藤原律雄と賽の河原のほっこり飯
窓から差し込む柔らかな日差しが、居間の畳を黄金色に照らしている。
藤原律雄は、愛用している分厚い湯呑みを両手で包み込み、ゆっくりと茶を啜った。
ズズッ、という音が静かな部屋に溶けていく。
律雄はかつて、主に京都の小学校で教諭として教鞭を執り続けていた。
子供達の元気な声に囲まれ、黒板に白いチョークを走らせる毎日。
チョークの粉で白くなった指先は、教育者としての誇りそのものだった。
60歳で定年退職を迎えた後は、しばらく同じ小学校で用務員として働いた。
慣れ親しんだ学び舎を、今度は陰から支える日々に心地よい充足感を覚えていたものだ。
そして65歳になり、本当の意味での退職を迎えた。
今は愛する妻と2人、穏やかで静かな老後を過ごしている。
律雄には、既に独立した息子と娘という子供達がいる。
数年前にはめでたく子供が生まれ、孫にも恵まれた。
理想的なおじいちゃんとしての生活。
しかし、年金暮らしだけでは将来に一抹の不安があった。
「まだまだ、体は十分に動くからなあ」
律雄はシニア向けの求人を探し続け、見つけたのが工場の軽作業だった。
カチャカチャ、カチャッ。
午前中の数時間、律雄は工場のラインで部品を丁寧に仕分けていく。
慣れてくると勤務時間も増え、給料も上がった。
「じいじ、ありがとう!」
誕生日に欲しがっていた玩具をプレゼントした時の、あの孫の弾けるような笑顔。
それを思い出すだけで、立ち仕事の疲れなどどこかへ吹き飛んでしまう。
たまに遊びに来てくれる息子達との時間も、律雄にとってはかけがえのない宝物だった。
ふと、律雄はカレンダーに目を向けた。
娘が産んだ一人息子は、ついこの間入学したばかりだと思っていたが、気が付けばもう小学2年生になっていた。
入学祝をたくさん贈った日が、昨日のことのように思い出される。
「小学2年生か……。これからの成長が、本当に楽しみやなあ」
律雄は目を細め、慈しむように独り言を漏らした。
ふと、現役時代の記憶が脳裏を掠める。
「小学2年生……そういえばワシも、1年や2年の低学年を受け持ったことが、ようあったっけなあ」
当時のクラスの様子、教壇から見た子供達の顔、あの子はどんな子だったか……。
律雄は記憶の糸を辿ろうとした。
しかし、どうしたことか。
断片的な光景は浮かんでも、当時の具体的なやり取りや子供達の表情が、霧の向こうに隠れたように上手く思い出せない。
「……おかしいなあ。あんなに毎日、必死やったはずなんやけど」
律雄は少し困ったように眉を下げ、自嘲気味に笑った。
「ワハハ! 流石に60代後半にもなると、もう歳やなあ。小学校におる時は勉強を教え続けてきたから、ずっと気を張ってたけど……。ちょっと緩んでしもたんかなあ」
かつて「藤原先生」と呼ばれ、厳しくも温かく子供達を導いてきたその背中。
今はその緊張の糸がほどけ、ただの優しいおじいちゃんとしての時間が、陽だまりの中でゆっくりと流れていた。
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そんなある日、律雄が休日を穏やかに過ごしていると、スマートフォンのバイブレーションが激しく机を叩いた。
画面には娘の律子の名前が躍っている。
「もしもし、律子か。どないしたんや?」
電話に出た瞬間、鼓膜を突き破らんばかりの泣き叫ぶ声が響き渡った。
「お父さん! 律彦が! し、死んでしまう! 助けて!」
受話器越しに伝わるパニック状態の娘の声に、律雄の全身から血の気が引いていく。
「な、なんやて!? ど、どういうことや!? 怪我か? 事故にでもあったんか!? とにかくあれや、救急車呼びや!」
「あ、そっか!」
短い返事と共に、通話は唐突に切れた。
律子が救急車を呼ぶために電話を切ったのだと即座に理解した律雄は、震える手で妻に「律彦が大変や、すぐに律子の家に行ってる」とメッセージを打ち込んだ。
送信ボタンを叩くように押し、律雄は上着を掴んで家を飛び出した。
アクセルを踏み込む足が微かに震える。
律子の自宅前に到着した瞬間、バタンッ! と重い金属音が響いた。
白い車体の扉が閉じられ、救急車はすぐさま赤い警告灯を激しく回転させ始めた。
ピーポー、ピーポーという耳を刺すサイレンを鳴らし、律彦を乗せたと思しき車体は猛スピードで遠ざかっていく。
律子も恐らく同乗しているだろうと思い、律雄は救急車の後ろを必死に走らせた。
しかし、無情にも信号が赤に変わり、目の前を横切る車列に阻まれて救急車を見失ってしまう。
律雄は一旦、近くのコンビニエンスストアの駐車場に車を止めて待機した。
