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呼び声がする。それは不思議感覚だった。森を吹き抜ける湿った風と共にアデールの耳に、いや、頭の中に直接響いていた。
アデールを呼んでいるわけではないのだろう。無造作にあげる悲鳴のように、それは特定の誰かを呼んでいるものではなかった。ただアデールに聞こえたというだけで。
そしてそれに途方もなく惹かれ、声のする方へと自然と足が赴いたのがアデールだったというだけで。
祖母が亡くなって以来、子供ながらにアデールは森で一人暮らしていた。生活をするうえでの行く場所など決まっていて、ここにこんな洞窟があることもアデールは今まで知らなかった。
照り付ける秋の陽光に、洞窟の中は一層暗く感じる。とても明かり無しには一歩たりとも踏み入れる気が起きそうにもないその洞窟に、アデールは平然と足を踏み入れた。
その足取りに迷いはなく、とても暗闇を歩いているようには見えない。
それもそのはずで、アデールは洞窟に一歩踏み入れた途端に、暗く感じていたのが嘘のように視界が開けるのを感じていた。
何故、外にいた時はあんなにも洞窟の中を暗く感じたのだろうか? 秋の陽光はこんなにも洞窟の奥まで照らしているのに。
暗闇で目が慣れるのとは違う不思議な感覚に、首を傾げながらもアデールは足を止める事はしない。
なぜならば呼ばれているからだ。確かに耳に聞こえる言葉にならない叫びを追って、アデールは足を進めた。
随分奥まで進んだはずなのに、未だ陽光が洞窟の中に降り注いでいる。まるで外にいるような不思議な感覚に、初めて何か魔法が働いているのだろうとアデールは思った。
魔法というもがあるのを知りながら、魔法とは無縁の環境にいたせいか、アデールすぐにそこに思い至らなかった。
アデールが住む森が、ファーガスという魔術で有名な国にあるのにも関わらず、アデールが魔法と無縁の生活をしていたのは、よその国から流れてきた祖母が魔法嫌いだったせいである。
外界との接触を極力さけ、祖母はアデールを一人育てていた。
アデールは祖母が死んでからも同じように生活をしていたけれど、住んでいる森から王都が近いのだから、一度くらい出向いていればよかったと思った。
そうすればこの不可解な出来事にも、何か納得のいく理由が思い浮かんだかもしれないのにと考えたからだ。
そんな事を考えながらも、何の迷いもない足取りでアデールはずんずん洞窟の奥へ進んでいく。
祖母が亡くなってから、森に一人生きる生活に、飽き飽きしていたのかもしれない。自分の心を満たしてくれる何かが、洞窟の奥にはあるような気がした。恐怖よりも好奇心が勝っていた。
カサカサと何かが蠢く音が聞こえた。アデールはそこで初めて足を止める。
「誰かいるのかい……?」
洞窟の更に奥に話しかけるが返事は無い。奥をよく見ようとしてアデールはもう一つの事に気が付いた。
自分がいる位置から一定の距離より奥が見えないのだ。後ろを振り返っても、洞窟の入り口は見えない。ずっと先に、洞窟の外で見たあの暗闇があるだけだった。
アデールはここにきて少しだけ恐ろしさを感じたが、持ち前の天真爛漫さが、恐怖なぞより好奇心を優先させる。足をかすかに聞こえる音へと向ける。
「誰だ……?」
少し足を進めると今度は逆に問いかける声がした。成人した男性の声だ。呼び声とは違い、はっきりと人の声だと分かる。
「僕はアデール、君こそ誰だい?」
アデールはまるで状況に似つかわしくない、明朗な声で答えながらその声の方に更に足を進めた。
「俺は……、何故ここに? ああ、そうだ。封印の儀式に……。何故こんなことに?」
アデールの問いかけなど頭に入ってこないのか、男は独り言をぶつぶつと呟いている。アデールは目に見える所までたどり着くとその姿に驚いた。
男は洞窟の道を塞ぐ様に垂れ下がった木の根と蜘蛛の巣に絡めとられながら立っていたのだ。
アデールは虫は平気であるが、男の顔や身体を這いずる、数匹の拳大の蜘蛛にさすがに及び腰になった。そしてカサカサと音がしていたのは、蜘蛛が男の身体を這いずりまわる音だと気づいた。
「おじさん、なんで蜘蛛なんて身体に纏わりつかせているんだい? 虫をみてキャーキャー騒ぐ人も理解できないけど、おじさんみたいなのも理解できないなぁ? 何か魔術的な意味があるのかい?」
「……蜘蛛?」
男はそう言ってじっとアデールを見た後、首が動かないのか目だけを動かし、自分の顔を這う蜘蛛見て、目だけで驚いてみせた。そして男は渋い顔をしながら答えた。
「……好きで這わせているわけじゃない。魔術的な事でこうなったのは認めるけどな。手を貸してくれないか?ここから脱出したい」
「それは構わないけど、おじさん魔術をつかえるのかい?」
アデールは持ち歩いている山刀を取り出すと、絡まる木の根を切り始めた。
「一応使えるが魔術師ではない。魔法陣設計技師だ」
「なんだいそれ?」
「魔術やそれを用いた魔道具を使う上での、魔法陣を設計する技師だ。要するに魔術を使うのが得意な人間が魔術師で、魔術を作るのが得意なのが魔法陣設計技師だ。まあ、立派な魔術師はそれも自分でやるがな。なかには、全部自分でやらないのは邪道とか言う魔術師もいるが……」
アデールによって自由になった左腕で、身体を這いずる蜘蛛を指ではじきながら男は答えた。
「へぇー……、じゃあ、おじさんは魔道具も作れるのかい?」
「簡単なものならな。魔術と一緒で設計だけならどんなものでも作れるが、複雑な物だとそれにあった職人に頼まないと……。なあ、おじさんて呼ぶのやめてくれないか? 暗くて分からなかったかもしれないが、よく見ろ、俺はおじさんと呼ばれるほど歳はいってないと思うんだが……」
「そんなのおじさんが名乗らないからじゃないか。僕はアデール、おじさんは?」
「……ルーファス。ルーファス・モリスだ」
「ルーファス、僕も名乗りたいとこだけど苗字は分からないんだ」
無邪気な声でいきなり呼び捨てにされ、ルーファスは一瞬だけ渋面を作った。
「……おじさんよりは良いからそれで許そう」
「何の話?」
「何でもない。……アデール、お前幾つだ? 今更だがこんな洞窟に子供一人で何をしている?」
「今年で十になるよ。ルーファスには言われたくないな。僕は声が聞こえたからだよ」
「声?」
「そう、でも今は聞こえない」
アデールは洞窟の更に奥を見ながら、呟くように答えた。