*二* ばれてしまった
◆ ◆
とそこで、殿下の視線がわたしの顔ではなく、もっと上へ向けられていることに、今になって気がついた。
え、あ、なんか、ヤバい……!
「そういえば、ルベル」
「……はい」
話に夢中になって気がつかなかったけれど、そういえば部屋に帰ってからわたし、ウィケウスの香りを嗅ぎ忘れていた!
「頭から耳、出てるよ」
「……………………」
「ルベル、キミは獣人だったんだね」
マズイ。
ひっじょーにマズイ。
ここまでばれないように慎重に来てたのに!
カニスからの手紙は、わたしにかなりの動揺を与えていたのだと、今になって気がついた。
「そっかー、なるほどねぇ」
殿下はなにを思ったのか、椅子から立ち上がると、わたしの元へと歩いてやってきた。
逃げるなら今! と思ったけれど、殿下はなにか魔法でも使っているのか、わたしの身体は動かなかった。
いや、殿下は魔法は使ってない。使ってないけれど、殿下のらんらんと輝く灰色の瞳と、いつもより甘い、わたしを魅了する匂いのせいで、動けなくなっているということが分かった。
殿下はわたしの正面に立つと、頭の上を優しく撫でてきた。ぞくり、と背中になにか衝撃が走った。
「まさかルベルが、獣人だったとは」
「…………で、ん、か」
さわり、さわりと殿下は優しい手つきでわたしの頭からにょきっと生えてしまった耳を、何度も撫でてきた。
正直そこ、わたしの弱点なんです! なんて口が裂けても言えなくて、ぞわぞわするのをぎゅっと目を閉じて、必死になって耐えた。
そしてようやく、ブレスレットの中に入れたウィケウスの香りを嗅げばいいことに気がつき、必死になって腕を上げた。
鼻腔をくすぐる甘いウィケウスの香り。その香りを嗅いだ途端。
「あ!」
殿下の口から非難めいた声が上がったけれど、ようやく撫でられることから逃れることができて、わたしは殿下から数歩、離れた。
「ラーウス殿下……」
「ルベル」
殿下がわたしの名を呼ぶ声は、ずいぶんと非難めいていた。
それはそうだろう。獣人であることを隠して、殿下に仕えてきたのだから。追い出されても仕方がない。
いや、追い出してくれればいいけれど、獣人の間を巡る噂を思い出し、身体が震えた。
曰く。
貴族の間では、獣人をペットのように鎖に繋いで飼い、社交界に連れて行くのが流行っているそうだ。獣人自体の数が少ないし、人間社会に紛れるときは、ウィケウスを使って人間と変わらない姿を取っているため、よほどのドジを踏まない限り、ばれることはない。
それがだ。
故郷から届くはずの荷物が届かないばかりに、わたしはその大切なウィケウスを切らしていた。こうして騙し騙し来ていたのだけれども、カニスの手紙に動揺したわたしは、部屋に帰って匂いを嗅ぐということを忘れて、こうして殿下にばれてしまった。
よりによって、殿下の前でばれてしまうなんて!
「ルベル」
「あ、あのっ、殿下!」
殿下はそれはそれは魅力的で今まで見たことがないほどの甘い笑みを浮かべて、わたしを見下ろしていた。
わたしは女性にしては背が高いけれど、それでもラーウス殿下はわたしよりも身長が高い。並ぶとこうして見下ろされるくらいには、身長差がある。
「ねぇ、ルベル」
殿下は今まで見たことがないほど、機嫌がよい。
なにこれ。なに、これ。
なにこれ、怖い。
「私は今、いいことを思いついたんだ」
殿下の言う“いいこと”は、いつもたいてい、わたしにとって“悪いこと”だ。
今回のことも、絶対に確実に“悪いこと”であることは分かった。
「ルベルは自分が獣人だってこと、ばれたらマズいんだよ、ねぇ?」
それはそれはご機嫌に、ラーウス殿下は聞いてきた。
ばれたらマズイから、隠していたんじゃないですか! と言えたらよかったけれど、自分のこれからの境遇を思うと、聞かれるまでもなく、はい、ではあるんだけれども、はい、とも、いいえ、とも答えられない。殿下がどう出てくるのか分からなかったからだ。
無言でいるわたしをどう思ったのか、殿下は綺麗な顔に魅惑的な笑みを浮かべ、口を開いた。
「ねぇ、ルベル。私と契約をしないかい」
「……契約、ですか」
なんでいきなり契約の話が出てくるのだろうか。意味が分からなくて首を傾げていると、殿下は続けた。
「ルベルは私にお見合い話がたくさん来ていて、辟易しているのを知っているよね」
「……はい」
「今ね、そのお断りの手紙をずっと書いていたんだ」
「…………」
殿下、ろくに見ずに断っているでしょう!