ハンドルを握る手には脂汗が滲み、心臓が早鐘を打っている。
そこへ、再びスマートフォンが鳴り響いた。
「律子か、今どこや?」
「京都第1病院……っ!」
嗚咽混じりの叫びが、静かな車内に響く。
「京都第1か、よっしゃ、今すぐ行くさかい待っときや。心配せんでもええから。大丈夫やから」
自分に言い聞かせるように、必死に律子をなだめてから電話を切る。
律雄は再びエンジンを激しく吹かし、京都第1病院へと車を走らせた。
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律雄が病院の駐車場に車を止めると、ほぼ同時に律子の夫が姿を見せた。
連絡を受けて勤め先の会社に事情を説明し、早退して駆けつけてきたのだ。
夫は顔面蒼白のまま律雄に短く挨拶を交わし、2人は無言で手術室の前へと急いだ。
手術室の前の椅子には、律子が泣き崩れるようにして座っていた。
律雄と夫の姿に気が付くと、律子は弾かれたように立ち上がり、夫の胸へと泣きながら抱き着いた。
「大丈夫やから、大丈夫やから……」
夫は自分自身に言い聞かせるように、震える律子を強く抱きしめることしか出来ない。
その光景を傍らで見守る律雄の口から、掠れた声が漏れた。
「なんで……こんな……」
どれだけの時間が過ぎたか分からなくなるほどの、長く重苦しい沈黙が廊下を支配した。
カチッ、という小さな音と共に、ようやく「手術中」の赤いランプが消えた。
扉が開き、頭を包帯でぐるぐる巻きにされた律彦が、ストレッチャーで運び出されてくる。
「律彦!」
律子は泣き叫びながら、我が子の小さな体に縋り付いた。
手術を担当した外科医が、疲れの見える表情で静かに口を開く。
「幸い、命に別状はありません。足から落下した衝撃で、右脚の骨は骨折していますが、特に問題なく回復します。また、脚から落ちてから、額も打ってはいたみたいですが、柔らかい土と草の地面だったおかげで、頭はそこまで酷い衝撃は無かったようです」
安堵の空気が、氷が溶けるように廊下へ広がっていく。
「後頭部側から頭を打たなかったのも幸いです。しばらく入院はして貰いますが、きちんと走れるようになります。ただ、頭を打っている事は事実なので、油断は出来ませんが、無茶なことをしなければ大丈夫ですから」
医師の詳細な説明を聞き、律子は「良かった! 良かった……」と、糸が切れたようにその場に泣き崩れた。
夫がその肩をしっかりと支え、何度も頷いている。
律雄は熱いものが込み上げるのを堪えながら、深く、何度も医師に頭を下げた。
「有難う御座いました!」
その後、律彦は無事に病室へ移された。
律子がそのまま付き添うことになり、夫は一旦、律彦の着替えなどの荷物を取りに自宅へ戻っていく。
律雄も孫の命に別条がなかったことに心の底から安堵し、重い足取りで駐車場へと向かった。
車に乗り込むと、律雄は震える指でスマートフォンを取り出した。
心配して待っている妻に、「律彦は心配ないで、大丈夫や」と短いメッセージを送り、送信ボタンを押す。
ふぅ、と1つ大きなため息をつき、律雄は自宅に向かってゆっくりと走らせ始めた。
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翌日。
いつものように工場の仕事を終えてから、律彦の御見舞いへと足を運ぶ律雄。
病室の重い扉を静かに開けると、そこでは入院の手続きや細々とした用事をようやく終えた律子が、ベッドの傍らで一息ついているところだった。
律彦は朝には無事に目を覚まして、午前中の検査でも異常なしと言われ、1週間以内に退院できるとの事だった。
しかし、ベッドの上で力なく横たわり、沈んだ顔をしている孫の姿を見て、律雄は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
「律彦、痛かったなあ。大怪我してしもたもんなあ。律彦にとっては初めての入院するほどの大怪変や、ショックなんは無理もないでな。ゆっくり休みや、学校とかは心配せんでええから」
律雄は努めて明るい声を作り、慈しむように優しく声をかける。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、律彦の小さな肩が「学校」という言葉にビクッと激しく反応した。
律雄は、てっきり友達と会えないことが寂しいのだろうと思い込んだ。
「友達と会えんで寂しいか? すぐ退院出来るって病院の先生もいうてはったから、そんな心配せんでもええよ。おじいちゃんが退院するまで毎日顔出すさかいな」
