前編 秘密組織の仕事を見学する
あの一件から、およそ2か月が経っていた。神原直樹が灰嶺損保を訪れるのは、これで3度目になる。事件直後の聞き取りを除けば、定期面談としては2回目だった。今回は、白瀬花音と三崎航平も一緒だった。
「未来視の方は?」
「特に変わってないですね」
「頻度も?」
「だいたい同じです」
久我怜司は端末へ記録する。
未来視系統の魔眼:発現頻度に大きな変化なし
日常生活への影響なし
新たな異常事案との接触なし
「白瀬さんは?」
「私は何も。平和です」
「体調面も?」
「問題ないです」
久我は続けて入力する。
「三崎さんも、何か変わったことはありませんか?」
「俺まで毎月確認される必要あります?」
「少なくとも、今のところは」
「ですよね」
航平が苦笑した。
最初の頃にあった緊張感は、かなり薄れていた。直樹たちにとって、天水機関が普通の組織になったわけではない。未来を視る人間や神格存在、異能者、通常の社会では説明できない現象。そういったものを扱う組織であることに変わりはない。
ただ、少なくとも毎月顔を合わせる久我怜司については、もう少し普通の人間として見られるようになっていた。
「以上です」
久我が端末を閉じた。
「今回も特に問題ありません。次回も1か月後を予定していますが――」
そこで、久我は少し考えた。
「次回から、場所を変えましょうか」
「場所?」
花音が聞き返す。
「Studio Arcで。ここよりは来やすいでしょう」
「Studio Arc?」
直樹が反応した。
「駅前にもありますし、個室も使えます。毎回、灰嶺損保まで来てもらう必要もありませんから」
「そんな普通のところで面談して大丈夫なんですか?」
「大丈夫です」
「一応、秘密組織との面談ですよね?」
「Studio ArcはS.N.Worksグループの施設です」
「それは知ってますけど」
直樹はそこで止まった。
「……待ってください」
「はい」
「Studio Arcって、天水機関と関係あるんですか?」
「あります」
「S.N.Worksも?」
「関係があるというより、直轄企業です」
「直轄?」
「はい」
直樹は久我を見る。
「S.N.Worksって、あのS.N.Worksですよね?」
「他に心当たりがあるなら分かりませんが、おそらくそのS.N.Worksです」
「いや、大手じゃないですか」
「そうですね」
「IT業界にいて知らない人、ほぼいないですよ。大学生の就職人気企業ランキングにも載るような会社ですよね」
「入ることはありますね」
「そこが秘密組織の直轄企業?」
「そうなります」
直樹はしばらく黙った。
「そもそも、灰嶺損保も小さくないですもんね」
「一般の損害保険会社としても営業していますから」
「S.N.Worksがあって、灰嶺損保があって、Studio Arcが全国にあって……」
直樹は指を折るのをやめた。
「なんか、感覚おかしくなってきた」
「何の感覚です?」
「秘密組織という言葉のサイズ感じゃなくなってません?」
「秘密にしている組織ではあります」
「そういう意味じゃなくて」
花音が笑った。
「直樹、さっきからずっと混乱してる」
「いや、するだろ。S.N.Worksだぞ」
「私はStudio Arcの方がびっくりしたかも。使ったことあるし」
「俺もある」
航平が言う。
「知らないうちに秘密組織の施設使ってたのか」
「一般利用部分は普通の施設ですよ」
久我が言った。
「防災設備も、避難拠点としての機能も、一般の災害に備えて設けています。その一部が天水機関の結界網や観測網にも使われています」
「普通の会社の中に、天水機関の仕事が混ざってる」
直樹が、考えを整理するように言った。
「そういうところは多いです」
「思ってたより、だいぶ社会の中にいますね」
「社会を守る組織ですから」
一拍、間が空いた。
航平が時計を見る。
「俺、このあと予定あるんで、そろそろ行きます」
「あ、私も」
花音が立ち上がった。
「直樹は?」
「俺は……」
直樹は久我へ視線を戻した。
「もうちょっと久我さんに聞いてから帰る」
「まだ気になってるんだ」
「そりゃ気になるだろ」
「じゃあ、お先に」
「またね」
花音と航平が部屋を出ていく。
扉が閉まる。
直樹は、まだ席に残っていた。
その時、久我の端末が短く鳴った。
久我が端末に目を落とす。
【定期保守予定】
Studio Arc大宮南店
開始予定時刻:13時30分
担当:久我怜司
資格:天水機関認定三級
「久我さんって、認定三級なんですね」
「ええ」
「そういえば、その三級って何ができるんです?」
「保守作業の責任者を任される程度ですね」
「戦闘の強さじゃないんだ」
「そういう要素もありますが、それだけではありません」
「じゃあ、普段何してるんです?」
久我は少し考えた。
「点検ですね」
「点検」
