そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)4.2 < chapter.12 >
神の光に洗われて、夜空はどこまでも深く、黒々と澄み渡る。
コバルトブルーの静謐な天蓋では、数多の星々がとりどりの光で妍を競う。
そこにはもう、人類の脅威となる物は何一つ存在しない。タケミカヅチの最期の力で、衛星軌道から内側の一切合切が焼き祓われ、清められてしまったからだ。大気を濁らせていた微粒子も、土に染み込んでいた汚染物質も、水を澱ませていた汚泥もゴミも、なにもかも。もうこの世界には、有史以来長年にわたって蓄積された負の遺産、『環境汚染』は残されていないのだ。
けれども代わりに、世界は『最後の神』を失った。
神のいないこの世界に、奇跡は二度と起こらない。荒れる海から生還を果たす者も、巨大災害の中でただひとり生き残る人間も、末期的な病状から回復を遂げる者もいなくなる。
すべての確率が均一にならされた、どこまでも平坦な事象の連続。
それがこの世界の、確約された未来である。
人類はタケミカヅチが残していった恵みを少しずつ消費しながら、自らの力で文明を存続させていかねばならない。それがどれだけ困難なことであるか、神の存在を知らずに生きる、大多数の人間たちは気付かない。小さな幸運や思いがけない巡り合わせ、運命的な出会いがなければ、人間の一生は恐ろしいほどに単調で退屈で、なんの代わり映えもない、無限にループする『同じ日』の集合体でしかないのだ。そしてそれを回避していたのは、いつだって『神』のもたらす、無限の奇跡と愛だった。
天才的なひらめきや革新的な方法論が、この世の中から完全になくなることは無いだろう。だが、その良案が実現に至る確率はぐっと下がる。たとえ一人の天才が現れても、その人物をサポートできる家族や友人、同僚と巡り会う確率は、『神』によって操作されていたのだから。
あの戦いから一カ月。『神』の力を目の当たりにした少女たちは、その現実を痛いほどに実感していた。彼女らは遅まきながら、『ごく普通の少女』としての生活を手に入れていた。家族と生活し、学校に通い、放課後は部活動に勤しみ、休日はどこかに出かけたり――。
そんな平凡な生活の随所に、これまでとは異なる、奇妙な感覚がある。
楽しいハプニングが一つも起こらない。
可愛い動物が窓辺に遊びに来てくれることも、思わぬ場所で綺麗な花を見つけることも、トーストの焦げが偶然ハート形になることも――これまでは当然だと思っていた些細な出来事が、なにひとつ起こらないのだ。
好奇心と冒険心に満ち溢れた十三歳の少女たちには、これは非常につらいことだった。何の面白みもなく、退屈で、単調で、刺激の『し』の字もチラつかず――。
あまりに深刻なこの状況を打開するべく、イサナたち玄武隊メンバーは、五人で話し合って、あることを決めた。
「勅使河原総司令、お願いします! 私たちを、鹿島神宮に連れて行ってください!」
「タケミカヅチは、完全にくたばったワケじゃないと思うんだ!」
「私、まだタケミカヅチ様と繋がっているような感覚があるんだよ! 魔法も普通に使えるし!」
「お願いしますなのデース!」
「お願いです、総司令!」
靖国神社の社務所兼指令室で、勅使河原絹江に懇願する少女たち。絹江のほうも、困った様子を見せつつも、何か心当たりがありそうな顔つきをしている。
「総司令!」
「お願いだ!」
「連れてって!」
「鹿嶋市行きの電車とバスはないのデース!」
「車が無いと行けません!」
労働人口の激減により、地方都市の多くはゴーストタウンになっている。茨城県でまともな都市機能が残されているのは、研究都市として機能しているつくば市のみ。その他の市は大半が放棄されているのだが、後遺症によって感情を失い、同時に攻撃性が高まった一部の男性が『野良人間』と化している危険地帯もある。
鹿嶋市は霞ケ浦の向こう側、太平洋に面した土地である。絹江が知る限り最も早い段階で放棄され、全裸の野良人間と野生動物が跳梁跋扈する魔境と化しているはずだが――。