律雄が孫の頭を優しく撫でると、今度は「先生」という言葉に、律彦は先ほどよりもさらに大きく身を震わせた。
「……先生、怒る? 学校の先生は……さぼってるとか、怒る?」
掠れた小さな声で律彦が漏らした問いに、律雄は優しく笑って首を振った。
「大怪我して入院してんのに、怒るかいな。おじいちゃんも学校の先生やったけどな、入院とか風邪で休んでる子らを怒った事なんて1回もあらへんで」
律雄は孫の不安な心の内を察し、傍らに立つ律子へ静かに向き直った。
「やっぱり、初めて骨折るような大怪我してしもて、初めての入院で不安なんやな。色んな事を悪い方に考えてしもてる状態や。律子も、よう観といてあげてや」
「うん、有難う、お父さん。ふふ、律彦、おじいちゃん毎日来てくれるって。良かったな」
律子が微笑みながら声をかけたが、律彦は依然としてうつむいたままで、その表情が晴れることはなかった。
律雄は、孫が受けた精神的なショックの深さを改めて実感しながらも、無事に目を覚ましたことに一筋の安堵を覚えた。
少しの間、他愛のない話をしてから、律雄は「また明日な」と言い残して病室を後にした。
夕暮れの空が街を赤く染める中、車に乗り込み、律雄は自宅へと続く道を静かに走り始めた。
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律雄はこの日は14時まで仕事があり、仕事を終えて遅い昼食の後、病院へ向かう。
医者からは「あまり甘い物は食べさせないで下さいね、お孫さんが可愛くて心配なのはわかりますけど」と釘を刺されていたので、今日は菓子折りではなく、瑞々しい花だけを持ってやって来た。
病室の扉を静かに開けると、そこには声を殺して涙を流している律彦と、必死にそれをなだめる律子の姿があった。
「律彦、おじいちゃんやで」
律雄は花瓶に花を丁寧に入れてから、傍らの椅子に腰を下ろして、泣いている律彦を優しい眼差しで見つめる。
「なんや、痛みがひどいんか?」
律雄が問いかけると、律子は震える声で、信じられない言葉を口にした。
「……このまま、もっと大怪我をすれば学校に行かなくて済むのにって言いだして……」
「え? なんや、学校行きたくないんか? 友達と喧嘩でもしたんか?」
律雄が困惑して聞き返すと、律彦が顔を伏せたまま、消え入りそうな声で呟いた。
「……先生、長谷先生に……怒られるの、嫌や」
律子が、先ほど律彦からようやく聞き出したという凄惨な真実を、涙ながらに話し始めた。
「さっき、長谷先生からやられてることを、ようやく話してくれてん……そんで、怪我したんは……窓から飛び降りたからやって……」
「……っ!」
衝撃の告白に、律雄の呼吸が止まった。
「……ごめんなあ、そんなに学校の事で思い悩んでたとか、気付いてやれんで、母親やのに……」
律子の目から、大粒の涙がポロポロと溢れ出した。
「ど、どういうこっちゃ!? 長谷先生ってのは、なんなんや!?」
律雄が驚愕して問い詰めると、律子は震える肩を抱きしめるようにして訴えた。
「長谷先生は、担任の先生で……特に今回の運動会の演目で、ダンスの演目なんやけど、やたら目付けられて、いきなり突き飛ばされて『たるんどる。お前はいらん、参加は許さん』って言われて……。飛び降りた日は、学校で体育の時間に着替えようとしたら『参加するなって言ったのに何やっとんねん』って殴られたって……」
「なんやそれ!? なんちゅう奴じゃ! そんなん教師のする事やないぞ!」
律雄の全身に、かつてないほどの激しい怒りが駆け巡った。
「儂は元教師じゃ! 教師の先輩として、その担任を教育したるわ!」
ドンッ、と律雄は力強く膝を叩き、病室の空気を震わせるような怒声で叫んだ。
「律彦、もう心配あらへん! おじいちゃんが守ったるからな! これは立派な体罰や、そんな奴は教師なんかやったらあかん!そんな奴は、この おじいちゃんがはり倒したるさかい、安心しいや!」
怒髪天を突く勢いで立ち上がった律雄は、一刻の猶予もないとばかりに、病室を飛び出した。
バタンッ! という激しい扉の音が、廊下に長く響き渡った。
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律雄は、車を走らせて律彦が通う間上鳥羽小学校に入っていく。
くしくも、かつて自分も教壇に立ったことのある小学校だった。
建物の様相は綺麗に改築されており、以前とは変わっていたが、風に乗る匂いや廊下の空気感にはどこか懐かしさを感じる場所だった。
しかし、今の律雄の心にあるのは過去への郷愁ではなく、孫を傷つけた男に対する激しい憤りだけだった。
バタンッ!
