1 はじまりの日
――聞いて頂戴、リラ。
母様にとって、我が一族と王国の和平は悲願だったの。
「あの人」と出会い、約束を交わした日から、ずっと。
叶うなら、生きて見届けたかったけれど。
でも、この命一つでそれが果たされるなら本望よ。
代わりに貴女が見届けてくれるかしら。
貴女を守ってくれるように祈りを込めて、宝物の首飾りを貴女に託すわ。
勝手なことを言っているのは、分かっているの。
貴女を遺して逝く母様を、許さなくても良いから。
貴女の生きる未来が、どうか幸せなものとなりますように――。
***
「これより罪人、リラフィーナ・ラルージュことリラ・ブランの刑を執行する。罪人よ、何か言い残すことはあるか?」
侮蔑に満ちた視線を寄越す男に、私は淡々と言い放つ。
「いいえ、何も」
ここで何か言ったところで、私の結末は変わらない。足掻くだけ無駄だ。
長い白銀色の髪をなびかせ、金色の瞳はただ真っ直ぐに前を見つめる。
牢番に導かれながら、しかし堂々とした足取りで私は刑場の中を進んでいく。
私はこれから断頭台に送られるのだ――ブラン一族の生き残りであるという、その事実を罪として。
ろくな裁判など受けていないし、受けさせてもらえるはずもない。
ランダナ王国にとって、ブラン一族はずっと討滅すべき敵であったから。
それは王国建国の頃まで遡る、長きにわたる因縁であった。
何度も何度も一族の住まう地には王国兵が送られ、戦闘が繰り返されてきた。
『ブラン討伐』と呼ばれたそれは、ついに十年前、終わりを告げた。
長老たる私の祖母と、族長たる私の母の、その命と引き換えに。
祖母は、一族の長老としてブランの歴史を背負った。
先祖がそうであったように、王国兵に最後まであらがい抜いた。
最後は戦地に赴いた国王に手ずから討たれたが、長剣で胸を貫かれたその刹那、意地で懐刀を取り国王の額に一筋の傷をつけてやったという。
母は、一族の族長としてブランの未来を描いた。
長老を中心として果敢に戦っていた者たちが散り、一族が守り続けていた神殿も損壊した。
あのままではブランの人間も歴史も、全てが討ち滅ぼされてしまっただろう。
それを避けるために彼女は国王と交渉し、自分の身と引き換えにこれ以上の戦闘はしないと約定を結んだ。
王国軍が王都に帰還すると、王国勝利・ブラン敗北の象徴として、見せしめに街の広場で斬首されたのだった。
人は、私の祖母を「国王の額に傷をつけた稀代の悪女」と罵る。
人は、私の母を「惨めに死んだ敗軍の将」と嗤う。
しかし、彼女たちは紛うことなき女傑であった。
誇り高く咲いた、ブランの花だった。
私は、彼女たちの血を引くブラン一族の娘だ。
彼女たちの正当なる後継者だ。
あの日の私は何も知らない五歳の幼子だったけれど、今は十五歳。
たとえこの先にあるのが断頭台だとしても、最期の瞬間までその矜持を失うことはない。
……ついに、これから私の首に振り落とされる刃の前に来た。
それでも、私の心は凪いでいた。
抵抗もなく刃の下にうつ伏せで横たわった私を、牢番がじろりと睨めつける。
その時、「ひっ」という不自然に喉を締め付けられたような音がした。
私のものではないそれは、どこから出たものだろう?
不思議に思って視線を動かすと、牢番が蒼白な顔で身をすくませている。
その視線は、私の後ろ手に縛られた手の甲を見ているようだった。
次第に人が集まってきて、それに比例して刑場内のざわめきも拡大していく。
「何事だ? 処刑一つすら粛々と遂行できないだなんて、使えない奴だな」
「……っ、……っ!」
やってきた上官に厳しい声色で問われた牢番は、はくはくと口を開閉した。
どうやら何事かに動揺しているようで、声を出すこともままならないらしい。
なんとか腕だけ動かしたかと思うと、おもむろに私の手の甲を指差した。
不機嫌そうにその指先の方向を視線で追った上官は、突如はっと目を見開いた。
「女神の御紋……!」
上官の声は小さいものだったが、不思議と刑場内にはっきりと響いた。
私は、耳を疑った。
それは、あまりにもこの場に似つかわしくない言葉だったから。
『女神の御紋』――それは、ランダナ王国の王族の『運命の伴侶』に現れるという御印だ。
王族は『豊穣の女神』の子孫であるというのがこの国の建国神話で、女神は子孫たる王族に今なお恩寵を与え続けているという。
その一つが『女神の御紋』で、王族の男子が成人の十八歳を迎えると、国のどこかに御紋をその身に宿した娘が現れることがある。
女神の思し召しで選ばれたその娘を妃とすれば国はさらに繁栄するし、『運命の伴侶』が成した子は賢君となるだろう、というのが国民誰もが知る言い伝えだ。
その御印が、私にあるというの?
