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【エッセイ】集

未完の私―2014.10.30-

作者: 蠍座の黒猫

 精神が病んでいるときには、じっと寝ていても良くならないので、外へ出たいと思った。天気が良いので心地良さそうだ。最寄り駅構内にあるコンビニ受け取りでCDを注文してしまったので、受け取りに行きたいと思っているが、近所の眼もあり平日の昼間に仕事を休んで出歩いているところを見られることに抵抗がある。そして妻も私を閉じ込めたがる。結局そう云うものが私の負担の一部でもあるのだが、古い村に代々住んでいるので仕方がないところもあるのか。まあ、亡き母の兄たちは、精神薄弱気味であったり、それそのもので実家に監禁状態だったりしたから、私もその血を受け継いでいる気配がないでもない。精神薄弱というほどではないが、我ながらどこか人並みより精神が細い気がする。

 そろそろ外に出る準備をしよう。子どもの世話をしている妻の眼を盗まなければならない。こういう時には猫と云う奴らが羨ましい。不意に私の部屋の窓を外からがたがた鳴らして入れろと鳴く。開けると入ってきて、今度は部屋の外へ出せと鳴く。出してやったら出してやったで、どこからか外へ出て、好きなことをした後に帰って来て、また私の部屋の窓を外からがたがた鳴らす。

 妻は子どもを寝かしつけているようだ。私は着替えて声をかける。案外あっさりと許可を得た。きっとどうでもいいのだろう。または構いたくはないのか。

 外へ出た。日差しが心地良いと云うよりもむしろ眩しい。下ばかり見て歩くと案外歩が進む。舗装されている交差点なのだけれど、補修は長くしていないのだろう。横断歩道はところどころ擦り切れて下地のアスファルトの褪せた紺が透けていたり、剥き出しになっていたりする。何かのゲームで横断歩道の白いところから足を踏み外したら終わりと云うやつがあったけれども、この状態ならそもそもの前提条件が成立しないであろう。白を踏みたくても全くの白はなく、足を降ろすところはどうしても白に交じって下地の黒がある。しかしその実は下地の黒だって、土の上に舗装したアスファルトでしかない。そしてその下敷にされた土は死んでいる。だからどうしたってことはないが。

 信号待ちで下ばかり見ている私を、若い中国人らしき数人の男女が少しばかりの奇異の目で見ていく。彼らは過ぎた歴史の中でのお互いの文化交流をどう見ているのか。きっと私などよりずっと亡き父が詳しかった。あるいは彼らは思いもかけない奇抜な着想を持って帰るのかも知れない。

 駅まで歩いた。道は細いので自転車や歩行者と行き逢う。譲ったり譲られたりする。南の枝道を見た。母子が何かしている。子どもはまだ小さい。1歳から2歳の間であろうか。私の末の子と同じくらいであろうけれど、向こうは女の子だった。日を背にしてひどく小さい立ち姿だ。母親が手を広げておいでおいでとしている。その子の背に幼子の必死な可愛らしさがある。

 さて、駅に着き迷う。このまま駅に入ってコンビニで荷物を受け取って帰るのか。それとも、どこか遠くへの切符をとりあえず買ってしまうのか。しかし、私は帰ることを捨てきれずにいるが、さりとてそれに踏み切れない。家に帰れば連続する日々が待っている。実のところ連続していないくせに連続を強制する暮らしである。人並みには決して成れないくせに中途半端過ぎる世間体を気にしている。全くのところ妻はそれで正しい。子どもらを守るためにもそれでいい。しかしながら性格破綻している私は彷徨ってしまっている。唯、私を時折気まぐれに襲うどうしようもない『痺れ』が、日常よりも詩作や文学を気取った我儘を何よりも優先させてしまう。

 その『痺れ』は今までに何度かあった。例えば気に入っている曲を聞いている。そして何か文章を読んでいる。すると不意に何かを呼び覚ましたのか、突然に頭が真っ白になるような痺れを感じる。身体全体をいきなり襲う、意識を後ろへゆっくりと引っ張るような感覚。それが去ったかに思われても、しばらくは立ち歩くと両腕にびりびりとまだ痺れを感じる。これは何なのかと、あまり考えたことはなく、勝手に決めつけているところでは、きっとこれは法悦にも似た詩人の魂からの誘いであろうと、思ってしまっている。勿論、法悦などと云うものを実際に目にしたこともないし、その体験を耳にしたこともないが、きっとこの様なものであろうと思い込んでいる。とにかくその様なものに誘われているからには、私にもきっと何か成せるのではないかと思ってしまう。人に話したことはないが、きっとそうなのだろうと思っている。

 駅の中へ入り、電車の行き来を見渡せるデッキへ行く。この駅にはそのような電車好き向けのスペースがある。そこで腰掛て電車を見るともなく見る。秋の昼下がりの光線はどこまでも優しい。この優しさは憐みの光だ。死に逝くものへの憐みの光だ。眩しく優しいが、甘えてすり寄れば突き放される。それに温かさはない。先客が何組かいたが、一組去り二組去り私のほかには誰もいなくなってしまった。日差しに照らされたビルを見ていると、改めてこの季節のこの光線が好きでたまらない。きっとこのまま死んでしまえばいいのにと思ってしまう。ただし痛みと苦しみのない死がいい。なんて我儘な。しかし、自死は選べない。8人兄弟の母の一番上の姉が自死した一年後に祖母が力尽きるように亡くなった。親よりも先に逝った親不孝な長女と末の娘を持ち、最早耐えられなかったのだろうか。それとも唯の寿命だったのか。

 このデッキで末の子に電車を見せればきっと喜ぶだろう。電車へ小さい手を振ってばいばいなどというだろう。その後に隣の駅まで電車へ載せてやれば、車内で彼はさぞ可愛らしい仕草ではしゃくだろう。それに私は耐えられないのだ。あまりの幸せの実感に怖くなる。親は子に最後の教えを残すために順番を守り先に死ななければならない。この世の理をその身をもって教えるために。不条理が世に満ち溢れていて、自分自身もその例外ではない故に、後を継ぐものを残すのだ。生き物としての最も原始的な原理を最後に教えるために、私は子どもに死を見せなければいけない。この身をもって現実の死がどんなものかをみせなけれないけないのだ。しかし、しばしばこの覚悟が揺らいでしまう。子どもたちが見せる無邪気な笑顔。私への眼差し。いつまでも共に生きて行きたいと思ってしまう。許されない思いを持ちたがる私は、結局また揺れている。やがて冬が来てしまうのに、人並みにもなれず覚悟も出来ずまだなにも成せていない。

 私はCDだけを持って帰った。妻は介護している祖父への愚痴を垂れ流す。そして子どもが何かしてくれという。してやればまた何かを求める。連続した小さなしがらみが私を縛っていく。その小さなしがらみの連続が滓のように心の底に溜まっていく。それはいい。決して悪ではない。唯、屈託に蝕まれた私が、小さく一つずつ壊れていくだけのことなのだ。

14.11.4 誤字修正

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