり、今でも苦く忘れられない記憶として刻まれている。
ふと、自分はいつからこういう役割に落ち着いたんだと考える。少なくとも昔は怖れを振り撒き畏れられる存在であったはずだ。そこまで思って、
―――ああ、あの二人に巻き込まれてからか。
当時を思い出し、突発的片頭痛に襲われつつも、仕方がないと納得させた。
恐らくは。あの悪夢は、あと幾度かは舞台と役者を変えて起こるに違いないと思いながら。
「………おい」
「お、坊、気は静まったか?」
ぴたりと騒音が収まるとともに、庵夜に背を向けたまま橘の動きが止まっていた。ユラユラと怒気が立ち上りながらもそれ以外はいたって静かな様子に、ああやっと鎮まったと慄きつつも安堵した。こうも感情が激しいのは血か。血なのか。
「あの子は、架谷さんは今どこにいる」
「あ? 今はオフィス街の喫茶店にいるな。あす羽奈ってところ………」
ごっ! と革靴が庵夜の顔面にめり込む。
「バカ野郎! それはフェイクだ! さっき彼女に掛けた術が解かれた。今いるのはオフィス街の外れのビルだ!」
「んな、はあぁ―――――っ!?」
◆◆◆◆
「なぁ、庵夜」
「ああ?」
「………あれだよな、あの人の口が悪くなったのって、絶対お前のせいだよな」
「うるせえ。―――で、なんだよ」
「いやあ、ちょっと師匠から頼まれ事が………」
「断る」
「ちょ、まだ何にも言ってない!?」
「うるせえ、絶対ロクなもんじゃねえだろう! こっちに態々流してくんな!」
「分かってるなら黙って頼られろ、というか断れる立場と思うなよ! どうせ師匠絡みじゃ無力だろうが!」
「ぐ………! ………で、何だ。聞くだけ聞いてやる」
「いやあ、橘事務所に」
「断る!」
「何で!」
「絶対ロクなもんじゃなかったじゃねえか! 坊の性格ってあれだ、腹真っ黒い割に皇冴の野郎並みに明け透けじゃねえか! 遠慮容赦に手加減が空の彼方だぞあいつ! お前より性質悪いわ!」
「おお、褒め言葉。………いやあ、だって師匠気にしてたんだよ。何度か様子見に言ったけどすぐ追い払われてあんま見れなかったんだけどさー。可愛い姉ちゃんがいたんだよ、これが」
「………え、坊に春? だったら目出度いじゃねえか」
「………おい。師匠たちのあれこれや、椿さんのドタバタ忘れた訳じゃないだろうな」
「………あれ、坊ってもしかしてそっち寄り? 皇冴の野郎じゃなくて?」
「二人が似た者同士なのは常日頃の反目から察しろ。骨は拾ってやる。レナちゃんも俺が責任もって面倒見る」
「ふざけんなレナに手え出すんじゃねえ――――!」
「黙って行って来い―――っ! 師匠の話だとそっちでゴタゴタ起きそうだから手え貸してやれとの事です文句は言わせねえぞ尾行のプロが―――っ!」
「うるせえお前が行け―――!」
「こっちだと諸々打ん殴って終わりだろうが―――! それじゃあ意味ないって理解しろ―――っ!」
◆◆◆◆
走馬灯の様に二週間程前の会話を思い返し、すぐさま「何やってんだ」とかつてない冷ややかな目をした赴夜に殺されるという未来像が瞬時に思い描かれた。
いや確かに、本当に。追尾に関しては絶対の自信を持つ身であるはずなのに、一体どうして―――
「おい、レナ行くぞ」
「て、おい坊! レナは戦闘用じゃあ」
「お前の目を誤魔化す方法何ぞ、一つだけしかいないだろうが」
見えぬようにでも潰すのでもなく、違うと誤魔化す。
そんな芸当が出来るモノを思い浮かべ―――庵夜はたった一つだけその存在に思い当たった。
「そんなもの、悪魔使いしか存在しない。そうなれば、同種はともかく天敵を連れて行かないという選択肢はない」
そう言い切った橘に、声をかけようとして、―――それが肯定だったのか否定だったのか、庵夜は二度と思い浮かべる事は出来なかった。なぜなら。
「………うわぁ」
思わず。心底呆れたような絶望したような嫌なものを見たような感心したような、様々な感情が綯い交ぜになった結果、非常に気の抜けた声が出た。
同じだ。同じすぎる。
かつて思い出す。
橘の母親が形振り構わず愛した死神を引きずり上げた時、椿が手段を問わず自分の傍まで愛した人間を引きずり下ろし時。
彼女らが見せた、絶対不動の鋼の意思を宿した、大いに燃え盛ったあの瞳を。
これはアレだ。運命のナントカを狩る時の目だ。
運命のナントカ―――運命の死神、運命の宿敵、運命の恋人、運命の弟子、などなど。徹底的にある方面で惚れ込んだ相手に対する、執着を三段飛ばしで盲執している対象をひっ捕らえる狩人の目。
その諸々で巻き起こった、血で血を洗い、血の雨を噴き散らす応酬の嵐。
一瞬で過去のアレコレが喚起される。
―――え、あれが再勃発する?
