訳あり侯爵の兄弟 2
その日の朝は、よく晴れて気持ちが良かった。空気が湿っていることだけを除けば最高の日だった。
「ロッテ先生!今日は乗馬をしましょうよ」
ヴェクトヴァ-ン公爵家の末息子・モーゼスにせがまれたが、生憎私は馬には乗れない。
しかしモーゼスは自分が乗れるから、自分の後ろに乗ったらいいとか言い出す。
「モーゼス、無理を言うものではない」
「でもクラウス兄様、今日の課題は全て終わりましたし。折角だから乗馬がしたいです!」
クラウス先生はちらりと私を見、私はと言うと、ひきつった顔のまま固まっている。馬に乗るなんて真っ平ごめん!…だったけれど、公爵家の坊ちゃまが行きたいと言えば従うしかないのが庶民ってもの。
結局私はモーゼスの後ろに乗って行くことになった。
「……ごめんね、ロッテ先生」
「………いえ、別にいいけれど…。でも良かったの?護衛も付けずに…」
「護衛?必要ないよ!だってここはヴェクトヴァーン家だよ?何を言っているの、ロッテ先生」
何を言っているの、と言われてしまった…。
確かにここはヴェクトヴァーン家の敷地なのだ。見渡す限りの大自然全てが侯爵家の持ち物だって言うのだから恐れ多い。根っからの庶民である私からしたら信じられない話だ。
とは言え、用心しておくにこしたことはない。これだけ広い土地だから私たち二人だけで散策するのは危険だと思っていた。が、最後はモーゼスの「問題ないよ」の言葉に流されてしまった。
結果、これがいけなかった。
頂上を目指して馬を走らせればかなりの距離を進んでおり、気付けば屋敷は豆粒くらいの大きさにしか見えなくなった。久々の乗馬というのは本当だったようでモーゼスは楽しんでいたが、そろそろ夕方だし、引き返した方が良さそうだなと考えていたその時だった。
馬の上に乗ったモーゼスと私の目の前に、突如クロスボウの矢のような物が飛来して来た。
それは運悪く馬の身体に刺さり、驚いた馬は暴れて私とモーゼスを振り落とす。
「うわああああ!」
「モーゼス……っ!!」
私とモーゼスは宙に放り出され、馬は走り去る。結構な距離を飛び、ザザザと木々の間を身体が通り抜けて行く。
急な斜面を勢いよく転がり落ち続けて、頭が痛い。止まりたくても止まれないくらいの急勾配だ。
頭が真っ白になって、自分がどこにいるのか、そして何が何だか…全く分からなかった。
はっと気付けば、私とモーゼスは崖から生えている木の上に引っかかっていた。
木は斜めに生えており、私とモーゼスの重みでいつ折れてもおかしくない状況だ。崖から下の川までは軽く十メートル以上あり、落ちたら即死決定といったところ。
川はごうごうと流れている。仮に落ちて助かったとしても、あの速さに流されて終わりだろう。要するに、絶対に落ちれないというところ。
「モーゼス…手を、ゆっくり伸ばして」
恐怖で泣いているモーゼスにそう言うも、モーゼスは首を横に振って拒否する。
「怖い…怖いよぉ…」
「…怖いなら尚更だよ。早く手を伸ばして。でないと重さで木が下に落ちる!」
「っ…!」
ようやくモーゼスの手を掴み、身体を引き寄せて木から離れる。
下に落ちないように必死に移動し、やっと安全なところまで来た時は流石の私も足が震えた。
(やっぱり護衛…つけておくのだったな…)
当然だがモーゼスが狙われたに違いない。
クラウス先生は言っていた。自分の実母がモーゼスを狙っているのだと。護衛も付けないでこんな山の中を、領地内とは言え無防備にうろうろしていたら、狙ってくれと言っているようなものだろう。
(私も迂闊だったけれど…、クラウス先生も、モーゼスが狙われていると分かっているなら乗馬を止めてくれてもいいのに…)
恨み事を言っても仕方ない。私はモーゼスを屋敷まで送り届ける義務がある。あるのだが…。
「……ヴェクトヴァーン家までどのくらいかかるんだろう…」
馬で山の中を駆けあがって来たわけだが、その馬は既に逃げてしまっており、私とモーゼスは険しい森の中に投げされた。しかも今いる場所は舗装された道ではない。
獣道を歩くわけにもいかないので、馬で駆けて来た道まで出ようと上へ登ってみた。だが…一向に着かない。
「え…!?どうして行けども、行けども獣道なの…!?もしかして違う方向に進んでいる!?」
「………違う方向に進んでいるの…?ロッテ先生」
「……わ、分からない…。分からないけれど…これは…」
もしかしなくても、私は完全に道に迷ったようだ。
