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高校3年生になった僕たちの夏は、始まることはなかった。
夏休みを前に美大の受験を控えた景子と就職が決まった僕はすれ違い始めた。
たまに景子の家に行くと、デッサン画が破り捨てられ散乱していることも少なくなかった。
「僕は景子の夢を応援しているよ」
そう言って彼女を励ました。
けれど、僕のどんな励ましの言葉も景子にとっては重荷のように思えた。
受験と恋愛の両立は難しいのかもしれない。
しばらく会わない方がいいかもしれない。
そう思い始めたところで、景子の両親から、『しばらく距離を取ってほしい』と言われ、僕は了承した。
景子の父は画家であり、母は服飾デザイナーだった。
二人の期待に僕の期待まで乗っけたら、景子がかわいそうに思えた。
僕は既にデザインの専門学校に進学が決まっていたマキといつも遊ぶようになった。
その時、僕は何も知らなかった。
『妊娠したの。だから、もう受験はやめて甲斐くんと結婚する』
夜遅くかかってきた携帯電話でそう告げられ、僕は動揺した。
景子のことは本当に好きだった。
結婚したかった。
でも、それは今ではなかった。
それに、妊娠という言葉が大きく僕にのしかかった。
「わかった…」
僕に言えたのは、それだけだった。
父がいなかった僕は母をつれ、彼女の両親に挨拶に行った。
母は玄関で景子の両親を見るなり、土下座した。
僕の母は何より母子家庭ということにコンプレックスを持っていた。
『母子家庭だから』
そう言われることに母は何より敏感に反応し、僕は人より厳しくしつけられた。
母は僕が生まれると夜の仕事は辞め、必死で生保の営業をしながら僕を育ててくれた。
経済的にも困ったことはなかった。
景子の父はそんな母を怒鳴り、何度となく『母子家庭』という言葉を口にした。
泣きながら景子は訴えた。
「どうして?どうして誰も喜んでくれないの?私たち何も悪いことしていない」
「景子。今はもっと大事なことがあるだろう?」
「もっと大事なこと?何?それは何?」
「それは…」
「お父さん。お母さん。結婚できないなら…、子供が産めないなら…、私、死ぬ」
そう言って、景子は靴もはかずに玄関を飛び出した。
僕たちは景子を追った。
景子の家のそばには大きな橋があり、川があった。
川には闇が流れていた。
電灯の光がチラチラと闇に合わせて流れていく。
橋の真ん中までくると景子は僕たちを振り返り、橋の手すりに上った。
「イヤーーーー」
景子の母親の半狂乱になり悲痛な叫び声が響きその場に座り込んだ。
「景子。落ち着きなさい」
景子の父は震える声で娘に嘆願した。
不安定な手すりの上に立ち上がった景子は僕を振り返った。
何も言葉の出ない僕に景子は何も言わず手すりの上から手を伸ばした。
僕はその手のひらに向かい、自分の手を伸ばした。
でも、届かなかった。