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僕たちが家に戻るとナミカが昼食の支度をしていた。
裏口のガラス戸は台所に直結している。
その奥に居間がある。
僕たちが台所に入るとナミカが嬉しそうに言った。
「今日はシチュー作ったよ」
ホワイトシチューの匂いを嗅ぎながらこのナミカの笑顔は本物だろうかと考えた。
「あ~。いい匂い。ちょっと味見させて」
子供がおねだりするようにマキがナミカのそばによる。
「ちょっとだけだからね」
まるで母親のようにナミカが小皿にシチューを取り分けた。
暖かなシチューの優しい匂い。
二人の笑い声。
どこかで、ずっとこの瞬間が続けばいいのにと思う僕。
僕の奥底にある罪悪感がじわじわと心臓を締め付け、僕は一人居間に入った。
居間に入るとすぐに滅多にならない固定電話が鳴った。
電話の相手はマキの同僚だった。
携帯が繋がらない僕の家の唯一の通信手段である固定電話の番号をマキは念のために親しい同僚に教えたのだろう。
「支配人以外、私が仮病だって知っているの」
そう笑いながら、マキは受話器を置いた。
「ちょっと急ぎの仕事が入ったから、お昼を食べたら戻るわ。でも、またすぐに来るから安心してね」
曖昧な表情をする僕とは裏腹にナミカは本当に淋しそうな表情を浮かべた。
この表情は本物なのかやはり僕にはわからない。
「美味しいね。シチュー」
マキはスプーンをふうふうしながらナミカに言う。
その言葉にナミカはひどく大人じみた微笑みを浮かべる。
「お兄ちゃんはどうして風景画しか書かないの?人物画とかは?」
「だって、この森にはモデルがいないし」
「あ。だったら、今は2人もいるじゃん!」
急に子供じみたいたずらっぽい表情でナミカが自分とマキを交互に指差す。
「創作意欲が…」
僕は二人同時に睨まれた。
人を描いてしまうと、その人の一瞬しか残らない。
本当は笑っている顔も泣いている顔も怒っている顔も全てがその人なのに、絵を見る人にその人を全てを伝えられないのがひどくもどかしく感じるのだ。
見る人はそれをわかっている。
見る人はその一瞬にしか興味はない。
見る人は真実を知りたいわけではない。
でも、それでも僕はいやなんだ。
昼食を終え、マキの車の後姿をナミカがじっと見ていた。
車が去った後も森を見ていた。
ナミカがガラス戸の外の森を見ているのは昼よりも夜が多かった。
ぼんやりと真っ暗な森をガラス戸を通して見ていた。
ナミカがここにきて明日で一週間目。
もし自殺なら、家族は心配しているだろう。
そろそろ帰った方がいいのではないだろうか。
自殺なら…
いっそ死ねることができたなら、どれだけ楽になれただろうか…?
生き続ける意味を問われたら、僕はこう答えただろう。
死ぬのが怖いから、と。
僕は臆病者だ。
死ぬことも怖くて、生きていくのも辛かった。
死にたいという「重い」が強くなれば、同時に生きたいという「重い」が天秤のバランスを保とうと量を増す。
種を保つために脳に組み込まれた自衛プログラムなのか。
でも、今の僕は、どちらでもない。
生も死も動いていない。
「なぁ…。ドライブでもしようか?軽トラだけど…」
僕はナミカの後姿に聞いた。
ナミカは首を横に振る。
ここにきてナミカは外に出ようとしなかった。
僕の買ったセンスのかけらもない地味なトレーナーと地味なパンツと地味な生活。
「ここにはテレビもパソコンもない。つまらないだろう?」
またナミカは首を横に振って呟く。
「そのほうがいいよ」
そして、ようやく振り返って僕に笑った。
「本があるから退屈はしないよ」
取り立てて読書家でもない僕でもそこそこの本は持っていた。
ほとんどが5年以上前のベストセラーとか5年以上前の雑誌とかだけど。
「どうしてパソコンは持ってこなかったの?」
「最初から持ってなかったんだ」
「どうしてテレビは持ってこなかったの?」
「この家にアンテナがなかったからだよ」
「なら、どうして5年前のザテレビジョンは持ってきたの?」
どこから見つけたのか、レモンを持ったアイドルが表紙の雑誌を持ち上げ、笑顔に戻ったナミカが笑いながら聞いた。
「あれ?」
引っ越しするときに紛れたらしい。
笑った僕にナミカは口元に笑みをたたえたまま優しくきいた。
「淋しくなかった?」
僕はうろたえた。
「別に…」
「きっとね。それはマキさんがいたからだよ。マキさんはお兄ちゃんの生きる理由だから」
年下の得体の知れない少女は僕が心の中で否定してきた言葉を声に出した。
だから、僕も声にした。
「ナミカの…、生きる理由は…?」
「私の…?」
ナミカの笑顔は固まり視線は食器棚に向かう。
食器棚のガラス戸は外の光を反射してナミカの顔を映し出していた。
ナミカはジッとその中に映る自分を見ていた。
「私の生きる理由は、もう一人の自分…」
僕はその時気付いた。
ナミカは窓の外の森を見ていたのではなく、窓に映る自分を見ていた。
窓に映る自分の向こうにいるもう一人の自分を見ていた。
「もう一人の自分?」
「そう…」
「双子?」
コクリと頷いたナミカはひどく辛そうな顔をする。
「死んだの?」
言いにくいことを簡単に言葉にしてしまってから僕は後悔した。
「死んだし…。死んでないし…。でも、殺した…」
意味の繋がらないナミカの言葉の続きはなかった。
僕はこれ以上この会話を続ける勇気がなかった。
僕たちにはお互い触れられない傷があった。
お互い気づきながら触れないようにしていた。
外界との繋がりを避けるように暮らす僕。
そこに逃げ場を見つけた僕の「妹」。
本当の兄弟のようにひっそりと暮らせたなら…
ただそこは幸せとは程遠い不毛な空間かもしれない。