職員室の扉を勢いよく開け放ち、律雄は中に飛び込んだ。
「私は藤原律雄です! 律彦、鳥羽律彦の祖父です!」
律子が結婚して苗字が変わっているため、混乱させぬよう自分と孫のフルネームを正確に名乗る。
対応した教頭が、戸惑いながら首を傾げた。
「鳥羽君の、おじいさん、ですか?」
「そうです! この学校で律彦が不当な体罰を受けたさかい、担任の長谷先生に抗議しにきたんですわ! 長谷先生はどこのどいつや!」
律雄の怒声が、静まり返った職員室に響き渡る。
「長谷先生は……昨日、辞表を出して、教員免許も捨てるって言うて……」
教頭の弱々しい言葉に、律雄は耳を疑った。
「な、なんやて!? どういうこっちゃ!?」
「どうもこうもあらしませんよ、藤原さん」
背後から、低く、冷徹な響きを持つ声が届いた。
振り返ると、そこには教職者とは思えない風貌の男が立っていた。
革ジャンにデニムのズボンを着用し、黒髪をスポーツ刈りにした体格の良い40代後半くらいの男性。
律彦の担任、いや、元担任の長谷雅也だった。
その手には、鮮やかな花束が握られている。
「最後に、お参りだけしにきたら、ほんま……どういう因果やろね」
「長谷先生……」
教頭が呆然と呟くが、長谷は一瞥もくれない。
「教頭、俺はもう、教師やあらへんから。その資格も捨てたし、人間としても教師をやる資格はあらへんから教師に戻るつもりはないし、戻って来たわけやないですよ」
長谷は、憎しみを押し殺したような鋭い眼差しで律雄を射抜いた。
「最後に『墓参り』しに来てん。俺の復讐も終わったから」
「墓参り……? 復讐やと? 何を言うてんねん!」
「藤原さん、一緒に来いや。お前だけは、絶対に来なあかん」
長谷はそれだけ言い放つと、迷いのない足取りで職員室を出て、校舎の裏手へと歩き出した。
「ちょ、どういう意味じゃ! 待たんかい!」
律雄は混乱と焦燥に突き動かされるように、慌ててその後を追いかけた。
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長谷は迷いのない足取りで2年2組の教室へと入り、窓際の一番前の席に、持っていた花瓶を静かに置いた。
そこは、紛れもなく律彦が座っている席だった。
「お前に殺されかけた律彦はまだ生きとるわ! 縁起でもない事すんなや!」
激昂した律雄は、長谷の胸倉を力任せに掴み上げた。
しかし、長谷はいとも簡単にその手を押し返し、律雄を壁際に強く押し付けた。
ドォン! という鈍い衝撃が律雄の背中に走る。
「そりゃよかったなあ、お前の孫は死なずに済んで」
長谷は冷徹な眼差しで、至近距離から律雄を睨みつけた。
そして次の瞬間、教室の空気が震えるほどの凄まじい怒鳴り声をあげた。
「あいつは、お前に殺されたのにな!」
長谷がぱっと手を放すと、勢いを失った律雄は力なく床に尻餅をついた。
「な、何を、言うとるんや。儂が、殺したって? 儂は、誰も殺してへん……」
震える声で否定する律雄を見下ろし、長谷は吐き捨てるように言葉を重ねた。
「お前にとっては、俺とあいつは……『智哉』は、その他大勢のガキやったんやろうけどなあ……智哉はお前に殺された被害者で、俺はお前を恨み続けた男じゃ!」
長谷の言葉は、鋭い刃のように律雄の胸に突き刺さる。
「そんで……俺はお前の孫に、おんなじ目にあわせた。そしたらお前の孫は、智哉とおんなじことしよった。智哉とお前の孫は飛び降りた。そんで、お前の孫は生き残って……智哉は死んだ」
その言葉を聞いた律雄は、目を白黒させる。
「覚えてへんのか……無責任もええとこや、それでよく、定年まで教師として勤めあげられたな」
