目的
岩から降りた俺は、出来るだけ静かに、何にも気付かれない様に注意して降りきると、後は脇目も振らず、全力で走り抜けた。
・・・三日ほど、同じ事を繰り返した。
走っては休み、後ろを振り返り、前方を確認し、何も居なければ、湧水を探し、日が沈む前に登って休める場所に向かう。日が昇れば、また走り出す。
途中、何度か苔人間の姿を見たが、思っていた通り、そこまでの速度は奴らに無かったようで、どうにか無事にやり過ごす事が出来た。
試しに弓矢で一度だけ狙ってみた物の痛覚が無いのか、奴らに何の反応も無く、逃げる一択で走り続けた。
不幸中の幸いという奴だろうか、必死に逃げ続けた結果、大きな川を見つける事が出来た。
走り続けていたせいか周りの様子が変わっていた事に気付かず、川の岸辺に辿り着き、ようやく景色が変わっている事を認識出来た。
川の岸辺より少し前程から、樹海の木々は途切れており、苔や蔓が生え広がっていた地面はようやく土が顔を出し、俺を追っていたであろう苔人間共の姿も見えなくなっていた。
周囲の安全を確認した俺は、此処でようやく腰を下ろし休息らしい休息を取る事にした。
袋から、木炭を取り出し、樹海の端に落ちていた枯れ木を拾い集め、焚火を準備しながら、今の状況を冷静に見つめ直していた。
取り敢えず必要な事として、袋に詰めていた食料も残り僅かになっていた事もあり、どうにかして、この先を生き延びる為の食料を確保しようと考えた。
そうと決まれば、目の前の川を確かめるのが最優先だと思い、川を覗き込んだ。
「凄い・・・何だこれ・・・」
そこにあった川は俺の知っている川では無かった。
余りに透明で美しく、そこに水が流れている事さえ、疑ってしまう程だった。
川の底迄が、まるで直ぐそこに在るようで、その美しさに川に手を入れるのを躊躇した。
すると川底に何かが動いているのが見えた。
それほど大きくなく、何やら見慣れた生き物・・・。
「カニだ!」
思わず声を上げてしまったが、それも仕方ないといもの。
どれだけ見続けても、可笑しな所は無く、化け物じみた様子もない。
川面から見たところ、大きさは大体15㎝程度に見えた。
ようやくまともな物が食える。
・・・カニの味が脳裏に鮮明に浮かび、一気に手を川に突っ込んでしまいそうになったが、此処で逃げられては元も子もないと、出来るだけ静かに川の中に手を伸ばし、川下から気付かれぬ様に、そっと手を伸ばした。
「よっしゃ!」
たかがカニを一匹捕まえただけの事だったが俺には、飛び跳ねたくなるほど嬉しい出来事だった。
沢ガニにしては、大きいかとも思ったが、見た目が普通なら問題は無いだろと前向きに考え、カニを逃げない様に袋に入れ、川岸近くで太めの木を拾い、出来るだけ丁寧に木の中身をくり抜き、簡単な筒の様にしてから(燃えるかも知れないなとは思ったが)急いで川から水を汲み、火に掛けると、その中にカニを放り込んだ。
茹で上がったカニは赤く、正に昔から見慣れた姿である。
勢い良く頬張ったせいか口の周りを軽く切ったが
「美味い!なんだよ!滅茶苦茶美味い!」
興奮していたのか、カニのせいで切った痛みも気にならなかった。
落ち着いて確かめるまでは・・・。
カニを堪能し、ふと自分の口の周りを触った時に、その違和感に気付いた。
「あれ?確かに切った気が・・・」
口の周り、何処を触っても怪我らしい物は無く、不思議に思い、川面に自分の顔が映るか確かめて見た。
余りに透明度が高く見ずらかったが、朧げに映った髭がぼさぼさに生えた自分の顔に苦笑した。
「こんなに髭が生えてて気づくわけないよな」
取り敢えずの気持ち悪さを払拭しようと、手探りで髭を鎌で剃り、ついでに伸び放題だった髪も適当に切り上げた。
「誰かに見られるもんでもないしな」
そういって自分の適当さを納得させてから、もう一度川面で自分の顔を確かめて見た。
「何か・・・変だよな」
カニを食べた時も、髭を剃っていた時も、なんとなくの痛みは在った。
小さな傷くらいは仕方ないと思っていたのに、自分の顔を見てみると、そこには傷が見当たらない。
はっきりと見えないせいかとも考えたが、触ってみてもそこに傷らしきものは無かった。
何度も見て、何度も触って確かめた。
いくら切れ味が鋭いとはいえ、鎌で剃った顔に一切の傷が無いってどういう事だ?
