*四* 結婚の許可
◆ ◆
わたしは念のためにもう一度、ウィケウスの花の香りを嗅いだ。準備が整ったところで、殿下はわたしの手をとると、そのまま部屋を出た。部屋を出たということは、今からどこかに行くのだろうか。
「あの、殿下。今からどちらに?」
「あぁ。何事も早い方がいいからね。今から父と母に結婚の報告と許可をいただいて、ルークスにお願いして結婚をしよう」
「えっ?」
ちょ、ちょっと待ってください!
今から結婚ってなんですか!
「あのっ! いくらなんでも早急過ぎませんかっ?」
「早くないよ。遅いくらいだ」
「え……」
「私はずっとずーっとこの日を待っていたんだ」
ずっと待っていた?
それ、どういうことですか?
「待っていたって……?」
「ルベル、私はキミのことが気に入ってるんだよ」
先ほども言われたけれど、殿下の“気に入っている”というのはどういう意味なのだろうか。
「ルベルは私の仕事を理解してくれている。そしてなにより、ルベルといると心地がよい。それはとても重要なことだと思わないかい?」
殿下はそう思っていてくれたのか、と初めて知り、またもや恥ずかしくなってきた。
先ほどからわたしはずっと赤い顔のままだ。髪の毛も瞳も赤いから、赤い獣みたいな感じになって、かなり恥ずかしい。
「式は改めてするとして、結婚の宣誓は今日のうちにやってしまおう」
あまりの性急さにあわあわしているうちに、殿下に連れられて、陛下と王妃の私室へと着いてしまった。今さらながら、殿下の手を振り切って逃げることはできない。
だってわたしも、殿下のことを“気に入って”いるのだから。
「ラーウスです。失礼いたします」
室内からの誰何の声に、殿下は名乗って、扉を開けた。
陛下の執務室には何度か入ったことがあるけれど、当たり前だけど、ここに入るのは初めてだ。
陛下と王妃はソファに隣り合って座り、何事か談笑していたようだった。
「どうした、ラーウス。……おや、ルベルと一緒ということは」
「あらあら、まあまあ! とうとうあなた、求婚したのね!」
「ほほう。ようやくか」
陛下と王妃のやさしい笑みに、わたしは臣下の礼を取るのも忘れて、真っ赤になってしまった。しかし、隣で手を握ったまま頭を下げているラーウス殿下の姿が視界の端に映ったところで、わたしの脳みそが理解するより早く、反射的に殿下に手を握られたまま、膝を折り、頭を下げた。
すごいよ、わたし、よくやった!
「父上、母上」
ラーウス殿下は頭を下げたまま、口を開いた。
「私、ラーウス・アーテルは、本日、ルベル・ロセウスに求婚して、許可をいただきました」
「まあ! おめでとう、ラーウス!」
「おぉ、めでたいことだ、ラーウス」
「そこで、父上、母上。改めて、結婚の許可をいただきたく、こんな夜分にも関わらず、お願いにあがりました」
「うむ。すぐに書こう」
陛下はそういうとソファから立ち上がり、椅子に座り、なにかの紙にサインと押印をしていた。
ちらりと見えた紙は、特徴的な黒い紙。あれってたまに見かける、結婚の許可証……?
まさかだけど、前々から用意されていたの?
なにこれ、怖い。
確か、結婚の許可証って、双方の親、あるいは親族、またはそれに代わる人が専用の白いインクを使ったサインと押印をしていないと効力を発揮しないものだったはず、だけど……?
