前編
私はこの世界に落ちてきた「落人」だ。またの名を「聖女」とも言うらしい。
なぜか落人は女性しかいないらしく、そして何かと平和的な感覚の持ち主が多く、その上癒しの力を持つことから聖女と呼ばれているらしいけど。
私は「聖女」なんて柄じゃないので、その呼び方だけは止めてほしいとお願いして、「ワタル」とただの呼び捨てになって今に至る。
「ワタル、怪我を見てもらってもいいか?」
そう言って私に腕を差し出すのは、この世界で私を拾う事を決めてくれたヒューゼルだ。
キラキラした金髪が眩しくて、思わず目を細めながら差し出された腕に目を落とす。
大した傷じゃないな、と思ってしまうのは、ヒューゼルの向こうで一人傷の処理をしているクロを見てしまうからだ。
ここから見ても分かる程の血を、きつく太腿を紐で縛ることで無理矢理止めて、鞄の中から何かを取り出そうとしている。
クロのその後の行動が読めて、私は急いでヒューゼルの傷を治した。
手のひらに意識を集中すると、体の中心からするりと何かが引きずり出されていく感覚がある。多分その引きずり出されたものが淡い光へと変わり、その光が手のひらを向けた傷に吸い込まれていくのだ。
「うん、さすがワタルだ。綺麗に治ったよ」
麗しの微笑みを浮かべているだろうヒューゼルに「良かったです」と告げて、私は急いで走り出した。
予想通り針と糸を手にしていたクロの側に駆け寄り、止められる前に血だらけの足へ手のひらを向ける。
ふわりと溢れ出た光で傷が塞がったのが分かった。でも、まだ中の方は引っ付いていない。もう一度、と力を引きずり出そうとしたら、腕を強く引かれて意識が散らばってしまった。
「止めろっ!」
鋭い怒りを向けられて、思わず体がビクッと震える。恐る恐るクロを見れば、ギラギラと怒りを伝えてくるその瞳に心臓が痛いくらいに収縮した。
「クロ、ワタルの手を離しなさい」
背後から聞こえてきたヒューゼルの、静かで、でも有無を言わさない声音に、ゆっくりとクロの手が私から離れていく。
「優しいワタルがせっかく治療をしてくれたのに、何でそんな態度を取るんだ?」
「……オレには必要ない、迷惑だ」
ぼそりと呟いてクロはどこかへと行ってしまった。
「クロも悪い奴じゃないんだよ。色々と苦労してきたから、性格が歪んでしまったんだろう。きっと本当はクロも感謝しているよ」
私を慰める甘く優しいヒューゼルの言葉。
ねぇ、あなたは見てた?
確かにクロは怒っていた。でも、それと同じくらい怖がっていたよ?
いつもそう。私がクロを治療しようとする度、彼の瞳に浮かぶのは怒りと恐怖。
まるで私が力を使う事を恐れているかのように。
「……そう、だといいですね」
私が小さく頷くと、ヒューゼルが大丈夫と言うように後ろからギュッと抱き締めてきた。
甘い香りがする。
ヒューゼルが纏う香りは甘く優しい。
彼の言葉と一緒。
一度嗅げば抜け出せなくなりそうな甘い甘い毒だ。
※
癒し以外の私の仕事は料理だ。
ワタルは聖女だから、そんことはしなくてもいいんだよ。
ヒューゼルはそう言ってくれたけど、私はみんなが柔らかい白いパンを食べる中、一人端の方でカチカチの黒いパンを噛んでいるクロを見るのが辛いのだ。
「捨てられないように、媚を売るのも大変ね」
鍋を掻き回していると、久しぶりにミラから話しかけられた。
鍋を温める炎そのままの美しい赤髪、彼女は見た目そのままに炎を操る魔術士だ。
「私には出来ることが少ないですから」
「そうやって健気な振りをしておけば、ヒューゼルの気を引けるもの。あなたは彼の聖女なのだから、大人しく黙って守られていればいいものを」
憎らし気にこちらを睨む美しい彼女の頬に小さな傷を見つけた。思わず伸ばした指先を思いきり振り払われる。
「止めて。あなたのその力は全てヒューゼルのものよ。自覚しなさい、無駄に力を使う事はヒューゼルへの裏切りだと」
ミラの瞳が私から外れる。その視線の先にいるのはきっとクロだ。
見なくても分かる。だって、ミラはこの国で所謂貴族のご令嬢らしい。ヒューゼルだってどこぞの貴族の三男坊だって言っていた。
そして、クロはヒューゼルの所有物なのだ。
人じゃない、物だ。
ヒューゼルから盗みを働こうとして捕まり、許されて彼の持ち物となったらしい。
たった一切れのパンを盗もうとして。
一つ息を吐いたミラは私に背を向ける。
彼女にとって無駄な私の料理が、彼女の口に入ることはない。
出来上がったスープを器に注いで、白いパンに炙ったチーズとハムを挟んで、それらをヒューゼルの元へと持っていく。
立派なテントに向けて外から声を掛けると、いつもと同じ眩しい笑顔で彼が顔を出してくれる。
「そんなことしなくていいと言っているのに。ワタルは本当に働き者だ。でも、君が作ってくれたものはとても美味しいから有難いんだけどね」
いつもと同じ様で違う言葉を毎回伝えてくれる。彼のボキャブラリーの多さにはいつも密かに感心しているのだ。
でも、私の口は知らない内にいつも「大した物じゃないので」と答えている。
「少し冷えてきたね。今日は僕のモロの中においで。君のモロよりずっと暖かいから」
モロという言葉がテントを示す言葉だとすぐに覚えてしまう程、もう何度誘われたか分からない。
一緒に寝てどうするつもりだろう?
もしかして私に手を出すつもりだろうか?
彼みたいに完璧な人が私単体に興味を持つとは思えないから、やっぱり聖女とやらの付加価値なんだろうか?
そんなことを思いながらも、私の口はやっぱり勝手に「恥ずかしいので」と答えている。
無理強いしないのはヒューゼルの良いところだと思う。それか、やっぱり気がある素振りを見せて、私を自分に引き留めておこうとしているだけなのかもしれない。
そんなことを考えながら、鍋の側へ戻って今度は硬い黒パンをナイフで薄く切る。その上に残ったチーズとハムを乗せて、それを火で少し炙れば、多分そのまま食べるよりずっとマシになっていると思う。
自分のスープを注いだ後、残り全部を新たな器に注いで、パンと一緒に今度はクロの元へと持っていく。
「……要らないといつも言っているだろう」
「要らなかったら捨ててください」
いつもと同じやり取りをして、私はまた火の側へ戻るのだ。
クロは絶対に食べ物を無駄にしたりしない。それを知っているから、きっと迷惑だったとしても食べてくれるはずだ。
そうやって、小さな偽善を行うことで私は何とか毎日を過ごしている。
火の番も率先して行う。
怖いからずっと火は消さないでほしい、と初めてお願いした我儘は、優しい抱擁と共に許可された。
どうか少しでもクロにこの温もりが届きますように。
テントの無いクロが、夜の闇に凍えることがないように。
スープを飲みながら、夜空に浮かぶ二つの月に今日も私は祈るのだ。