「点検です」
「秘密組織の仕事としては、だいぶ地味ですね」
「そうでしょうか」
久我は時計を見る。
「天水機関が管理している設備は、全国にあります。結界設備、観測設備、通信設備、避難設備。空想災害が発生した時だけ動かせばいいものではありません」
電源が入るか。通信できるか。備蓄は期限内か。結界点に異常はないか。故障しかけている部品はないか。交換記録は残っているか。
「壊れてから直すのでは遅いものが多いんです」
「なるほど」
「何か起きた時に使えないのでは困りますから」
直樹は、まだ表示されたままの通知に目をやった。
「これからStudio Arc?」
「ええ」
「さっき話してたところですよね」
「そうです」
短い沈黙が落ちた。
「……ちなみに」
「はい」
「裏側って、どんな感じなんです?」
久我が直樹を見る。
「気になります?」
「そりゃまあ」
「これから1店舗、定期点検に行きますけど」
直樹が目を瞬く。
「見ていいんですか?」
「見せられる範囲なら」
「秘密組織って、そんな社会科見学みたいなことできるんですか」
「誰でもできるわけではありません」
直樹はすでに天水機関の存在を知っている。空想災害についても、未来視能力者として一定の説明を受けている。今さらStudio Arcの設備を少し見せても、彼の機密上の扱いが大きく変わるわけではなかった。
「ただし、関係者見学として記録は残します」
「そこはしっかりしてる」
「秘密組織ですから」
直樹は、ほとんど迷わなかった。
「行ってみたいです。今日は面談に合わせて休みを取ってるので」
「分かりました」
久我は端末を操作する。
同行者:神原直樹
区分:関係者見学
目的:定期保守業務への同行
申請
ほとんど間を置かず、表示が切り替わった。
【承認】
「早い」
「通りましたね」
「今、送ったばっかりですよね?」
「条件を満たしていれば、自動処理されるものもあります」
「秘密組織、思ったよりシステム化されてるな……」
「普通ではないものを扱うためには、普通の部分をきちんと作っておく必要があります」
久我は上着を取った。
「行きましょうか」
◇
Studio Arc大宮南店は、幹線道路沿いに建つ大型の複合施設だった。
大きなガラス窓。カフェスペースとコワーキングエリアがあり、奥にはフィットネス設備も見える。平日の昼過ぎということもあり、店内にはノートパソコンを開く会社員や、コーヒーを飲む学生、運動を終えて休憩している高齢者の姿があった。
「普通にStudio Arcですね」
直樹が言った。
「普通のStudio Arcです」
「知ってから見ると、全部怪しく見えるな」
「全部を疑うと疲れますよ」
久我は受付で身分証を提示した。
「灰嶺損保の久我です。防災設備のリスク確認で伺いました」
「お待ちしていました」
受付スタッフが頭を下げる。
「設備担当を呼びますね」
スタッフは、天水機関の存在を知らない。
今日の作業も、S.N.Worksグループと灰嶺損保が共同で実施する防災設備の定期的なリスク確認だと認識している。
それで問題はなかった。
「嘘は言ってないんですね」
受付から離れたところで、直樹が小声で言った。
「できるだけ言わないようにはしています」
「嘘を?」
「ええ」
Studio Arcが防災施設なのは事実だった。非常用電源も、備蓄も、緊急通信設備もある。災害時には、必要に応じて避難者を受け入れる。
その裏側に、もう一つ用途があるだけだ。
「全部の従業員に天水機関のことを教える必要はありません」
「知らなくても動くようにしてある?」
「そういうことです」
設備担当者が現れた。
久我と簡単な確認を交わし、バックヤードへ向かう。
直樹も後ろについていった。
備品庫、分電盤、非常用電源設備、給水設備、備蓄倉庫。久我は端末のチェックリストを上から順番に処理する。
【非常用照明】正常
【蓄電設備】正常
【緊急通信端末】正常
【飲料水】期限内
【簡易医療用品】不足なし
【非常食】一部、3か月以内に期限到来
設備担当者が別室の備蓄を確認しに離れると、直樹は声を落とした。
「本当に普通の防災点検ですね」
「普通の防災点検も仕事です」
久我は非常食の交換予定を登録した。
非常時に必要なのは、秘密を知っている人間だけではない。扉を開ける人、避難者を誘導する人、電源を入れる人、水を配る人、通信設備を使う人。それぞれが、自分の仕事をすればいい。
「全国の店舗すべてに、事情を知っている人間を常駐させるのは現実的ではありません」
「確かに全国に1,000店舗以上ありますもんね」
「ええ」
「秘密組織の維持に、普通の店員さんまで必要になるの面白いな」
「本人たちは普通に仕事をしているだけです」
久我はバックヤードのさらに奥へ進んだ。
戻ってきた設備担当者が、壁面の設備盤を開ける。
中には通信機器と電源装置が並んでいた。