そのことを聞きたいけれど、ここは殿下の部屋ではなく、陛下と王妃の部屋。臣下のわたしは許可がなければ口を開くことも許されない。
部屋を出たら後で殿下に聞いてみよう。
そう心に決めて、成り行きをだた見守ることしかできなかった。
「うむ。これでよし」
陛下は満足げにうなずくと、結婚の許可証を持って戻ってきた。
「これで宣誓をすれば、二人の結婚は成立する」
「ありがとうございます!」
わたしもお礼を言いたいけれど、発言の許可は得ていない。だからさらに頭を下げ、お礼とした。
「あら、あなた。ルベルはもう家族同然ですわよ。あなたがそれをルベルに言わないと、かわいいルベルとおしゃべりすることはできなくってよ」
「おぉ、そうだった。ルベルよ、おまえはもう、わしらの家族だ。臣下ではなく、家族だ。いつでも好きなときに話しかけてくるがよい」
その一言に、わたしはようやく発言の許可を得たと知り──しかも家族だなんて言ってくれた!──、頭を下げたまま、口を開いた。
「ありがとうございます」
「ルベル、お願いだから、そんなにかしこまらないで。あなたはあたくしの娘になったのよ?」
え、……あぁ、そうか。
殿下と結婚するということは、陛下と王妃が義両親になるということで……。
あまりのすごさになんだかもう、なにがなんだか分からなくなったけれど、殿下が無言で腕を引っ張って来たので、わたしはそれに合わせて立ち上がった。
「おめでとう、ルベル。今度、二人でお茶をしましょうね」
「王妃さま、そんな、恐れ多い」
「あらまぁ、娘とお茶をすることが、そんなにいけないことかしら?」
「え……いえ。その」
「母上、いきなりそれではルベルも困るでしょう。ルベル、母上の淹れるお茶はとても美味しいから、今度、天気が良い日にでも一緒にお茶をしてあげてくれないか」
「もったいないくらいのお言葉です。ありがたくお受けいたします」
そう答えれば、王妃はとても嬉しそうに笑った。
それを見て、ラーウス殿下は王妃似なのだな、と初めて知った。
◆ ◆
殿下は王から結婚の許可証を受け取ると、大切そうに丸めて、部屋を辞した。
「これから、神殿に向かう」
「はい」
「それにしても、いいタイミングで婚約が破棄された」
にこにこと機嫌のいい笑みを浮かべている殿下のその言葉に、わたしは思わず目を見開いた。
そういえば、わたし、殿下にその話、していない!
それなのにどうして殿下は知っているのっ?
「あの、殿下?」
「うん」
「どうして婚約を破棄されたことを……」
「あぁ。キミのお父上に結婚の許可証を送ったんだけど、なかなか返ってこなくてね。だけど、昨日かな、一昨日かな。ようやく、これが戻ってきて、サインと押印がされていたんだ。それと、手紙がついていてね」
父からの手紙……?
ということは、父とは連絡がついている、ということか。
やはり届かない荷物がどうしてなのか、気になってしまう。
「ルベルとカニス青年との婚約は解消された、と書かれていたんだよ」
「…………」
「理由は分からないけれど、これで晴れてキミは自由の身になったんだ。だから嬉しくて、どうやってキミに求婚しようかと悩んでいたんだよね」
それでここ数日、殿下はずっと難しい顔をしていたのか、と分かったけれど、その理由が自分のことでだったと知り、かなり恥ずかしかった。
今日は恥ずかしい気持ちをいっぱい感じることが多かった。恥ずかし過ぎて、ずっと顔が赤いままだ。
「それにしても、今日はルベルのかわいい顔をたくさん見られたな」
「なっ、殿下っ!」
手をつながれたまま、そんなことを言われれば、とにかくもう、恥ずかしくて、恥ずかしくて。
穴があったら入りたいと思ったくらい、恥ずかしかった。
夜になると、安らぎの夜の女神であるピウスさまの活動時間となるため、この国では、夜にはあまり外を出歩かない。城下町はまた話が違っているみたいだけど、昼間はあれほど行き来のある城内の廊下も、神殿へと向かう道も、ほとんど人がいない。
そのおかげで、この赤い顔をあまり人に見せることなく、神殿にたどり着くことができた。
安らぎの夜の女神を祀っているこの神殿は、黒曜石でできているため、全体的に黒い。異様ともとれる見た目だけれども、繊細な彫刻が施されているからなのか、そこまで圧迫感はない。それはきっと、ピウスさまのお人柄──いや、お神柄と言うべきか──もあるのかもしれない。