昨日身を清めるために縄を外された時に、自分の身体は一通り見たはずだ。
その時には特に異常はなかったし、手の甲なら尚更目につかないことはない。
一体、何が起こっているのだろう?
「お前たち、何をしている?」
私も周囲も混乱の渦に呑まれたその瞬間、不意に鋭い声が空気を切り裂いた。
それは抜身の剣のように鋭利で、他人を従えさせることに慣れきった声だった。
「私には、この娘を処刑しようとしているように見えるのだが?」
「し、シエル殿下! あの、これは……このリラフィーナ・ラルージュとされていた娘は、本当はリラ・ブランというブランの族長の血を受け継ぐ女で……我々は、憎きブランの生き残りを成敗しようと……」
「ブランとの戦いは十年前に終結し、和平が成った。もはや、ブラン一族だからと罰せられる時代ではない。今更このようなことをして、何とする? これは、ただの私刑だぞ。勝手なことをして、許されると思うのか?」
「ら、ラルージュの養女ですので……」
「ラルージュ公爵の罪は彼一人のものであり、連座は無しと決まっただろう。知らないとは言わせないぞ。養女も無論、あの件で罪を負うことはない。
……ああ、もし養女という点に疑念があるのなら、それも杞憂だ。誰も『本物のリラフィーナ』が死んで『養女のリラフィーナ』が迎え入れられていたなどとは知らなかったが、書類上間違いなく養子縁組が成立していることを確認した。
公爵自身が貴族籍を管轄する部署の長だからこの養子縁組を表沙汰にせずに処理できたという側面はあろうが、別にそれは何か法を犯しているわけではない」
牢番の上官を淡々とした口調で追い詰めていく秀麗な男の顔を、私は呆然と眺めた。
シエル殿下――シエル・ランダナ。それは、この国の王太子の名だ。
正確に言えば今日成人の十八歳を迎えるとともに王太子位に就いたばかりの、銀髪碧眼の美丈夫である。
彼は王弟の一人息子だったのだが、国王の嫡男たる第一王子が早逝したことで国王の養子に入り王太子となった。
その人がなぜ、こんな場所にいるのだろう。
今日は王太子の座についた晴れの日で、このようなところに来る暇もないほどに予定が詰まっているはずなのに。
それでなくても刑場は不浄とされていて、貴人が来ることはまず無いというのに。
ぐるぐると考えていると、夜空のように深い青色の瞳が不意に私を射抜いた。
陶器のように白い肌を撫でる風が、彼の長めの銀髪をさらりと揺らす。
どこか人間味のない人間だ、と思った。
「君が、リラフィーナ・ラルージュことリラ・ブランだな?」
「はい、殿下。かような姿で御挨拶する無礼を、どうかお許しください」
その場に立ち上がって一応淑女の礼を取ったものの、そもそも私は罪人として断頭台へ向かっていたわけで、髪も服も何もかも王族の御前にはそぐわないボロボロさであろうことは自覚していた。
シエル殿下もそれは分かっていると言った様子で、私の言葉に鷹揚に頷いた。
「構わない。そんなことより、早くこちらに来ると良い」
「え……?」
シエル殿下は迷いのない足取りで近づいてきたかと思うと、私の手を後ろ手に縛っていた縄をどこからか取り出した小刀でばさりと切った。
そして、そのまま私の手を引いて歩き出そうとしている。
私の頭は展開についていけず、手を引かれるスピードから遅れた足がもつれてこけそうになった。
「何をぼうっとしている?」
「申し訳ございません。私は殺されるものだとばかり思っていたので、吃驚してしまって……」
「そんなこと、させるわけないだろう」
そう言うと、シエル殿下は繋いだ手を持ち上げ、『女神の御紋』が現れた私の左手の甲の上に唇を落とす。
「君は、私の『運命』なのだから。なあ、我が花嫁殿?」
そう言うと、殿下は綺麗に微笑んだ。
あまりのことに、私はめまいがした。
笑うというのは人間らしい感情の発露であろうに、あまりにも綺麗すぎていっそ人間味がないなどということがあるのか。
そんな場違いなことを思ったのは、完全なる現実逃避である。
女神の御紋をその身に宿した娘は、王族の運命の伴侶である。
そんなことは、子どもでも知っている。
しかし、それが我が身に降りかかるだなんて誰が思うだろう?
一体どうしてそんなことになってしまったのだろう?
どれだけ自問したところで答えなんか出るはずもない。
――処刑されるはずだった私は、なぜか王太子妃になるらしい。
とりあえず思考停止に陥った今の私にできたのは、差し出された殿下の手に自分の手を重ねることだけだった。