婚約破棄につきまして 3
卒業パーティーから一週間後、ゴットフリートとメリーが正式に婚約したという噂を耳にした。メリーの頑張りようで事は順調に運ばれているようだ。
その数日後だ。学園内にかつての教え子が訪ねてきた。ゴットフリートの兄で、この国の第一王子であるルードヴィッヒである。
「久しぶりだね、ルードヴィッヒ」
「…はい、ご無沙汰しております。二年前は大変お世話になりました」
折り目正しく腰を曲げて頭を下げたルードヴィッヒに苦笑を禁じ得ない。そうそう、この子って超礼儀正しい子だった。こちらが恐縮してしまうほどに。
ここに通っていた時は、模範的優等生として誰からも一目置かれていた。しかしそれは彼の努力が生み出したものであるということを私は知っている。彼はよく私に質問しに来ては、熱く議論をしあった。私はルードヴィッヒとよく交流を持っていた教師だと思う。
ルードヴィッヒは努力家で礼儀正しい優秀な生徒だが…。これで愛想があったらいいんだろうけれど、生憎その表情は固いまま。キリっとした黒い目は鋭く、しかし表情が変わらないものだから冷たい印象を受ける。ここだけは損していると思うのだが…言っても直せるものではなさそうだ。
「ルードヴィッヒがこの学園に来るなんて珍しいね。その理由はゴットフリートとグレーティアとメリーの婚約破棄騒ぎかな?」
ルードヴィッヒは無表情のまま頭を下げた。
「はい。弟がご迷惑をおかけしました。本来ならば、弟が頭を下げるところですが…。弟は話が通じない状況でして」
「今のゴットフリートは恋の道に一直線だからね。ルードヴィッヒの話が通じないのも仕方ない。そういう時は潔く諦めるんだね」
「はい、そう思いましたから私は今ここにいます。……グレーティア嬢は身分も振る舞いも申し分ない令嬢だっただけに…弟は馬鹿なことをしたと誰しも思っていますよ」
「…確かにグレーティアほど王族にふさわしい教育を受けた令嬢もいないだろうしね。でもそれはもう仕方ないよ。メリーが選ばれたわけだしね」
この後に授業はない。廊下に立っていても仕方ないので、私はルードヴィッヒをお茶に誘う。学園内で設置された「お貴族様専用のサロン」は、教師ならば誰でも入っていいと言われたので、有難くお言葉に甘えて使わせてもらっている。
私が容れた紅茶でいいだろうかと一瞬思ったが、まあ別にいいだろう。毒見をしなくてはならないとか、敢えて無視して私は自分と彼の分の紅茶を容れた。
「校長先生にはもう挨拶はしたの?」
「はい、先ほど」
「何か言っていた?」
「いえ…特に。君も大変だなと労りのお言葉を頂いたくらいです」
ルードヴィッヒは私の容れた紅茶を文句も言わずに口にする。こういうところがいい子だと講師陣達も言っていた。これが馬鹿な王族ならば、「素人の容れた茶など口にできるか!」とか「毒見はいないのか!」と怒るところだろう。
ピッと伸びた背筋、凛とした雰囲気。卒業したのは二年前だから当たり前なのだが、すっかり大人の男性になった。生徒の成長は楽しくも嬉しくもあるが、変わっていく彼らを見ると少しだけ戸惑う気持ちもある。
「…ロッテ先生から見て、弟とメリーという令嬢はどのような人物ですか」
不意にルードヴィッヒはそんな事を口にした。
ルードヴィッヒが弟の事をどう思っているのか私は知らない。だからこそ私は自分の意見を言えないで詰まる。
「ルードヴィッヒ自身はゴットフリートの事をどう思っているの?」
「……別になんとも」
これまたルードヴィッヒらしいお答え。淡々としている彼らしい。つまりルードヴィッヒの中では、弟の存在は取るに足らないものということか。彼は気に入っている人物を大切にする人間だが、興味がない人に対しては塩対応をする性分だった。
「ゴットフリートは王族としては足りなさすぎます。浅はかで、傲慢なところが目立つ。今後王族の一員として公務をこなしていくのはいささか不安です」