ハッと思い出し、俺は自分の身体を確かめて見た。
(やっぱり、何処にも傷が無い)
樹海の中をあれだけ走って来たのに、何処にも傷らしきものが無いってどういう事なんだ?
普通は、僅かな切り傷やかすり傷くらいは、在るはずだ。
確かにこの川岸に辿り着くまでは興奮して気付かなかったのかも知れない。
でも、身体に当たる枝や、葉っぱなんかの痛みは、しっかりと覚えている。
「どうなってるんだよ。俺の身体・・・」
そうだよ。俺は確かに癌の疑いが在るとされて居た筈なんだよ。
腹や腰、背中に至るまで痛みに襲われていた・・・あの日、意識を失ってしまうまでは。
それが、こうして目覚めると、痛みは無い。それに、薄っすらと見た記憶の中で、俺の身体が再生している様な事を話している奴らがいた。
あれは夢じゃなかったのか?
どうすれば、確かめられる?
答えは簡単だ。俺自身の身体を切り付ければ良い。
何も、大きな傷を作る必要は無い。
小さい切り傷を鎌で作れば良いだけだ。
若干の恐怖は在ったが、大したことは無いだろうと覚悟を決め、鎌を左腕に充てて軽く切ってみた。
結果は思った通りだった・・・。
「マジか・・・」
思わず呟いてしまったが、切ったばかりの傷がみるみる塞がり、五分もしない内に、ライター程度の大きさの傷口が跡形無く綺麗さっぱり無くなった。
という事は、俺は傷や怪我、内臓なんかも勝手に治るという事なのか?
だから、癌の痛みも無いという事なのか?
傷が治るという事の喜びよりも、得体の知れない自分の身体に、なんとも言えない恐怖と不安を覚えた。
(俺は死なない体になったのか?)
だが、腹も減れば、喉も渇く。身体は栄養を欲し続けている。
一体、どうなったんだ?
何か分かる方法は無いかと頭の中をフル回転させた。
当然、医師のような人間を探すのが一番だと浮かんだが、この様子では、安易に見つけられるとは思えない。
ならば、何かしら情報が得られる場所は何処かに無いのか?情報の痕跡さえ在れば・・・。
「そうだ!紙だ!」
古代エジプトではパピルスと云う、木の皮から作り出された物を紙の代わりに用いてたとされている。
その後、ギリシャ、ローマ時代に羊皮紙に、その役割は取って代わられた。
それらの話しは考古学遺跡から発見された遺物で証明されていたはずだ。
紙は、数千年前の物で在ろうが、土に埋もれていない限り、残っている可能性が在る。
勿論これだけ何も人工的な物が無い世界なら、全て燃え尽きたか、消え去ってしまっていてもおかしくは無い。
だが、此処が且つての日本なら幾つもの巨大な図書館が在ったはずだ。
図書館には、膨大な書籍をしまっておく為の地下室が存在していると聞いた事が在る。
それに、もし図書館に何かしらの情報が残っている状態なら、俺の身体に付いては分からなくても、この世界がどうなったかは分かるかも知れない。
「探すか・・・図書館」
ようやくこの世界での俺の目的らしい目的をはっきりさせる事が出来た。
「そうなると、やっぱり食料がいるよな」
目的は決まったが、どれだけの旅程になるか分からない。
こうして俺は、改めて目の前の川と川辺で食料となる物を探し直す事にした。
少しづつ世界が広がって行きます。
お楽しみ下さい。