その可能性に核が怖気に震えそうになった瞬間。
「誰か、〝いる〟」
レナが呟いたその言葉に、場の雰囲気が豹変する。
ただし、それは殺伐としたものではない。
まるで来訪者を歓迎するような、穏和な(先ほどと比較して、という注釈は付くが)空気が室内を満たした。
まるで、友人が訪れるかのように。
まるで、恋人が尋ねるかのように。
まるで、取引先が来るかのように。
まるで、まるで。
「いつまでそうなさっているつもりですか?」
橘が、ドアに向かって、正確にはそのドアの向こうへと声を投げかける。
しばしの間。呼応するように、扉が内側へと開く。
「ようこそ、<橘事務所>へ。当事務所は当方で手に負えると判断した依頼をお受けし、それ以外は適切な業者に回すというシステムを取っておりますが―――いかがな御依頼でしょう」
穏和に、穏やかに、緩やかに。静かに波立つ事なく言葉が紡がれていく。その言葉遣い、声色、表情、仕草。どれをとっても『接客業には向いていない』と架谷評した素っ気なさはどこにも見当たらない。
「そうですね。まずはそこのソファーに座って、腰を落ち着けてから聞いていただきたいのですが」
「ええ、こちらへどうぞ」
殊更丁寧に受け答えするパーカ―姿の青年に、態度を崩すことなく、橘が接客する。
すい、とレナが奥の備え付けキッチンに消えた。その背を庵夜が追おうとし、
「手前はこっちだ」
「………やっぱり」
触角を伸ばすだけ伸ばしておいて、渋々ながらも大人しく橘に従った。
◇◇◇◇
橘事務所、そのビルの正面玄関。
「きゃっ!」
少女が驚いて仰け反った。見慣れないモノがいきなり現れた為である。その眼前には、漆黒の、影が凝り固まったような………、
「イヌ?」
どことなくシルエットが犬を連想させるその動物を見詰めて呟いた。この大都市のど真ん中、しかもビルから飛び出してくるようなイキモノとしてはまだ不自然ではないようにも思えるが、しかし。
「あ、ちょっと!」
保護しようかそもそも迂闊に触れていいのか分からず呆けていた隙を突くように、そのイキモノは外へと飛び出していった。慌てて追いかけるが、すぐに特徴的な姿は街並みに紛れて見つからない。人間以外の生き物など目立って仕方がない筈であるが、闇に溶けてしまったかのように、もうすでに影も形もなくなってしまっていた。
「何だったの?」
狐にでも摘まれたようである。そもそもアレが本当にイヌだったのかどうかも怪しい。いや、あんな風態の生き物がいるのかすらも怪しく思える。
しばらくそのまま突っ立っていたが、どうしようもないだろうと階段の手すりに手をかけた。
「………あ」
「あ、レナさん」
「………ん」
「今からお出かけ?」
物静かで大人しい金髪の美少女が階段を下りてくるところだった。鞄を斜め掛けにしており、どこかに出かけるのだろうと窺える。
尋ねた瞬間、踏み込み過ぎただろうかと懸念した。ゆっくりと、大きく左右に首を振られ、気遣いすぎかと安堵する。
この少女、まるでガラス製のビクトールのような容貌で、不用意に触れば壊れてしまうような儚い印象が強すぎるのだ。それも先ほどまで嫌でもアクの強い人物と一緒にいたため、その相乗効果でいつも以上に可憐に思えてしまう。
「………これから、オフィス街」
「お買い物にですか」
「ううん、お仕事」
見知らぬ人への警戒心が強いため、会話にならないかもしれない。彼女の兄に事前に言われ、そして今までも気後れしながらしか会話が成立していなかったレナが、珍しくどもることなく言い切った事に僅かながら目を見開いた。
そして、その内容にも。
「それじゃあ」
「あ、はい。頑張ってくださいね」
「………ん」
階段を駆け下りていく姿に、いっそ天使の羽根でも生えているのでは、と夢想する。だってそれぐらい可愛いのだ。
既に外は黄昏を追いやった薄暗闇に包まれている。
ああ、時間とは早いものだ―――もうあの赤は遠い。
儚いと、可憐と評した少女が夜の街へと向かっていくことに何の違和も覚えぬまま、少女は階段を上って行った。
そこで、ふと思う。
―――レナさんに、さっきのイヌの事聞いておけばよかったな。