第一章 牛の化け物
「うおぉぉぉぉぉ!」
迫り来る恐怖を振り払うように、僕は雄叫びを上げた。
バルテノウス王国に向かって進行中、僕と亮と彩音は、ハリットの森を西へ進まなければならなかった。
野原では鬱陶しかった陽射しも、森の中では木漏れ日となり、とても心地の良いものとなり、穏やかな時間が過ぎた。
……目の前に牛の化け物、ミノタウロスが現れるまでは。
この目の前にいる化け物をミノタウロスと呼んで良いのかはわからないが、多分合っていると思う。だって牛の姿で、二本足でこちらに全力で向かってきてるんだもん。
という事で、現在進行形でミノタウロスと鬼ごっこを繰り広げている。いや、鬼ごっこという表現は可愛いのかもしれない。捕まったらそこには死しかなさそうだし。
「おい、和喜!これじゃあ拉致があかねぇぞ!」
「そんな事言ったってどうすんのさ!?何かこの状況を打破できる策でもあるの!?」
右隣で叫ぶ亮に同じ様に叫んで、策を求める。いや実際、後ろから迫ってくるミノタウロスから逃げられる気が全然しないんだけど、本能が走れと言ってるんだもん。
「少しずつ距離が縮まってきています!逃げるのは厳しいと思います!」
「逃げれそうにないな!それなら、ここは思い切って――」
僕の左隣で同じく走っていた彩音の助言に、亮は走るのを止め、ミノタウロスと向き合う。僕と彩音も少し遅れて走るのを止める。
「――ぶっ飛ばす方が手っ取り早い!」
「そんな事できるの?」
そんな事が出来るなら最初からそうしたい。その自信が僕にはないが、こいつにはあるのか?
「出来るか、出来ないかじゃねぇ!それしか無いだろ!」
「つまりなんの策も無く走るのをやめたって事か、この脳筋!」
ミノタウロスはあと少しで亮に届く所まで距離を詰めていた。そして皮膚からはち切れんばかりに浮び上がる筋肉を持つ右腕を振り上げる。
その右腕を、そのまま亮の脳天目掛けて振り下ろした。
ドンっ!
衝撃音が森中に響き渡る。普通の人間ならここで地面に頭突きしている所だが――
「…………おう、こんなもんか?」
――亮は少し腰を曲げた程度で倒れてはいなかった。まったく、こいつの頑丈さには驚かされる。いや、頑丈と言うには、言葉不足かも知れない。なざなら僕は、一度もこいつが怪我してる所を見た事が無いのだから。
亮はミノタウロスの次の攻撃がくるよりも速く、右手からメラメラと赤い光を灯す。
「火球!」
亮はミノタウロスに向かって右手に持っていた火の玉を投げつける。
ここで、亮の想像では凄まじい火の玉がミノタウロスを覆い、火炙りにでもなると思ったのだろう。だが、実際はそうはいかず亮の放った手のひら程の火は、ミノタウロスに触れた瞬間白い煙と共に消えていった。
「……おおぅ、……全然効いてないなこれは」
「感心してる場合か!」
ミノタウロスは亮の鳩尾目掛けて拳を突き出す。その拳が見事ヒットし、ゴフッと息を漏らしながら僕の隣まで吹き飛ばされた。
「……あいつのパンチ、結構鋭いぞ」
「うん。そのパンチを食らって膝も付いてないお前には、何も説得力がないな」
もしかしたら一番の化け物はこいつかもしれない。
「次は私が行きます」
彩音が一歩前に出る。両手を前へ突き出し目標を定める。
「水流」
彩音の両手から放たれる水が、高圧水蒸気の様な勢いで、ミノタウロスに直撃する。
「……ダメみたいですね」
彩音の攻撃は、目標を捕らえはしたが、ピクリとも動かす事は出来なかった。
「どうすんのさ。二人の攻撃効いてないじゃん」
逃げられもしない。攻撃も通じない。これ詰んでない?
「いや、まだお前がいるだろ」
亮がこちらを指差す。いや、いるもなにも。
「二人の攻撃が通じないなら、僕のも絶対ダメでしょ」
結果は既に見えている。それなら他の方法を探す方が得策だろう。それに、僕は自分の魔法を気に入ってない。
「んじゃあ、お前の能力を使ったらどうだ?何か見えるかもしれないだろ」
亮の言う『お前の能力』とは、僕が物心ついた時から既に持っている心の中を見る力ののことだ。昔は制御出来なくて苦しんだこの能力だが、今では好きな時に使えるまでコントロール出来るようになっている。
「うーん、まぁ、一応やってみるよ」
「カズくん、ファイトです!」
彩音が胸の前に手をグッと構える。あんまり乗り気じゃないけど、使うのはタダだからいいか。
一方のミノタウロスは、こちらの様子を伺っているのか。その場に立ち尽くしている。
ミノタウロスを見つめ集中する。これで人なら黙っていても、心の中で思っている事を無断で聴くことができる。この能力が目の前にいる化け物に使えるかは知らないけど。
周りの音が自然と小さくなる。木々が擦れる音、鳥の鳴き声や虫の声。それは、僕が能力を使う時にその声が聞こえやすくなる為に小さくなっているのかもしれない。
『……に……にげ……ろ』
「……え?」
能力を使い、聞こえたのは、若い男の声だった。
本当に聞こえた事にも驚いたが、その声はこちらに危険を知らせる感じだった。
「和喜!!」
亮の言葉に、ハッとする。先程まで止まっていたミノタウロスが雄叫びを上げ、こちらに向かって迫ってきた。
「――ッ!!土塊!!」
咄嗟に両手を前に出し、呪文を唱えた。文字通り、手のひら程の土の塊が、ミノタウロスに向かって発射した。見事命中したその土の塊は、ミノタウロスに触れた瞬間、粉々に砕け散った。
うん、全く効いてないよね。
その笑える程の貧弱な攻撃に呆れてしまう。だって道端に落ちてる土を投げてるのと一緒だもん。
ミノタウロスはその衰える事のない速度で迫ってくる。
後ろに退く僕と、それを追うミノタウロス。もう少しでミノタウロスの手が届く距離まで接近していた。
その時、ふと目の隅に一つの影が映った。
その影は、ミノタウロスと僕との間に割って入る形で僕の前に立つ。
『俺がぜってぇ守る!!』
能力を切るのを忘れて、その影の心の声が直接聞こえてくる。
その影の正体は亮だった。
亮は度胸がある。
それは多少の無茶が許される頑丈な身体がある事が大きく影響しているだろう。
だからこの場面でも躊躇なく敵に突っ込めるのだ。
敵から逃げるように後ろに退いた僕を庇うようにして。
「――ッ!クソ!」
一度敵から逃げた脚を無理矢理、敵の方へと進める。
その行為は無謀であると誰もが思うだろう。
でも、それでも。
「!?カズくん!?」
誰かに庇ってもらって助かるなんて死んでも嫌だ。
その後どうなったのかは殆ど覚えていない。
辛うじて思い出せるのは銀色の髪をした女の子の姿だった。