「……そう」
「メリーという女性もそうです。彼女に知性と品が備わっているならば、婚約者のいる男に近づきはしません。あのような者と縁続きにならなくてはいけないかと思うと…正直不愉快です」
そう思うのも無理はない。馬鹿な弟王子と、可愛いだけが取り柄の女に王族の義務がこなせるのかと言いたいのだろう。
「ま、そうね。ゴットフリートは自分が大好きナルシストで、自分が一番じゃなきゃ気の済まないお子様だよ」
「はっきり言いますね」
「聞いてきたのはルードヴィッヒでしょう?」
「はい。流石ロッテ先生です。言葉を飾らないところがいいです」
王族だからって私に遠慮の文字はない!そう答えればルードヴィッヒは満足そうに笑った。
「ゴットフリートのことは…弟殿下のことはもう私達には何もできないよ。だって彼は卒業をしたんだからね。彼の教育はそちらで頑張ってもらうしかないでしょう?」
「……仰る通りです」
「大丈夫だよ!馬鹿な子ほど可愛いってものよ!そう思って頑張れ、ルードヴィッヒ!」
「………他人事だと思って…」
でもこれは本当さ。手のかかった子ほど、教師はずっと覚えているのだよ。だから私はきっとゴットフリートを忘れはしないだろう。あの馬鹿な王子殿下は元気にしているかなってたまに思い返すことでしょうね。
「ただメリーについて一言だけ。彼女は見た目の通りの可愛いだけが取り柄の、頭が空っぽの人物ではないよ」
メリーとの秘密の会話の全部をルードヴィッヒに話すつもりはない。そんなことをしたらメリーの野望を私が崩すことになるしね。
「メリーはそこまで悪い子じゃないよ。むしろ誰よりも家族想いで、家族を大切にしていて、その為にならば自分も犠牲にできる子…。ただ彼女の行動が万人に受け入れられるとは私も思ってもいないし、彼女もそんなことは分かっている。分かっていて、自分の信じたものを貫き通す子…。強かな子だよ」
「……」
「どちらかと言うと、メリーはゴットフリートよりもルードヴィッヒとの方が合っていると私は思うよ?」
怪訝そうなルードヴィッヒの顔に思わず笑ってしまう。
「メリーとルードヴィッヒが婚約していた方が絶対に上手くいく!君たち、頑固なところとか似てるからね。良いパートナーにも、良い恋人にもなれると思うんだ」
「……よしてください。そもそも、俺には正式な婚約者がいます」
「うん、知ってるよ。だから惜しいなって思うんだよ。世の中上手くいかないねえって、先日も話していたからね」
「恋愛事で頭が一杯の女性を相手にするのは疲れます」
「メリーは…恋愛事で道を踏み外したりはしないと思うから安心していいよ。その点は保障するよ。……それにしても恋愛事にやけに否定的だけれど、ルードヴィッヒは婚約者に恋をしたりはしないの?」
ベルの音が鳴った。どうやら授業が終わったようだ。これから生徒たちは寮に戻ったり、各々自由な放課後の時間を楽しむのだろう。外から声が聞こえてくる。
ルードヴィッヒは私の質問には答えず、話題をさりげなく戻す。
「ロッテ先生がそこまで仰るということは…。メリーという女性はそこまで悪い人物ではないと認識しておいてもよいと?」
「少なくとも、私はメリーが嫌いじゃないよ。ある意味では清々しい性格だから、羨ましくもあるけれど」
ふむ、という声が聞こえた。
「ともかく、メリーという女性については少しだけ考えを改めます。弟については…みっちり教育し直すしかないでしょう」
「…頑張ってね。陰ながら応援してますとも。まあ、でも息を抜きたくなったらいつでもおいでよ?愚痴くらいならば聞くよ。ルードヴィッヒは生真面目だし、なかなかそんなことをしないだろうけれどね」
「……お気遣いありがとうございます」
紅茶を飲みほしたルードヴィッヒは、しかしすぐに席を立とうとせずにそこに座って外を眺めていた。
