八話:叶え屋商会(2)
眠っていた矢先にベッドから突き落とされた挙句、熊男と蛇と蛙の如く視線を合わせ続ける。なんの罰ゲームだろうと泣きたくなるような状況が5分足らず。しかしハンナには30分にも1時間にも感じられた。
まさしく肉食獣と小動物。
あれなんだかデジャビュ―――そんな空気は二人の来訪者によって徹底的に粉砕され磨り潰され爆破された。
「なんじゃ熊公もう帰ってきたんか」
「ああ? 文句あんのか白髪狐。お前の部下か、勝手にこの部屋使いやがったのは」
最初にやってきたのは軽快な(というより子供っぽい)男だった。狐と称された男は狐目で、銀髪と相まって『白髪狐』と渾名されているのだと思われた。
突っかかるというよりどうでもよさそうな雰囲気丸出しの狐の男に対し、熊男は彼と相対するだけで機嫌が急降下していくのがよくわかった。もともと上機嫌とは口が裂けても言えなかったが。
「ここは共同の仮眠室で手前の私室じゃねえよ野生熊。巣に戻る前に話があるから顔貸せ」
あ、なんかヤバい? と思い始めた矢先にこれである。それだけで熊男の纏う空気の重さが地に着く勢いで増量したのがよくわかってしまった。
次にやってきたのは眼帯の青年で、どこか病的な印象を受けた。それはその痩身であったり青白い肌出会ったり目の下に浮かぶ隈であったりしたわけなのだが、その口から飛び出す言葉は強烈を飛び越え猛毒のマシンガンである。扉の向こうで聞きなれた悲鳴がした気がするが、気のせいだろうか。
はんっ、と熊男が鼻で嘲笑う。どう見ても機嫌がマントルを突破している。
「はっ、随分と偉そうだなクソガキ。俺は疲れているんだ。さっさと御退場願おうかね?」
「こっちも忙しくてなあ。器物破損に情報操作に人的被害への対処。一体いくらかかったか分かるか? クソ狐、手前も〝また〟色々やってくれたそうじゃねえか。天引きどころの騒ぎじゃねえぞ脳無しども」
「なんじゃ細かい事に拘りおってお主ら。やるなら相手になるぞ?」
会話すればするほど険悪になっていく雰囲気に床に突っ伏したまま腰が抜けて決定的にい動けなくなる。どうしよう逃げ出せない。
何がどうしてこうなった。
恐怖の三者対面のゴングが鳴り火蓋が落とされ幕が上がり、燻り暗雲が垂れこめ芽吹き頭をもたげるのを、確かに聞いて見た気がした。
ああ、散ってる。火花がバチバチと音を鳴らして散っている。愚鈍な思考とは正反対に、ものすごい勢いで顔面蒼白になったハンナは三者を見上げていた。
あれ、わたしなんで此処にいるの? 出て行ってもいいですよね関係ないですもんね? そう思っても口にするには圧倒的に勇気が不足していた。
明らかに場違いである。どう考えても部外者である。
巻き込まれた。ならば早々に退避すればいい―――しかし、そうは問屋が卸さない。
先ほどより室温が下がった気がする。室内であるはずなのにブリザード級の風雪が吹き荒れている気がする。今すぐ部屋の外へ出たい。
けれども三者が放つ殺気(そう、怒気でも敵意でもなく)に当てられて体が思うように、というよりピクリとも動かない。起きたくとも起きれない、まるで金縛りに遭った時のようだ。薄ぼんやりと思った。今気絶したら巻き込まれて死ぬかも。
静寂と呼ぶにはざらついて殺伐とした静寂が過ぎる。
気絶すれば巻き込まれる。そう思ったが流石に無関係の人間を死なせないだろうと思い直す。多分、恐らく、きっと。
それならいっそ気絶すれば楽なのだろうか。そう思った途端、視界が靄掛かったかのようにぼやけだした。何度か経験した、チカチカと明滅してブラックアウトする気絶の兆候に似ている。
ああ、楽になれる。
そう思った時。
ばちり、と表現するべきか。眼帯をした青年と視線がぶつかった。
―――あ、死んだ。
理由も何もない。悲鳴が漏れる間もなくそう思った。瞬間、走馬灯が過る。
小さかった頃。お化けに追いかけられ、兄の喧嘩に巻き込まれ、兄の分の不運を吸ったような姉の患者に絡まれ、兄に懐いた幻獣に遊ばれ攫われながらも助けられ遊んでもらった日々。時々命がけだった。色々苦労を重ね重ねたカレッジでの記憶。最後まで仲よくなれなかった学友。助けたくて助けられなかったトモダチ。魔具によって救われたトモダチ。巻き込まれまくった正体不明の事件………。あれ碌な思い出が。
そこまで来て、ふっと意識が遠のいた。グッバイ現世、ハロー天国。
しかし。
「おい」
「ぐぎゃあっ?!」
「………お前女か?」
とっさに口をついた奇声に、青年は呆れたようだった(顔は見えないけど、絶対ようなではなく心底!)。少なくともハンナも『ぐぎゃあっ』などという悲鳴は聞いた事がないので沈痛な表情で沈黙する。あれこれ女以前の問題?