言い訳をすれば、私は元々方向音痴なのだ。あの急な斜面をごろごろと転がり落ちてくれば道も分からなくなる。ただ真っ直ぐ上に上がって行けばいいだけと思っていたのに……知った道に出られないと、不安が増すばかりだ。
けれどここで私が不安な言葉を発すれば、モーゼスが怯える。それだけは避けなくてはならない。泣かれても困るが、こんな場所でゆっくりと慰める余裕も私にはない。
頭上を見上げ、木々の間から空を見る。もう夕方だ。直に夜が来るだろう。今でさえ肌寒いのに、夜はもっと冷えるに違いない。
ぐずぐず迷っている暇はない。遅くなればなるほど良くない事が起きるだろう。それに…モーゼスを狙っている曲者がまだ近くにいるとも限らない。
腹を括るしかなかった。
「モーゼス、仕方ない。ここは野宿だよ」
「ええ!?の…野宿…!?」
「そう、野宿。侯爵家のお坊ちゃんには厳しいと思うけれど…これもいい勉強、いい経験だと思ってやるように!」
泣いているモーゼスにわざと明るく言ってやった。
「泣いて喜べ。君は命を狙われている。そして運良くその命は助かった。ならばここは意地でも乗り切るんだよ」
「………」
我ながら無茶苦茶な言葉だ。
何か言いたげなモーゼスだったが、無視して私は歩き出す。眠れる場所を探さなくては。洞窟とかあればいいけれど、そんなものすぐ見つかるとは思えないし、仮に見つかったとしても獣や蛇がいる可能性もある。さてさて、まずは葉を集めて、火を焚いて…。
「……ロッテ先生はどうしてそんなに落ち着いているのですか…?」
あれこれ考えていたら、モーゼスがぽつりと聞いて来る。
「しかも…楽しんでいますよね。何故ですか…。おかしいです…」
「……楽しんではいないよ、別に。この状況だし」
「嘘…嘘です…。だって笑っているじゃないですか…」
それはモーゼスを心配させない為だよ、と言おうとしてやめた。別に楽しんではいないけれど、この感覚が懐かしいなと感じていた自分がいたのは事実だから。
「そっか…私、笑っていたのか」
戦火を潜り抜け、山を登り国境を越えたあの辛い体験をこうしてしみじみと思い出すなんて…。どんな辛い過去でも、時間が癒してくれるというものか。「懐かしいな」と感じることが自分でも意外で、ほんの少しだけそんな自分に嫌悪感が芽生えた。
が、今は関係のない話だ。
「モーゼス、安心していいよ。私はこういう事に多少慣れている。だから頼っていい。君を無事に屋敷まで送り届けるから」
怪訝そうなモーゼスは、しかししばらくしてゆっくりと頷いた。
***
道に完全に迷った私とモーゼスは、その夜を森で過ごした。屋敷に戻らない私たちを心配して、クラウス先生たちは慌てていることだろう。ヴェクトヴァーン家の敷地内とは言え、かなりの広さがある森だ。私達を見つけるのも容易ではないはずだ。
森の夜は当然だけれど寒かった。父から教わった方法で火を焚き、消えないように見張る。
しかし火があるとは言え、モーゼスは小さい身体を震わせながら寒さに耐えていた。私はそんな彼を抱きしめて温めてあげるだけだ。
「ねえ…ロッテ先生」
モーゼスは小さい声で私に話しかけて来た。
「僕のお母様とクラウス兄様のお母様はね、仲が悪いんだ」
「………、そう」
「ううん…お母様達全員、仲悪いんだ…。僕たちは仲いいのに」
「………そっか…」
「もしかしてって思うんだけれど…。僕を狙ったのって……ク、クラウス兄様の…」
五歳にしては賢いな。貴族のお坊ちゃまってこんなに鋭いのか?
「僕……、お母様もクラウス兄様も、クラウス兄様のお母様も…好きなのに…。僕は嫌われているの?」
「……へえ?モーゼスはクラウス先生のお母様も好きなんだ?」
「…好きだよ?どうして嫌いになるの?好きになっちゃ駄目なの?」
「そういう事じゃないよ。モーゼスはよく出来た子供だなって思っただけだよ」
「…分からないよ。お母様達はどうしたら仲良くなれる?僕がいなくなったら仲良くなれるの?」
「………子供なんだから、子供らしい発想をしなよ…」
「……え?」
「…いやいや、私の独り言だよ。何でもない」
親同士の仲が悪いのは子供にすぐ伝わるってことだよね。それが実母と義理の母であっても。そして子供はその事に心を痛める。
家族の形や、家族間の仲の良さは個々の人間を形作ることに影響する。環境って「人間」を作る上でとてつもなく大切なのだと改めて思う。
それにしても、モーゼスの賢さには舌を巻く。この子、本当に五歳なの?それとも貴族だからこれが普通なのかな?