卒業してから二年、王族としての公務をこなしていると聞いている。外国に行ったり、各地を視察したりと忙しく働いているとか。次期王としての責任感だろうか。こうやってぼうっとする時間もきっとないのだろう。
「ルードヴィッヒもすっかり大人になったねえ…」
「は?」
「いや…。何だろう、月日の流れの速さを実感したよ」
ついついしみじみとしてしまう。時の流れは本当に早い。父親が死んだのも、この国に来たのもつい昨日のことのように思える。
「ゴットフリートもメリーも、きっといいように落ち着くと思うよ。今は二人にとって大変な時期だけれど」
「グレーティア嬢を捨てて自分たちで選択した道です。多少苦労してもらわないと困ります」
「…厳しいね。ルードヴィッヒらしい…」
この頑なな人の心をふと緩めさせてあげられる人がいればいいと思う。ルードヴィッヒは頑丈な心の持ち主だけれど、そればかりでは疲れるだろうし。なんて考えてしまうあたり、年取ったなと我ながら思う…。
そろそろ行きますとルードヴィッヒが言ったので、二人でサロンを後にする。随分ゆっくりと話していたようだ。学園に残っている生徒たちの数は少ない。
「そういえば、先ほどの答えですが」
歩きながらルードヴィッヒは静かに口を開く。
「私には確かに婚約者はいます。ですがそれはこの国の発展のために必要なことであるので、恋愛感情を持ち合合わせたりはしていないです」
「……相変わらずだなあ…」
「本心です。私の婚約者もきっとそうでしょう。幼い頃より、王妃になるべく教育を受けた女性ですから」
「…お偉いさんはやっぱり大変だね…。尊敬する…」
皮肉でもなんでもなく、心からそう思う。王族だから仕方ないのかもしれないが、生まれたときより国の為に生きることを定められた人々。国で一番裕福な暮らしをしているのは、その分重いものを背負っているからだ。私には出来ないそれをこなすルードヴィッヒを心から尊敬する。
「でもね…、ルードヴィッヒ。これは年長者の意見ってことで聞いてもらえたら嬉しい」
「…はい」
「人間って岩でできているわけじゃないからね。ルードヴィッヒは誰よりも強い意志と目的をもっているけれど、全ての人がそうじゃないってことは念頭に置いておいた方がいいよ」
「……それは分かっているつもりですが?」
「だったら、ゴットフリートの事も少しは理解してあげてみて?」
ルードヴィッヒは押し黙る。私も偉そうに言える立場じゃないし、ゴットフリートの気持ちを全て分かっているわけではない。
けれどこれだけは分かる。ゴットフリートはルードヴィッヒ程、理性で行動できる人間じゃない。人間の感情をむき出しにし、愛を求め、愛されたいと願う子だと思う。
「ゴットフリートは確かに…問題も多いと思うよ。馬鹿だしね。王族という立場なら尚更、馬鹿なままで許されるわけではないし。けれど王族という前に、ゴットフリートはゴットフリートという一人の人間だもの。色々な感情があって当たり前だよ」
「……それも理解しているつもりですが…」
「うん、頭では分かっているんだね。けれどルードヴィッヒは心で分かってないな」
「……仰る意味がよく分かりません」
「人生は修行!私の言ったことを、いつか心で理解できるようにして下さいな」
あまり言いすぎてもダメだ。教師という職業は、どうしても一から十まで言いたがってしまうからね…。でもそれじゃ生徒の自主性を育てられないし、私は中途半端なところでいつも止めるようにしている。
何かを言いたそうな表情のルードヴィッヒだが、こういう時はそっとしておくに限る。
ルードヴィッヒは、頭はいいのだが、人の感情の機微に疎い。いや、それを必要ないと切り捨てる冷たいところがある。けれどそれじゃダメなのだ。人間は感情が伴う生き物だから。そこを分からないと、いざ王になった時に苦しむだろう。
「いずれ、答えを見つけたときにロッテ先生の元に報告に参りますよ」