「ここから先は、私が確認します」
「お願いします」
設備担当者は戻っていく。
彼にとって、そこにあるのは特殊な防災通信設備だ。
それも間違いではない。
久我が、設備盤の奥にある小さな扉を開けた。
一般的なネットワーク機器と非常用通信装置。その間に、直樹には用途の分からない黒い装置が1台だけ混ざっている。
【S.N.Works】
【広域防災連携端末 B-17】
「S.N.Works製なんだ」
「技術局と共同ですね」
「共同というか、同じ側なんですよね」
「そうとも言います」
「そこも感覚狂うな……」
久我は端末を接続した。
【通信状態:正常】
【電源状態:正常】
【広域連携:正常】
【結界中継出力:基準値内】
【第2補助系統:出力低下】
久我の指が止まる。
「何か出ました?」
「少し」
【第2補助系統】
規定値比:93.8%
「まずい数字です?」
「今すぐは」
「今すぐは」
「放っておけば、いずれ」
久我は過去の点検記録を開いた。
3か月前:98.4%
2か月前:97.1%
1か月前:95.6%
今回:93.8%
「きれいに落ちてますね」
「ええ」
「空想災害の影響とか?」
「確認します」
久我が別の測定項目を開く。
【霊的干渉】検出なし
【外部結界負荷】正常
【異常事象履歴】なし
「現時点では、異常事案へ移行する兆候はありません」
「じゃあ普通の故障?」
「おそらく、接点か内部部品の経年劣化です」
「秘密組織の結界装置も経年劣化するんですね」
「しますよ」
久我は設備担当者を呼んだ。
「第2補助系統の出力が落ちています。予防交換をかけます」
「使用は止めた方がいいですか?」
「主系統は正常です。店舗営業への影響はありません」
「分かりました」
「交換部品はこちらで手配します」
設備担当者が持ち場へ戻るのを待って、久我は端末から保守申請を送信した。
【交換申請】
対象:広域防災連携端末 B-17
部品:第2補助変換ユニット
理由:経年劣化による出力低下の疑い
緊急度:低
交換期限:30日以内
送信
【在庫あり】
【ロジスティーク関東配送網へ手配】
【最短交換可能日:3営業日後】
「もう手配された」
「部品があれば、こんなものです」
「ロジスティーク関東って、あの物流会社ですよね」
「ご存じでしたか。そうです」
「そこも?」
「天水機関専用の会社ではありません。一部の配送業務を請け負っています」
「また普通の会社が増えた」
「普通の会社がないと、部品は届きませんから」
直樹は画面に並んだ名前を見る。
灰嶺損保、Studio Arc、S.N.Works、ロジスティーク関東。保険会社、複合施設、大手技術企業、物流会社。それぞれは普通の社会の中に存在し、その一部が同じ目的のためにつながっていた。
「天水機関って、もっとこう……」
直樹は言葉を探した。
「黒服の人たちが、空想災害が起きるたびに出動する組織だと思ってました」
「そういう部門もあります」
「でも、それだけじゃない」
「それだけでは全国を維持できません」
久我は点検結果を登録した。
【定期保守】
重大異常:なし
軽微不具合:1
部品交換:手配済み
施設運用:継続可能
「終わりです」
「これだけ?」
「これだけです」
「もっと何か起きるのかと思ってました」
「例えば?」
「急に結界が壊れるとか。空想災害が発生するとか」
「そういうことは、そうそうありません」
久我は端末を閉じた。
「というより、そうならないように点検しています」
直樹は、もう一度設備を見る。少し出力が落ちていた部品は、早ければ3営業日後には交換される。店舗は今日も営業を続ける。明日も、その次の日も、おそらく誰も何も気づかない。
「何も起きないのが、仕事の結果なんですね」
「そういう仕事もあります」
◇
Studio Arcを出た時には、午後3時を少し回っていた。
直樹はガラス越しの店内を振り返る。
客がコーヒーを飲み、仕事をし、運動している。誰も、建物の奥にある黒い端末のことなど知らない。
「次はどこです?」
「もう1件あります。夕方までかかりますが、大丈夫ですか?」
「はい。そっちも見学できるなら。次もStudio Arcですか?」
「いえ。S.N.Worksの技術担当と合流します」
直樹の足が止まった。
「本当に?」
「何がです?」
「いや、ちょっと楽しみなんですけど」
久我は車のロックを解除した。
「神原さん、IT系でしたね」
「そりゃそうですよ。今の仕事じゃ、こういう技術を現場で見る機会なんてないですから」
「そういうものですか」
「久我さん、S.N.Worksに慣れすぎなんですよ」
「仕事で付き合いがありますから」
「その環境がもう普通じゃないんですよ」
直樹は助手席へ乗った。
車が走り出す。
直樹にとっては、まだ、秘密組織の日常を覗いてみるだけの話だった。




