八上先生と恋愛
一週間は過ぎてしまうと案外早いもので、また私は奇妙な時間を過ごす。
「いらっしゃい」
「……どうも」
「コーヒー入れるから、座ってて」
「ありがとうございます」
やはり心地良いコーヒーの香りと、桁違いに美味しいコーヒーと、死に急ぐかのように角砂糖を八個入れる八上先生。
先週は心がざわざわしたのに、今日はなんだか落ち着いていて、こんな場所に慣れたらいけないのに。
人間の適応能力は恐ろしい。
二人でコーヒーを飲み出して、2分程経った頃だろうか。
「恋愛は恋だと思う?愛だと思う?」
この人はいつも唐突だ。
「……………現代文から倫理に担当科目変わったんですか?」
「小説もある種の倫理だからね。で、どう思う?」
「どう思うと言われても……………まぁ恋はれんと読むけど、愛はあいのままだから、強いて言うなら愛なんですかね」
なんとか捻り出した答えを口にすると。
「……なるほど。その発想はなかった」
感心したように、八上先生は言った。
「八上先生は、どっちだと思うんです?」
これは素直に気になった。
八上先生なら、予想もつかないことを言いそうだから。
「そんなの分からないよ」
「は??」
ある意味、予想もつかなかった。
「そんなこと、恋愛って言葉を作った人間にしかわからないだろう」
「じゃあ、なんで聞いたんです?」
「わからなくても、考えることが大切だからね」
「じゃあ、考えてください」
私だって、一生懸命考えたんだ。
八上先生も考えないと、不公平だろう。
「うーん………………恋かな」
「どうしてです?」
「なんとなく」
「歯、食いしばっててください」
そう言って、私が拳を振り上げると
「待って待って。ちゃんと考えるから」
本当に腹立たしい。今すぐ帰ってやろうか。
でも八上先生は、腕を組んで考え始めたから、もう少し我慢しよう。
約五分後
「………………やっぱり恋かな。全員とは言わないけれど、恋人は恋をして夫婦は愛し合うものだと思うんだ。
恋人に恋愛という言葉はよく使うけど、夫婦にはあまり使わない。だから恋愛は恋かな」
「……五分も考えた割には普通ですね」
「俺は凡人だからね」
凡人じゃなくて変人だろう。と思ったが、言い返す気力もない。
この人といると、すごく疲れる。
でもそこまで嫌じゃない。
私は案外、変人といるのが好きなのかもしれない。
「ちなみに広辞苑第6版では、恋愛は『男女が互いに相手をこいしたうこと。また、その感情。こい』と書かれているらしい」
「なら恋なんですかね」
「三省堂国語辞典 第7版では、恋をして、愛を感じるようになることらしい」
「……恋と愛二つ揃って、恋愛なんですかね」
そう結論づけてしまうと、今までの会話が不毛な気がしてなんだか嫌だけれど。
「そうだとすると今までの会話が、不毛になってしまうね」
本当にこの人は、人の心を読んでるんじゃないか。
「……そうですね」
「新明解国語辞典は、第5版で『特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、できるなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと』らしい」
「……叶えられる方が稀なんですね」
なら私は、一生恋愛しなくてもいいかもしれない。
「そういう物だろう」
「そうですか」
「第6・7版では、『特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔いないと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと』だそうだ」
「……思い込みなんですね」
「他の全てを犠牲にしても悔いがないなんて、思い込みじゃない方がよっぽど恐ろしいと思うけど」
「たしかにそうかもしれないですけど……」
「けど?」
口から出そうになった言葉は、恋愛脳の人間が言いそうなことで
「…………なんでもないです」
と子どもらしく誤魔化した。
「そうか」
そんな私の気持ちを見透かすように笑う、八上先生はやっぱり苦手だ。
「二人だけの世界なんてあるんですかね?」
「アダムとイブにはあったのかもね」
八上先生の答えが意外で、しばらく声が出なかった。
「佐々木?」
「なんとなく先生は、神話を信じていないと思っていたので驚いて」
どちらかというと、人類の進化を信じてそうだ。
「信じている訳でもないけどね」
「え……」
「アダムとイブがいたと言われたらいたかもしれないと思うし、猿から人間になったと言われたらなったかもなと思う。
どっちでもいいよ。それで俺らの生活が変わる訳でもないしね」
「……たしかに。そうかもしれないですね」
そんな考えもあるのかと少し驚いた。
それでも私は、アダムとイブから始まっていて欲しいなとなんとなく思う。
絶対にそうだ。なんて思う訳ではないけれど。
こんなことを言ったら、八上先生は笑うだろうか。
多分笑わない。いっそ笑ってくれたらいいのに。
「この話をするためにわざわざ辞書で調べたんですか?」
「いや、Wikipediaだ」
「…………教師がネット情報を生徒に教えていいんですか?」
「恋愛の定義なんて、間違っていても大して問題ないよ」
「それはそうですけど…………」
「辞書で一つのことを調べる時間があれば、ネットで五つほど調べられるだろう。大事なのは質より量だよ」
本当にこの人は、教師らしくないことばかり言う。
いかにも教師という人よりはましかもしれないけれど、限度があるだろう。
「ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、性的結合は個人のためではなく、種のためのものであり、結婚は愛のためにではなく、便宜のためになされるものにほかならないと言っている」
「…………それもWikipediaですか?」
「もちろん。俺の知識はほとんどWikipediaだよ」
教師がそれでいいのかと言いたくなったが、いたちごっこになるのは目に見えているから、なにも言わないでおこう。
「その人が言っていること、たしかにそうなんでしょうけど、それを言ったら終わりですよね」
「まあ、確かに。でも結局そういうことなのかもね」
「…………そう結論づけてしまうと、さっきまでの会話が不毛な気がしてなんだか嫌ですね」
さっきも同じことを思った気がする。
「……そうだね。でも人と何かについて深く考えると、結局全て不毛に終わるものかもしれない」
「…………それって意味ありますか?」
「あるよ。話す事に意味があるんだ」
さっきも同じようなことを言っていた気がする。
「そういう物ですか」
「そういうものだよ」
私は正直、明確な答えが出ないなら、話す必要はないと思う。
それを言っても、うまく丸め込まれそうだから言わないけれど。
「…………そろそろ時間なので帰ります」
「ああ。また来週」
「また来週」
来週はどんな話をするのだろうと、なんとなく考えてしまう自分がいた。
どれだけ考えても、正解なんて出ないだろう。
相手は八上先生だから。
まぁいい。きっと一週間なんて過ぎてしまえばあっという間だろうし。