3 立妃と陰謀
「リラ」と噛みしめるように呟くその人の顔を私はじっと見つめる。
殿下は王国と一族の真の友誼の象徴として私との婚姻を結びたいのだという。
つまりこれは、一見すれば王子さまがお姫さまを危機から救って結婚し幸せに暮らしました、めでたしめでたしという女の子が幼心に夢見るようなシチュエーションではあるけれど、その実情はある種の契約結婚だ。
国に繁栄をもたらす『運命』との結婚であり、民の融和という為政者としての義務を果たすための手駒を手に入れる結びつき。
極めて合理的で理性的な判断だ。
殿下は努めてそれを隠そうとしているようには思われるけれど、その熱のない瞳を見れば嫌でも分かる。
まあ私だって一族の嫡女として然るべき相手と一緒になるはずだった身、恋や愛というものに夢はない。
私も母の遺志を継ぐためにこの機会を利用としていることには違いないし、殿下を責める気は毛頭ない。
愛されることはないだろうが、打算的であれ何であれ、なるべく良い関係を築く努力はしていければと思う。
殿下もそこに異存はないはずだ。
「……ラ、リラ、聞いているか?」
「あ、申し訳ございません!」
いけない、殿下の御前で物思いに耽るなんて。
私は居住まいを正し、話を聞く体勢を整えた。
「では早速だが、リラ。結婚式は後日になるが、立妃は明日としたい」
「……え? は、早すぎるのでは……?」
どう考えても聞き間違いとしか思えない言葉が殿下の口から放たれた。
明日、妃となるですって?
婚姻というものは、そんなあっさり成立するものなの?
仮にも王族の婚姻だというのに、そんなことってあるの……?
「『運命の伴侶』が見つかると、たいてい婚約を飛ばしてすぐに妃とされる。『運命の伴侶』の存在は国の繁栄にも直結するから、囲い込んで、逃さないためにな。……そもそも、多くの場合誓いと結婚式が一緒にされるせいで派手に目立つ結婚式の方が結婚の本質だと誤解されがちだが、女神の前で誓いを交わせばそれで婚姻は成立する。誓いこそが結婚の本質で、結婚式は周囲に結婚を知らせるという表層的な意味合いにすぎない」
「……はあ」
「明日は王宮内の大聖殿で誓いを交わそう。それを以て、リラは妃となる。もちろん、後日結婚式も執り行う。臣民に王太子の婚姻を知らしめなくてはならないから、ある程度派手なものになることは間違いない。それには相応の準備期間が必要なので、日取りが決まればまた伝える」
私は本当に、明日この人の妃になるらしい。
なんだか力が抜けてしまって、満足に返答も出来なかった。
――そして、翌日。
私と殿下は大聖殿に赴き、大司祭の前で婚姻の誓いを交わした。
これで私は、晴れてお妃さまになったわけだ。
「……案外あっけないものね」
「定型文の誓いの言葉を述べて、書類に署名するだけだからな。情緒も何もない」
そうばっさりと切り捨てた殿下は、私を殿下の私室と扉一枚隔てただけの王太子妃用の私室へと導いた。
昨日の今日で可愛らしい調度が十分に取り揃えられているあたり、いつ妃が来ても良いように手抜かりなく準備されていたのだろう。
「今日は休んでいてくれ。そして、何があっても部屋を出ないように。俺は執務室へ戻る」
あれ、一人称が違う、と問う間もなく、殿下は部屋を立ち去った。
もしかしたら、妃になって多少心を許してくれたのかもしれない……そうであれば嬉しい。
そして、「何があっても」というところを嫌に強調していたような気がするけれど、何かあるのだろうか。
まあ王宮内に知り合いがいるわけでも用事があるわけでもないし、大人しくしていることに障りはない。
「妃殿下、お茶のご用意をいたしましょうか」
「そうね、休憩にしましょうか」
私付きの専属侍女となったクララがてきぱきと支度を始める。
彼女は私より一つ年上なだけの年若い侍女で、王宮に上がってまだ一年なのだという。
普通は王族の世話係には相応の経験を積んだ人間を宛てがうものだが、その優秀さを買われて任命されたそうだ。
ブラン一族の娘の世話なんかしたくない、と先輩に押し付けられ貧乏くじを引かされた気の毒な子か、あるいは妃の側近くに仕えることで王太子の目に留まりたいという野心家だろうか、と初めは訝しんだけれど、そういうわけではないらしい。