「ひと月前のあの光について、こちらでも何度か調査隊を送っています。陸路では移動できないので、利根川からの接近を試みましたが……」
「が?」
「長らく放置されていたため、川底に堆積した砂に葦が茂り、水路として使用できない状態になっていました。調査船は鹿嶋市に辿り着けていません」
「海からは!?」
「下津海水浴場に接近した段階で、野生化した男性たちからの激しい威嚇を受けたため、上陸を断念しています」
「く……野生のオジサンがいるのか……!」
「イノシシなら撃っちゃえるのに!」
「あんなんでも、一応人間だからな……」
「殺しちゃ駄目なのデース」
「人道的にアウトだよね」
「ですが、海上から一昼夜観察した結果、原因不明の発光現象を確認しました」
「本当ですか!?」
「ええ。鹿島神宮には、確かに何かがあるようですね」
「それならやはり!」
「ユズカが行けば……!」
「うん! きっと!」
「復活できるのデース!」
「司令! 他に方法は無いんですか!?」
パアッと笑顔になる少女らに、絹江は困り顔のまま尋ねる。
「強行突破しかありません。とても難しいと思いますが……」
「やります!」
即答するイサナ。他四人も、大きく頷いている。
「分かりました。では、計画を練りましょう。ですが、その前に……」
そう言って、絹江は指令室の扉にそっと歩み寄る。そして勢いよく扉を開けると――。
「あたっ!?」
「うわあ!?」
「キャッ……!?」
扉に顔を近づけて盗み聞きしていたのだろう。朱雀隊、青龍隊、鳳凰隊のリーダーたちが、もつれあうように転がり込んできた。
「みんな!?」
「何してんだお前ら!?」
「だ、だだ、大丈夫デス!? 怪我してないデスか!?」
「あたたた……。あー、もう。バレてたのー?」
「こっそり着いてきたつもりだったんだけど……」
「さすがは勅使河原総司令ですわ……」
「なんですか。隊長たちが揃いも揃って盗み聞きだなんて、はしたない」
「だって、イサナたちが深刻そうな顔してるから……」
「大丈夫かなー、って、心配で……」
「わたくしたちにも、お手伝いできることが無いかと……」
しゅんと肩をすくめる三人に、絹江はため息交じりに問う。
「話を聞いていたなら、前置きは要りませんね? 鹿島神宮解放作戦に、貴女達の部隊も参加しますか?」
三人はパッと顔を輝かせ、こぶしを握り締めて返答した。
「もちろん!」
「やらせてください!」
「共に参りますわ。だって……」
鳳凰隊のリーダー、大鳥瑞穂は、悪戯っ子のような笑みで言う。
「わたくしたち、『奇跡』を目撃してしまいましたもの」
視線の先にいるのはイサナである。
イサナは力強く頷き、前髪をかきあげる。失われていた右目は、玄武の力によって創り直された。髪をかきあげる右腕も義手ではない。
ユズカの両足も、アカネの左腕も、ヒスイの指も、シオンの手も――全員、『生身の身体』を取り戻している。移植でも再生医療でもない、ほんの数秒での完全回復。これを奇跡と呼ばずして、他の何を奇跡と言えるだろう。
あの夜の出来事を思い出し、少女たちばかりでなく、絹江も頬を上気させている。
たった一夜で世界を変えた、異世界の住人達。
彼らのおかげで、日本への攻撃は止まった。
日本以外の全世界が、軍用、通信用、観測用の区別なく、これまでに打ち上げた人工衛星のすべてを失ったのだ。今はどこの国にも、もう一度打ち上げを行うだけのリソースは残されていない。
それでも日本を攻撃しようと思えば、やれないことは無いだろう。GPSや衛星通信に頼ることなく日本近海にやってきて、艦船や航空機から、目視でミサイルを発射することは可能なのだ。そもそも狂信的な思想に端を発した『ニセ人間駆除作戦』であるため、それをするだけのメリットが無くとも、常人には理解不能な『正義』を掲げて突撃してくる可能性はある。しかし、それでも当面は、こちらにかまけている余裕はないはずだ。なぜならタケミカヅチは、あのとき、あの金色の光で、海底に敷設された通信ケーブルも徹底的に破壊してしまったのだから。