わたしは殿下の騎士であると同時に、仕事も手伝っているという立場にあるため、殿下に届く書類には一度、目を通している。だからもちろん、お見合いの書類も一通り、見ている。
国内だけではなく、国外からも、第三王子という身分もあるけれど、さらには見目麗しいうえに魔術の腕もよく、国の最上位魔術師の一人でもある殿下の元には毎日、お見合いの申し込みがたくさん舞い込んでくる。もちろん、殿下の元に届く前に王が厳選したうえでだけど、殿下はろくに見もせず、すべて断っているのだ。
女の私が見ても、それはもう、殿下と並べば見栄えするであろうお嬢さんたち──もちろん、身分も相応な──から届くのに、それさえ見もせずに断っている。いえ、もちろん、見た目と身分だけではないのは分かっているけれど、それでも、これだけよりどりみどりなのに、どうして殿下は断っているのかと前に聞いたら、今は仕事が面白いからだなんて、とんでもない回答が返ってきたのを思いだした。結婚しても仕事はできるじゃないの、と思ったけれど、そういうものではないらしい。
「それでね、今、思いついたんだけど」
「…………」
ロクでもないことに違いない、というのは、ラーウス殿下の表情で分かったけれど、なにを言おうとしているのかまでは分からなかった。
「ルベル、私と結婚しないかい」
「……はいっ?」
殿下相手に思わずそんな返事をしたって、仕方がないと思う。
だって、いきなり前置きもなく、結婚しないか、ですよ? いきなりすぎませんか。
「私はルベルの秘密を知ってしまった」
「……うっ」
「ルベル、私がキミの秘密をだれかに喋ったら、困る、よねぇ?」
「…………」
困るどころか、一刻も早くここから逃走して、故郷に帰らなければならなくなってしまう。
とはいえ、殿下は故郷の場所を知っているため、逃げたって時間稼ぎにしかならないわけだけど。
「どこかに獣人が住む町があると聞いていたけれど、まさかアウリスだったとはねぇ?」
マズイ。ひっじょーにマズイ(二回目)。
殿下が言うように、アウリスに住む人たちはほぼ全員が獣人である。中には人間もいるけれど、相当な物好きか、獣人の伴侶だ。
そして、町に住む獣人の種類も、様々だ。
わたしのように犬の獣人もいれば、鳥や猿、猫などといった様々な種族がいる。
基本は同じ種族同士が結婚するけれど、人間や別の種族の者で結婚するということもある。
ちなみに、元婚約者のカニスは、わたしと同じ犬の獣人である。
わたしの両親も犬の獣人であるけれど、何代か前に人間と結婚していた先祖がいるとは聞いたことがある。
だから人間と結婚すること自体は別に問題はない。
ないのだけれど……。
「あの……」
「なんだい?」
「結婚はその……」
「無理とでもいうのかい? あぁ、そういえば、キミには婚約者がいたんだっけ」
「…………」
その婚約者から婚約はなかったことにしてほしいという手紙が発端で今回の件につながったわけだけれど、これはいい断り文句になるのではないかと思い、黙っていることにした。
「実はね、ルベル」
ラーウス殿下は今度は人の悪い笑みを浮かべ、わたしを見た。
この人、やることが結構、えげつないのよねぇ。根回しも周到だし!
「少し前から、キミのお父上と文通をしているんだ」
そう言って、殿下は机に戻ると、手紙の束を棚から出してきた。
薄青い、見覚えがあるけれど、この部屋では見たことのない封筒の山。
たいていの書類はわたしの目を通して殿下に手渡されるけれど、さすがに殿下に直接宛てられた手紙はわたしの手を通らないため、そんなことをしていたことを知らなかったし、父からも知らされていなかった。
「ルベルのお父上は、素敵な人だね」
「あ、ありがとうございます」
この状況下で、素直にお礼を言えた自分を褒めたい!
「これでね、キミとカニスという青年と婚約をしていることを知ったんだ」
先ほど見た封筒を思い出す。
カニス・オース。
オース家の次男坊で、女癖の悪いと噂のある、わたしの婚約者だ。婚約した経緯をそういえば聞いていないけれど、ちょうど年齢が釣り合う犬の獣人が他にいなかったから、というだけの話のような気がしないでもない。
「ずいぶんとキミは、評判の悪い男と婚約をさせられていたんだね。といっても、まだ表立ってなかったのが幸いだね」
「…………」
幼い頃に口約束みたいな婚約でしかなかったけれど、それでも、どうやらまだ有効だったようだ、と知ったのは、先ほどの手紙でだ。
婚約者がいたこともすっかり忘れていたし、わたしも殿下ほど仕事馬鹿ではないけれど、殿下のせいで仕事馬鹿状態で、殿下のお見合い写真を見ていたにも関わらず、自分の結婚なんて、考えたことがなかった。