「私は侍女頭になりたいので、王族の専属侍女として経験を積むことはそこに至る最短ルートです。だから王太子妃殿下の侍女を選ぶと聞いて、真っ先に志願しました。玉の輿なんていう人任せなことではなく、地位も財も幸せも、欲しいものは自分の手で掴みますよ」
そう言ってクララは不敵に笑うのだ。
男爵家の六女、しかも庶子という立場に生まれた彼女は、非常に自立心と向上心が強かった。
回想しつつお茶を受け取ってしばらくまったりしていたのだが、不意に外が騒がしくなった感じがした。
「何かしら?」
「少し見てまいります」
機敏な動作で退室したクララは、困惑した表情を浮かべて戻ってきた。
「リネール王子が、妃殿下をお茶に誘いたいとお越しなのですがいかがいたしましょう」
そう言われて、はたと気付いた。
いや、すでに気付いていなくてはならなかったのだろうが。
ブランに生まれたために王国のことに明るくなく、公爵家で外界と隔絶されて育ったせいで世情に疎く、昨日からは事態の転換が早すぎて頭が追いつかず、そもそも王族に興味がなく、すっかりそのことが頭から抜けていた――リネール王子の存在が。
国王陛下には、養子を迎えずとも側妃殿下が産んだ実子がいたのだ。
現在確か十七歳、あと少し待てば成人になる、立派な男子が。
早逝した前王太子は正妃の子で、正妃はその出産が原因で逝去したものの彼自身はすくすくと成長していった。
その聡明さと人望の厚さは名高く、国王陛下も器量を認めて十歳で立太子させた。
ところが、十八歳の成人を迎えたまさにその日、突然亡くなってしまわれた。
その後、王太子の座は空白だった。
リネール王子がいるにも関わらず、国王陛下は彼を王太子にしなかった。
側妃殿下や彼女の実家の侯爵家が何度も申し入れたそうだが国王陛下は取り合わず、わざわざ王弟の子であるシエル殿下を養子に入れて王太子にしたのだ。
どう考えても、不自然ではないか。
側妃殿下はシエル殿下を殊の外嫌っているという。さもありなん。
リネール王子はどうだか知らないが、本人の気持ちはどうであれ敵派閥の王子という位置づけであることは確か。
ほいほい誘いに乗るようでは、あまりにも迂闊だろう。
だからといって、無碍に出来るものでもない。難しい。
「お疲れのところに来てしまって申し訳ないね。お茶は日を改めようと思うけれど、少し挨拶ができれば嬉しい。もし良ければ部屋に入れてもらえるかな?」
考えているうちに、扉の向こうからリネール王子の声が聞こえた。
こう言われたら、流石に断れまい。
部屋からは出ない、という殿下のお言いつけにもこれなら反しないし。
「分かりました。どうぞお入りください」
「ありがとう」と言って入ってきたのは黒髪碧眼のキラキラ正統派王子様といった佇まいの少年だった。
にこにこした様子は人畜無害そのもので、警戒心は杞憂だったかと思う。
しかし、笑みの証左であるはずの細められた瞳に、なぜか暗いものを感じた。
影を隠すために目を瞼で覆っているのかしら……なんて勘ぐってしまい、考えすぎかと内心で首を振った。
「はじめまして、義姉上。リネールです。これより私たちは家族となるのです、どうぞよしなに」
「リラフィーナでございます。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
先程の砕けた調子を引っ込め貴公子然として挨拶するリネール王子に、私も丁寧に返答する。
王子がソファーに腰を下ろすと、一人の従者が後ろに立つ。
私が向かいに座ると、その後ろにクララが控えた。
「貴女のような素敵な義姉が出来て嬉しいよ。シエル兄上を支えてあげてね」
「無論でございます。どうかリネール殿下もシエル殿下をお支えいただければ嬉しいです」
デリケートなところに突っ込んだ自覚はあった。
しかしリネール王子が気分を害した様子はない。
それどころか「もちろんだよ」なんて笑っている。
あれ? 少なくとも彼には敵意はないのだろうか?
それならば、それに越したことはないのだけれど。
「でもね、なかなか難しいんだ。知っているかもしれないけれど、母とその実家が厄介でね。なかなか僕の王位継承を諦めてくれないんだよ。だから、僕は少々強硬な手段を取ることにした……ごめんね」
その瞬間、私の首元にひやりとした感覚が走った。