#01 あなたは父親失格です
「つまらない。それが、オマエと一年過ごして得たアタシの結論だ」
深紅の背広を着た女は、錦糸のような金髪をかきあげると、紫煙とともに恨み言を吐き捨てた。タバコの煙を顔に受けながら私は尋ねる。
「つまり、何が言いたい?」
「コレにサインしろ」そう言って彼女が机上に叩きつけたのは一枚の書類。用紙の左上には離婚届と記載されている。なるほど。そういうことか。
「私がつまらないから、離婚したいのか?」
「それも理由の一つだよ」
他にも理由があるような口ぶりだった。
……おおよそ見当はついてるけどな。
「他に男がいるんだろう?」
「ご名答」
「やっぱりな」
そんなことだろうと思ったよ。
しかし、不思議なものだ。離婚宣告に次いで不倫の事実までも突き付けられたというのに、怒りや悲しみといった感情が湧かないのはなぜだろう。この女への愛情はその程度のものだったのだろうか。
「よくもそんな仏頂面でいられるな? 少しは動揺するものかと期待してたんだが……」彼女は肩をすくめた。
「それはたぶんお前に思い入れがないからだろう」
私は鼻で笑い、
「お前は私にとって『その程度の女』だったということさ」
吐き捨てるように言ってやった。
「どこへなりとも行けばいい」
「機械のような人間だな、オマエというやつは」
そんな挑発的な態度が気に食わなかったのか、わざと聞こえるように彼女は舌を打つ。そして後ろを振り返ると、背後にたたずむ少女に目を向けた。
「おい」
「……っ」
少女は怯えているようだった。
その子の名前は冬花。
血の繋がっていない私の娘。
私に離婚届を突きつけた女の連れ子である。
「行くぞ、冬花。もうここに用はない」
女は娘の腕を引いた。その場に踏みとどまろうとする冬花。私は二人の様子を黙って見ているだけ。
「んん~……!」
「なんだオマエ、アタシの言うことが聞けないのか。子供の分際で親に逆らうのか」
「ん〜……!」
「強情な奴め!」
女は娘を掴む手によりいっそう力を加える。少女は苦悶の表情を浮かべ、ほどなくして音を上げた。引きずられるように母親に連れていかれる。
「ん……」
そのとき、少女の潤んだ瞳が私をとらえた。
玄関の扉が閉まるその瞬間まで、その双眸は私を捉えて離さなかった。
私は眺めることしかできなかった。
自分が今なにをすべきか分からなかったから。
自宅の外には一台の車が停まっていた。白のミニバンだ。運転席には人当たりの良さそうな風貌の男が座っている。あの優男が不倫相手なのだろうか。
「……べつにどうでもいいか、そんなこと」
▽▼
「これに署名をお願いします」
着物がよく似合う和風美人な女は、懐から一枚の紙を取り出す。花をいけるような控えめな動作で差しだしたのは──離婚届だった。望月信乃は、若干の申し訳なさを、気品に満ちた口調に込めながら話した。
「実はその、今までお伝えし忘れていたのですが、私には許嫁がおりまして……」
それは、どうせ他に男でもいるんだろうな、という私の予想を遥かに上回る衝撃発言だった。秘密の多い女だとは思っていたが、まさかこんな爆弾を抱えているとは想定の範囲外だった。
そもそも許嫁がいながらよく子供なんて作ったな。
「許嫁がいながら私と結婚したのか?」
言い淀みながら信乃が肯定する。
「ええ、そういうことになります」
「この際だ。その理由を洗いざらい打ち明けてくれ」
「許嫁との結婚を、当時の私は望んでおりませんでした。結婚するなら自分の決めた相手としたい……。そう考えていたからです。そして、私は貴方を選びました。収入があり、聡明で、容姿にも恵まれている。そんな貴方となら、きっと良い家庭を築けていける。その確信がありました」
「で、このザマか……。どこが不満だった?」
「貴方は人格が破綻しています」
人格が破綻しているときたか。
温厚な彼女にここまで言わせるとは自分の態度にはかなり問題があったようだ。それはそれとして、このまま言われっぱなしなのも癪なので反撃に出る。
「きみってやつは、まるで玩具を買ってもらえなくて駄々をこねる子供みたい情緒をしているな。自分の思い通りにならないことに腹を立てて、相手の人格を否定をするあたりが幼稚すぎる。小学生と接している気分だよ」
信乃はきゅっと目を細め、慎ましく怒りをあらわにする。
「本当に呆れた人。おかげで名残惜しさも失せました。もう二度と貴方と関わる気はありません。それでは、さようなら」
「……」
「春乃、行きますよ」
「えっ?」
自らの隣に座る少女に信乃が目をやる。
突然のことに少女は戸惑った。
「オ、オジサンっ──」
何か言いたげな少女を邪魔するように、信乃がまた喋りはじめた。
「私、本当に、幸せになれると思ってたんです。でも、勘違いだったみたいですね」
目元に涙をうかべながらも、彼女の瞳の奥にはたしかな憎悪が宿っている。
「最後にもう一つだけ。慎司さん……《《貴方は今までに一度でも、誰かを好きになったことがありますか?》》」
呪いのような言葉を最後に、信乃は娘を連れて姿を消した。あのとき、少女がどんなメッセージを告げようとしたのか私には見当もつかない。だからもし再会するようなことがあったら訊いてみたいと思った。
もう二度と会うことはないのだろうけど。
▽▼
「パパ……」
母親に手を引かれた少女は、潤んだ瞳で私を見つめる。
少女の母親である日高美樹は、娘に強く言い聞かせる。
「いい、夏美? この人はもうあなたのパパじゃないの。新しいパパなら今、外で待ってるわ」
開けっ放しになった玄関の扉から黒塗りの高級車が停車しているのが見えた。運転席の男がこちらに手を振っている。日に焼けた肌と純金の腕時計がどこか胡散臭い。どうやら彼が新しい父親のようだ。
「……でもっ!」
勇気を振り絞って、少女がささいな抵抗を試みるも、美樹はまったく聞く耳を持たない。自分の方に顔を向けさせると、落ちついた口調で娘を諭しはじめた。口元に微笑をたたえ、しかしその目は一切の反論を許さない。
「ええ、分かってる。あなたは優しい子だから、この人のことを可哀想に思ってるのよね? でも安心しなさい。この人はなーんとも思ってないわ。どうしても気になるなら、ためしに訊いてみなさい?」
少女はおずおずと私に近づき、彼の服の袖を握りしめた。
「パ、パパはわたしのこと、どう思ってるの?」
袖を握る手にぎゅっと力がこもる。
少女はうつむきながら答えを待つ。
「パパ?」
「私は……」
何も言えなかった。
どんな言葉をかけるべきか分からなかった。
ほらやっぱりね、と美樹がため息をつく。
「これで愛想も尽きたでしょ?」
「そんなっ……」
「行くわよ夏美。外で新しいパパが待ってるわ」
「ねぇ、何か言ってよ……パパっ……!」
少女の声が遠ざかっていく。次第に胸の鼓動が早まっていくのを感じる。それが一体どんな感情の発露によるものかは分からない。
気づけば二人は、私の前から姿を消していた。
しばらく連続投稿していきます。
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