すきとおるし8
「おまえこそ、後悔するな」
ゆんが俯いたままで言った。
「後悔も気にもしなくていい。急なことだった。本名も顔も知らなかった。何も感じなくても仕方ない。だから、」
言葉を切ったタイミングで、もう一度やけに冷たい風が吹く。髪がふわりと浮き、汗でぬれた額や首筋を風が撫でて気持ちが良い。
「だからお互い後悔はやめて、一歩進もう」
ゆんはわたしに視線を移し、ゆっくりと立ち上がる。そしてこちらに向かって左手を差し出した。
「おまえは好きな男と会って、話して。惚気話をきんぎょやスーちゃんや俺にする。俺らはおまえをからかって、揚げ足をとって、笑い合う。そういう毎日に、戻ろう」
そんな毎日に戻る。戻りたい。あの頃は楽しかった。
でも、戻れはしない。いくらゆんたちと楽しく笑い合ったとしても、花織はもういない。ボイスチャットルームに花織が現れることは、もうないのだ。
「無理だよ」
「無理じゃない」
「だって花織、死んじゃったよ?」
差し出されたままの手を見つめながら言うと、その手はわたしの顔の横を通り、汗まみれの腕を掴んだ。そしてそれを引かれて立ち上がる。ずっとしゃがんでいたせいで足が痺れ、よろけてゆんの胸に激突した。途端に、目頭がじいんと熱くなった。
「花織は死んだけど、俺らは生きてる」
「痛い……」
「生きてるからな」
「鼻打った……」
「そうだな、俺の胸にぶつかった」
「痛いから涙出た……」
「そうだな」
ゆんの腕が背中に回った。わたしは汗で湿った彼のシャツにしがみつき、その胸に顔を埋める。とくんとくんと、確かな鼓動が聞こえた。
「俺もお前も存在してる。心臓も動いてるし、体温もある。ネットだけの存在じゃない。存在しているから、今こうしておまえを抱き締められる」
聞いた瞬間視界が歪み、大粒の涙をこぼしながら、わたしは泣いた。しゃくりあげたりえずいたりしながら、無様に泣いた。思えば、泣くのは三年ぶりだった。
「俺、何度も聞いたぞ。二年前から何度も。大丈夫かって。その度おまえは大丈夫だって言った。大丈夫じゃないくせに」
大丈夫じゃないなんて、言えなかった。夢と現実の区別がつかないなんて。日常に違和感があるなんて。本名も顔も知らなかった遠くの友人に、言えるわけがない。
でも、本名も顔も知っている近くの友人にも、話せる内容ではなかった。
どちらにも話せないからこうなった。どちらかに話すべきだった。どちらかを選ぶとしたら、それは絶対的にゆんたちだった。
話せば良かった。だって彼らは、インターネット上だけの存在じゃない。ここにはゆんしかいないけれど、きんぎょもスーちゃんも実在している。触れる。鼓動を、体温を感じることができる。
「ゆん……」
「うん」
「ゆん、ゆん……花織、死んじゃった」
「うん」
「わたしを好きだって言ったくれた人が、返事する前に死んじゃったよ」
「うん」
「なんでこんなことに……。わたしはただ五人で楽しく過ごしたかっただけなのに。それだけのことが、叶わないなんて……」
「うん」
「五人でいるのが駄目なら、せめて四人で、ここに来たかった、それで五人でしょう」
「うん」
「あんなに毎晩一緒にいたのに、もう年に一回集まることすらできないなんて、そんなのひどい」
「うん」
「わたし言ったよ、何ヶ月も前に。この日はどうって、伝えたよ。最初はみんな休み取るって言ってたのに、それが行けるか分かんないになって、結局誰も来なかった」
「俺が来ただろ」
「ゆん一人が来ても、ここにはゆんと花織とわたしだけじゃない」
「そうだな」
もうここ二年、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
足の踏み場すらないごみ屋敷のど真ん中で、たったひとつの、小さな小さな宝物を探し出そうとしている。
でもそこら中に物が溢れているから、どこから手を付けていいのか分からない。どうしてこんなことになってしまったのか、それすらも分からない。
ゆんの腕の中で一頻り無様に泣いたら、自分でも驚くほど身体が軽くなった。そのお陰で、ようやく感情が戻ってきた。ゆんの身体に、呼吸に、体温に触れ、ようやくこれが現実だと、確実に理解できた。
わたしたちは生きている。花織は死んだ。
「花織がいないと、寂しい……」
信じられないくらいの鼻声で、呟くように言う。
「花織と、もっと一緒にいたかった」
「俺もだよ」
「告白の返事をしなかったこと、後悔してる」
「うん」
「泣きたいくらい、悲しい」
「もう泣いてるだろ」
言いながらゆんは、わたしの背中をたたく。さっきわたしがやったのと同じようにぽんぽんと。あやすように。なだめるように。
「おまえの背中、びしょ濡れだぞ」
「うるさい、ノンデリカシー男。あんたの胸も同じだよ」
「ぶつかってきたのはおまえ」
「抱き締めたのはあんた」
「あやしてやってんだ、感謝しろ」
「頼んでないし、多分シャツにファンデーションついた」
「勘弁してくれ……」
「ふふ」
「はっ、馬鹿だなあ」
「お互いにね」
ゆんと笑い合ったのは、二年ぶりだった。
ようやくあの言葉を口にする気になって、汗だくの身体を離す。そして墓石に向き直って、息を吸い込んだ。
「ごめんね花織。好きな相手がいる。花織とは付き合えない」
二年越しの返事だった。
結局はわたしの自己満足だ。花織が聞いているわけでもない。もし答えがイエスだったとしても、付き合えるわけでもない。ただ後悔を消し去るためだけの、わたしの自己満足。
それでも気分はここ数年で一番すっきりしていた。
またやけに冷たい風が吹いたけれど、墓地にいる間、もうその風が吹くことはなかった。