「環境の差って…本当に大きいなあ…」
五歳の頃の私と今のモーゼスでは、断然モーゼスの方が賢いし、語彙力も豊富だ。そんな事を考えながら、私は震えるモーゼスを一晩中抱きしめていた。
***
次の日の朝から昼にかけて森を歩いていれば、ヴェクトヴァーン家の人が私達を発見してくれて無事保護された。
私とモーゼスが帰って来なかった事に屋敷の者たちは大いに焦り、夜間ずっと探し続けていたとか。
「すまない…。母がモーゼスを狙っていると知っていながら怠慢なことをしてしまった…。そのせいでロッテ先生も巻き込んでしまった」
眉間にシワを寄せて頭を下げて来たクラウス先生についつい苦笑した。
「いいですって…。結果的に私もモーゼスも助かったのですから」
「ロッテ先生…」
「でも次はちゃんと護衛を付けて下さいね。本当に今回は運が良かっただけですから」
「……ああ、すまない…。モーゼスを守ってくれて感謝する」
泥だらけだった私は屋敷に着くなり、用意された豪華なお風呂に入れられてマッサージまでされた。
侯爵家なりの気遣いなのかな?まあでも、リラックスできたし、満足していたところへクラウス先生がこうして謝りにやって来る。
テーブルの上にメイドさんが二人分のお茶をセットしてくれ、私とクラウス先生はそこに座る。使用人さん達を全員下がらせると、クラウス先生は溜息を一つついてから口を開いた。
「ロッテ先生はきっと分かっていると思うが…、モーゼスを狙ったのは」
「やはりクラウス先生のお母様ですか?」
先回りして尋ねれば、クラウス先生は苦い顔で頷く。
「愚かな事だ。モーゼスが護衛も付けずにロッテ先生と乗馬に行ったと知るや否や、使用人にモーゼスを狙ってこいと即座に命令したらしい。準備もずさんで、行き当たりばったりもいいところだ。あれでは自分がやったと皆に言っているようなものなのに、それにすら気付かない」
「…わあ…。そうでしたか」
「それなりの罰を与えると父も言っていたし、どうにか収まりそうだが…」
「……大変ですね…色々と…」
ぱちっと視線が合った。クラウス先生の困ったような表情が目に入る。憂い顔が似合うなんて言ったら失礼かもしれないけれど、しかしこの美貌の男性は何よりその哀愁漂う雰囲気が最大の魅力だろう。
ヴェクトヴァーン家の事情は私には関係ない。侯爵が何人愛人を作ろうとも、子供達の母親が全員違うことも、女の争いがあることも、全部私が首を突っ込むことではない。ないけれど…。
「差し出がましいとは思いますが、一つだけいいですか?」
「何だ?」
彼の低い声が少しだけ緊張を帯びているように感じた。
「クラウス先生もこれから先ご結婚をされると思います。貴族の婚姻ですからね、望まぬ相手と結婚をさせられる可能性もあるでしょう」
「……」
「愛人を外で作るのはまあ…黙認されているのでしょう?だからその事に私もあれこれ言うつもりはないです。でも愛人に子供を作らせるのは止めた方がいいと思います…」
「……」
「でないと…愛人の女性も、生れる子供も…」
「……」
「…可哀想という言葉は何か違う気がしますね。それに可哀想なんて、私が判断することじゃないですし。本人達が納得したなら子供も作ってもいいとは思いますが…ただ……争いが起こることは…」
「あなたに言われるまでもない」
ピシッとした声で言われ、私ははっと顔を上げる。
「あなたの言いたい事は分かる。だが言われるまでもなく私は理解している。なぜなら私はこの侯爵家の長男だ。愛人である母から生れた故に、家督は継げないという立場の」
「……」
怒らせてしまっただろうか。いつも強気な私にしては珍しくたじろいでしまった。
誰にだって触れられたくないことはあるのに、私ってば無神経にズダズダと切り込んでしまった。こういう自分に時折嫌気がさす。
「ごめんなさい、クラウス先生。忘れて下さい」
クラウス先生の表情が緩む。
「こちらこそ済まないな。巻き込んでしまって」
「…それについてはもういいですって…。気になさらず」
お互いに机の上に置かれたカップに注がれた紅茶に目を落とし、それをゆっくりと飲む。
「今日はゆっくり休むといい。モーゼスも疲れて寝ている」
「あら…もう寝たのですか。早い」
「野宿をした経験がないからな。気を張っていたのだろう」
「そりゃそうですよね」
「……あなたは元気だな。もう少しショックを受けているかと思っていたが」
「あの程度どうってことはありませんって」
過去に比べればと軽く言えば、クラウス先生は神妙な顔つきなった。
「あまり他人の事を気にする性質ではないのだが…。慣れているとはどういうことだ?山で育ったということか?」
「…ああ、そうではなくて…。生れも育ちも町なのですが…」
どこから何て説明したらいいのか迷っていると、クラウス先生は首を横に振った。
「すまない。どうやら言いたくない事のようだな」
「え?……いえ…そういう訳では…」
「構わない。あなたが言いたくなった時でいい。ただ、あなたはきっと俺とは全く違う環境で育ったのだろうということが窺えた」
「………」
「だがこうしてお互いに茶を飲んで話している。……何とも不思議なものだな」
「………クラウス先生は詩人のようですね…」
「……」
真顔で見返されて吹きだした。
この先生は少し面白い。何を考えているか分からないところもあるけれど、でも嫌いじゃない。もっともっと深いところまで議論すれば、共感し合える事も多いのではないか。そんな予感が頭によぎったのだった。