しかし、声を呑み込んだとはいえ、一瞬冷静になったことで再び、すぐさま悲鳴を上げたくなった。
当然だ。何の予告もなく、いきなり荷物同然に担がれるなどハンナの人生で初めての出来事だった。これが横抱き(世に言うお姫様だっこ)だったら悶死していた。あり得ないが、絶対あり得ないが。
かろうじで悲鳴を呑み込み、しかしショートした思考回路ではそれ一つが限界だったらしく凍りつく。処理しきれない現状に、思考も上滑りしたものから完全停止にシフトした。
そのまま、ぽーいと本当に荷物のようにドアの向こう側へと放り投げられた。
「ふぎゅ、」
「ぎゃ、あああ危な!」
見事に威津島の腕の中にダイブして来たのをかろうじで受け止める。いきなり過ぎて、そして予備動作無しでやられて心臓に悪い。結構危なかったりしたのだが、幸か不幸かそれを認識するだけの処理能力は今のハンナにはない。
「ちょっと矢岸副所長、危ないじゃないですか! ハンナちゃん女の子なんですよ!?」
「うっせえ犬っころ」
ひぃっ。反射的に噛みついた勢いは一瞬で鎮火した。
「いいか、俺は今からこいつらと話がある。この部屋に掛けてある紋呪発動したが最後、誰もこの部屋に入れんじゃねえぞ」
ここ数日で溜まりに溜まったストレスが引火して、いつ爆発するか分からない状態に、コクコクと壊れた機械のように激しく頷く。今反発すれば何されるか分かったものではない。ああ俺胃潰瘍で死んじゃうかも! 3トップと関われば碌な目に遭わないのは重々承知だが、こういった瞬間は特に思わされる。
「パール、この子を連れてさっさと事務処理済ませろ」
端的に指示を出し、部屋の扉を閉める。直後魔力が扉と壁に刻まれた魔導回路を流れ仕掛けられていた紋呪が発動、術者ないし術者以上の術師でなければ開ける事の出来ない檻が完成する。
有能な事に掛けては右に出る者のない腹黒な眼帯副所長と、単純な力勝負に掛けては左に出る者のない鬼畜な熊男副所長と、闇雲な突貫力と出鱈目な行動力で周囲をものともしない傍迷惑な暴君副所長が隔絶される。その事に少なからず、≪叶え屋商会≫職員は安堵の息を吐いたのだった。
ああ、上司に恵まれない。
◇◇◇◇
「ハンナちゃん大丈夫?」
「はい………」
力なく威津島に答える。
気がついた時は既に別室で横たわっていたハンナに気を使って、ハンナ本人でなければならない部分を除いてパールが受答えで記入しているのだが、それでも気絶した身としては尚重いらしい。
「ホント無理しちゃだめだよ。顔蒼い」
少し無理をしているのが顔に出ているらしく、威津島が心配した。
悪いなぁ、と同時に思うのは自分自身に対する情けなさだった。
気絶。そう気絶したのだ。原因はパニックと緊張による貧血。一気に血糖値が下がったために意識が飛んだらしいのだが、ハンナからすればいつの間にかで危機意識もへったくれもなかった。それに反比例するように威津島が目も当てられないほどうろたえているので逆に冷静になったのも理由の一つだが。
「あと少しで終わる。書き終えたら少し休んでいけ」
ああパールさん優しい。すみません最初は極悪人の人攫いと思ってました。
人攫いであることには違いないし、裏でなかなか悪い事もしているので極悪人という評価は正当なのだが、ここは割愛しておく。
「ここと、あとここ。それとこの紙の空欄。それで全部だ」
人ならざる手が記入場所をなぞっていくのを視線で追いかける。―――これくらいならすぐ書ける。
本格的に体調が拙くなる予感に後押しされ、ハンナは慌てて記入した。
「無理するなよ」
ぐりぐりと威津島が頭を撫でてきた為、最初の一文字は大いに歪む事となる。