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手が届かなかった。
もう少しだったのに…
「どうしたの?朝っぱらからぼおっとして」
マキが僕の顔をのぞきこんだ。
「別に…。ところで職場にはなんて言って休んでいるんだ?」
「風邪」
「…早く治るといいな」
「甲斐次第ね。絶対土曜日には連れて行くからね」
今日は水曜日だったような気がする。たぶん。
僕の家にはカレンダーすらない。
マキはこうなることを想定して布団まで持ってきていたのだ。
狭い僕の家は、居間と台所と僕の寝室とアトリエにしている4畳半しかない。
夜になるとナミカが布団を居間に敷いて寝ていたが、昨日からその隣にマキが寝ることになった。
マキはナミカが作った朝食を居間のテーブルに並べている。
台所にテーブルはない。
居間のテーブルで僕は食事をしていた。
「ナミカちゃん。料理上手ね。19歳の割にしっかりしてるわ」
19歳?初耳だった。
「甲斐と同じように母子家庭に育ったみたいよ。だから、家事は一通りできるみたいね。
父親は死んだって聞かされて育ったらしいわ。
でも、父親が死んで遺産が少し入ってきて初めて自分に父親がいるって知ったらしいの。
それが甲斐のお父さんね。
甲斐の父親を調べて、同じくお兄さんがいるって知って、それで来たらしいわ。
でも、お母さんには旅行しているって内緒で来ている…って言っていたわよ」
マキがナミカから聞かされた身の上話は嘘だろう。
ナミカは森の中からびしょぬれでやってきたんだ。
僕に会うためにびしょぬれになる必要がない。
「マキ。僕が父の遺産でここに住んでいることを話した?」
「ごめん。なんとなく成り行きで」
なるほど。それで咄嗟に嘘話を作ったのか。
でも、僕はナミカがマキについた嘘を否定する気になれず、ただ、僕の前に並んだ綺麗なオムレツとオニオンスープを見て溜息をついただけだった。
その溜息につられるようにマキも溜息をついて静かに言った。
「昔、お母さんに言われたわ。溜息一つつくと一つ幸せが逃げるって」
「じゃあ、僕には幸せは残ってないよ。あの時から僕はずいぶん溜息をついちゃったからね」
「甲斐…」
マキが痛ましそうに僕に何かを言おうとした。
でも、それは、ドアの音に遮られた。
開いたドアからナミカが3つコーヒーカップが並んだトレイを抱え入ってきた。
昨日と同じように。
「あれ?先に食べててくれてもよかったのに」
ナミカがテーブルにコーヒーカップを並べる。
「いや。一緒に食べよう。僕たちの記念すべき朝に乾杯」
僕はそう言ってナミカが並べたコーヒーカップを手に取った。
マキとナミカが僕に倣ってコーヒーカップをかざし、微笑んだ。
「乾杯」