「楽しみにしている」
ふふと笑えば、やっとルードヴィッヒの頬も緩んだ。
ところで、とルードヴィッヒは発する。
「ロッテ先生は、噂通りジェラルド先生と恋人同士なのですか?」
「っ!?」
思わず詰まった。何それ…そして噂って…噂になっているの私達!?古今東西、どこで誰が何を聞いているのか分からないなあ…。確かに私達は関係を持っているけれど…。
「ジェラルド先生はやめた方がいいと思いますよ」
ルードヴィッヒの思いがけない言葉に今度は私が黙る番。
「やめた方がいいって…。私とジェラルド先生はただの同僚だけれど、ルードヴィッヒがそう思う理由は聞いておこうかな」
苦し紛れの誤魔化しで己が見苦しい。ルードヴィッヒはちらりと視線を寄こすだけだが、静かに理由を語り始めた。
「簡単なことです。ジェラルド先生は己の自由を手放せない、我儘な大人だからですよ。一人の女性の生涯を背負って生きていくなんてこと…想像できません」
「……」
「その点では弟の方がマシである、と言っていいかもしれませんね。少なくとも、メリー嬢を愛すると公衆の面前で宣言したのですから。…グレーティア嬢に対する態度は最悪ですが」
「…ルードヴィッヒって、ジェラルド先生の事よく知っているの?」
「よくは知りません。ただ同じ男から見て、ジェラルド先生はやめた方がいいと思います」
「……へえ…?面白い忠告ありがとう」
「…ロッテ先生はしっかりしている分、変な男にひっかかりそうです。いえ、しっかりしているからこそ、ダメ男に惹かれてしまうかもしれませんね」
十歳も年下の青年に己の事を言い当てられてしまった。そうなのだ、私はしっかりしている長女気質なだけに、どうしようもない男ばかりを恋人にしている。最初の彼氏は暴力をふるう男だったし、二番目の彼氏は私にお金をタカるような男だった。そして今は…ジェラルド先生だし。
「ロッテ先生は素敵なのですから、まともな男と一緒になるべきですよ。これは私からの忠告です」
「………ハイ…。気をつけます……」
ルードヴィッヒからの忠告と慰めで思わず身を縮めれば、ルードヴィッヒはふっと息を吐いて笑った。おう、こんな柔らかい表情で笑うのも珍しい。
「…ロッテ先生…、私が婚約者に恋をしないのかということですが…」
「ん?…ああ、うん」
さっきの話ね。一体どうしたのだろう。
「婚約者には…恋はしないですね。それは間違いないです。彼女は私の最善のパートナーでありますが、異性に持つ愛という感情は沸かないです。なぜならば私の心は、すでに別の女性にあるので」
え!?そうなの!?ルードヴィッヒに好きな人がいたの!?
ニヤニヤして聞きそうになったが、……聞けなかった。なぜならば、ルードヴィッヒはじっと私を見ていたからだ。
強い眼差しが私を刺すように見つめる。その光に圧倒され、私は何も言えなかった。…ルードヴィッヒが何を言いたいか、その胸に何を秘めているか、嫌でも分かってしまったから。
「ですが私は弟のようにはなりません。恋に己の全てをかけることなど、私にはできかねますし、したくはないですから。想いを告げることもしませんし、想い人とどうにかなりたいと思ったことはありません」
「………」
「恋は身を滅ぼしかねないものだと認識しておりますので。どうかロッテ先生、私はこういう人間だとご理解下さいますよう、よろしくお願い致します」
礼儀正しく頭を下げると、颯爽と去っていくルードヴィッヒを、私はただ見送るだけしかできないでいた。
生徒の悩みなんてものは、いつの時でも大体決まっている。将来についてか、勉学についてか、友人や恋人のことか…。それに対応してこそ教師というものだが、あの時の対応はあれで良かったのだろうかといつだって悩む。
それは今回も同じで、ルードヴィッヒに対しての助言や会話は正しかったのか…。考えても答えはでないが、ついつい考えてしまうのだった。