日本国内を結ぶケーブルは残されている。それらは何の問題もなく機能していることが確認できた。だが、日本と海外を繋ぐケーブルはすべて切断されていた。アメリカにも台湾にもフィリピンにも中国にも、何の連絡も繋がらない。まさかという思いで偵察衛星からの映像を確認すれば、そこに映っていたのは、ドーバー海峡や地中海でせわしなく動き回るケーブル敷設船だった。通信に何らかのトラブルが発生し、新しいケーブルに交換しようとしていることは明らかだった。
幸か不幸か、こちらも衛星の打ち上げ同様、どこの国にも技術者がいない。ほとんどの国で、光ケーブルの敷設作業を行っていたのは男性だったのだ。それらの技術は継承されることなく、ある日突然失われた。設計資料と製造工場、敷設作業船が残されていても、正しく、無駄なく作業を進めることは不可能だろう。
失われた通信網を回復するのが先か、緊密な連携が取れぬまま関係が瓦解するのが先か。狂信と集団ヒステリーに支配された国連加盟国は、破滅的な未来へと向かって突き進んでいた。
けっして恒久的とは言えない、一時的な休戦。けれども絹江と少女たちには、それで十分だった。彼女らは、まるで世間話のような口調で話し合う。
「タケミカヅチ様が復活なさったら、記念パーティーでもしましょうか」
「うん! やろうよ! お菓子いっぱい用意してさ!」
「お寿司も作ろう? 僕、ちらし寿司がいいな! 錦糸玉子いっぱい入れて!」
「ヒスイは玉子しか食わねえじゃんか」
「玉子焼きでいいんじゃない?」
「僕はちらし寿司の玉子がいいの!」
「意味分かんねーって!」
「変なこだわり~」
「宴席を催すなら、彼らも呼べたらいいのだが……」
「でも、私たちじゃ向こうの世界に行けないデス」
「もしかして、神ならあっちの人間にも連絡入れられるんじゃねえか?」
「あ! そうかも! アカネちゃん、それマジであるかもだよ!」
「それが可能なのでしたら、わたくし、猫耳の方にもう一度お会いしたいですわ」
「分かる分かる! あの耳、どうなってるのかよく見せてもらいたいよね!」
「あ、い、いえ、そうではなくて……素敵な方だなぁ、って……」
「……え?」
「瑞穂さん? あの、まさか……?」
「思い出すだけで、ドキドキするんですの……」
「え、それって恋じゃん!?」
「嘘でしょ!? 男に!?」
「初恋? ねえ、それ、初恋なの!?」
「だ……だめえええぇぇぇーっ! 瑞穂は私のなんだからアアアァァァーッ!」
「ふぇっ!? す、すす、蘇芳さん!? あ、あの!?」
「瑞穂! 好きっ!!」
「告った!?」
「マジかよ!」
「返事は!?」
「私と付き合うの、嫌!?」
「い、いえ、そんなことは……!」
「これって成立!? 成立だよね!?」
「朱雀隊と鳳凰隊のリーダー同士がくっつくの!?」
「ならイサナ! 私たちも付き合おう!」
「射空さん!? 本気ですか!?」
「ああ! タケミカヅチ様が復活したら、記念に四隊長でダブルデートしよう! いいな!?」
「は……はいっ!」
やんや、やんやと騒ぎ立てる少女たちの中で、絹江は頬に手を当て、楽しそうに笑って言った。
「お赤飯炊いたほうが良いかしら?」
唐突に訪れた平和。
歪で不穏な日常から解き放たれた少女たちは、これまで秘めていた思いも、封じていた笑顔も、何もかもをさらけ出していた。それが許される世界になったのだと、誰に説明されずとも分かっているのだ。だからこそ彼女らは、誰に憚ることなく、今の気持ちを口にしていた。
今度は自分たちが、『奇跡』を起こす番なのだ、と。
彼女たちは知らない。
自分たちの思いが、言葉が、決意が、衝動が――前向きに生きようとするすべての行動が、彼女らを救った神への『信仰心』としてカウントされていることを。
奇跡が失われた世界の中で、この夜、小さな星が一粒流れた。
スペースデブリも微小な天体も、なにもかもが消し去られた空。燃える物が一切なくなった空に輝いた光の正体が何だったのか、答えを知る人間はいない。