殿下に連れられて、神殿に入ると、中も黒いけれど、ほんのりと白い灯りがともされていて、幻想的な世界が広がっていた。
昼間に来ることがあったけれど、夜の神殿は神秘的で、美しかった。ここはやはり、安らぎの夜の女神の御許であるということが分かった。
かつん……かつん……と靴音が響く中、わたしと殿下は手をつないで、ピウスさまの像がある正面へと向かっていると、奥からだれかが出てきた。
視線を向けると、やさしい笑みを浮かべた、ルークスさまだった。
「ようやく来たのか」
「あぁ」
ルークスさまとラーウス殿下は幼なじみで、未だにとても仲がよい。
普段のルークスさまはとても低姿勢で、とても国の最高位の神官とは思えないくらいやわらかい態度を示す。
しかし、それが表向きの態度であったと知ったのは、ラーウス殿下と一緒にここを訪れることがあったときだった。
ルークスさまとラーウス殿下はぽんぽんと気安い応酬を始めて、驚いたことを昨日のことのように思い出した。
「ここに二人で来たということは」
「あぁ、ようやく結婚証を手に入れた」
「……そうか。ところでルベル、あなたはこんな男と結婚しようとしているけれど、いいのですか?」
その一言に、わたしは驚き、目を見開いた。
国の最高位の魔法使いであり、第三王子であり、人嫌いなところはあるけれど、最初からわたしにやさしかった殿下と結婚することに対して、どこに不満があるのだろうか。不満どころか、むしろ、わたしで本当にいいのだろうかという思いの方が強い。
だからわたしは首を振り、答えた。
「ラーウス殿下はわたしにはもったいないくらいのお方です」
「……だとよ、殿下」
「むしろ、ルベルしかいないんだよ」
殿下を見上げれば、やさしい笑みを浮かべた殿下がわたしをじっと見つめていた。
「はー、熱い、熱い。ここ、南国だったかなぁー」
というルークスさまの声に、ハッとして、慌ててラーウス殿下から視線を外した。
「はいはい、両想い、両想い」
「分かってくれたのなら、結婚の宣誓をさせてくれないか」
「かしこまりました、ラーウス殿下」
ルークスさまはラーウス殿下から結婚証を受け取ると、祭壇の前に立ち、掲げた。
「安らぎの女神ピウスさまより命を授かった二人が、結婚の許可を求めに来たれり」
ルークスさまのよく通る声が神殿中に響いたと同時に、結婚証がふわりと浮き上がった。
殿下の側に仕えているため、魔法は見慣れているけれど、やはりそれは不思議な光景だった。
「二人の結婚を、許可していただきたい」
ルークスさまの声に呼応して、結婚証の真ん中から黒い光がにじみ出てきて、ぺりぺりっと音を立てて、二枚に分裂した。
え、これって許可されなかったってこと……?
慌ててラーウス殿下を見ると、満足げに笑みを浮かべていた。
なにこれ、どういうことですか。
殿下、わたしに求婚して、わたしの父と王にサインと押印までしてもらったのよね? それが駄目だったのかもしれないのに、なんでそんな表情で見つめているの?
わたしは泣きそうになりながら視線を戻すと、それは宙でくるくると周りながら、丸まっていった。そうして細長くなったところで、二つの輪になった。
ルークスさまがそれに手を伸ばせば、すとんと手の中におさまった。
「ピウスさまは二人の結婚を許してくださった。これをお互いの指にはめれば、結婚となる」
ルークスさまはわたしたち二人の元へ来て、手のひらにおさまった二つのリングを見せてきた。
ピウスさまの色である、黒でできた、輝きのあるリング。
この国では、結婚した者はみな、この黒いリングを付けているけれど、こうやって作られたものだと初めて知った。
「先ほども見たように、結婚証が二つに分かれ、このようにリングになる。これが夫婦の証となる」
「初めて知りました」
「あなたのご両親も、王と王妃もされているでしょう」
「それは存じていますが……どうやって作られたのか、初めて見ました」
殿下はわたしの言葉に、納得したのか、うなずいていた。
「そうだったのか。それならびっくりしても仕方がないか」
先ほどの絶望的な顔を見られていないかと思ったけれど、しっかり見られていたようだ。
「私との結婚が駄目になったのかと思ってショックを受けたのも見られたことだし、今日はいいことばかりだ」
その一言に、殿下の少し意地悪なところを見て、ちょっとだけむくれてみせた。