長谷は蔑みの色を隠そうともせず、吐き捨てるように言った。
「俺の言う事がどういうことか知りたいって言うんやったら、お前が自分で思い出せ。話はそれからや」
長谷は花に向かって静かに合掌し、深くお辞儀をしてから、律雄を置き去りにして教室から出ていった。
放課後の静まり返った教室で、律雄は床にへたり込んだまま、立ち上がることもできなかった。
「……儂が、殺した……? 誰、を? 智哉って、誰や……」
呟く声は虚しく響くだけだった。
その名前は、律雄の記憶の深い底に沈んだまま、どうしても浮かび上がってはこなかった。
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律彦はようやく立ち上がり、教室から出て駐車場までフラフラと辿り着き、車に乗ってゆっくりと運転して、ようやく家に帰って来た。
リビングに行くと、「律子を手伝いをするため、あの子の家に行っています」と、妻の書置きを見つける。
夕食は自分で何とかしなければならなくなり、もう1度家を出て鍵をかけ、何となく車には乗る気になれず、そのままとぼとぼと歩いて行く律雄。
律雄の頭の中では、先ほどの長谷の言葉が、重い鐘の音のように何度も何度も響いていた。
「智哉」という名、そして「お前に殺された」というあまりに重すぎる言葉。
必死に記憶の引き出しを片端から開けてみるが、教育者として向き合ってきた膨大な数の子供達の顔が混ざり合い、霧がかかったように肝心な部分が思い出せない。
自分が何かを取り返しのつかない形で踏みにじってしまったのではないかという、正体の知れない恐怖が、足元からじわじわと這い上がってくる。
すっかり日が沈んだ時間帯、街灯の光がアスファルトを頼りなく照らしている。
ふと前を見ると、まん丸目で口を台形に空けた、銀髪の長い髪に黒いベレー帽をかぶったズボンタイプの黒いセーラー服姿の小柄な女の子が、律雄をジーっと見ている。
その視線はあまりに真っ直ぐで、律雄は思わず足を止めた。
「御嬢ちゃん、どないした? 迷子か?」
かつて教師だった頃の習慣が染みついているのか、律雄は自然と、子供を安心させるような優しいトーンで声をかける。
しかし、女の子は表情を変えることなく、ただ一言、不思議な言葉を漏らした。
「えらいこっちゃ」
「なんや、えらいこっちゃって、なんか困りごとか?」
律雄は少し困ったように眉を下げて尋ねる。
「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や。えらいこっちゃ」
「そうか。それで、えらいこっちゃんは、これから塾か? それとも、1人で晩御飯でも食べに行くんか?」
律雄が重ねて尋ねると、女の子はどこか大人びた口調で返した。
「これから食堂仕事に就くとこや。夕飯の予定が未定は、えらいこっちゃ」
「なんや、食堂でバイトしとるんかいな。そやなあ、丁度儂も夕飯食べに家から出て来たところやさかい、御嬢ちゃんの店で食べよかな」
律雄が少しだけ口角を上げてそう言うと、えらいこっちゃ嬢は律雄の大きな手を、自身の小さな手でぎゅっと握り締めた。
「えらいこっちゃなじいちゃん御1名!」
少女の声が夜の空気に凛と響く。
彼女はそのまま迷いのない足取りで、律雄の手を引いてまっすぐ歩き出した。
律雄はその小さな温もりに導かれるまま、深い夜の闇の中へと、ゆっくりと踏み出していった。
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えらいこっちゃ嬢に連れられて、暫く歩き続けた律雄。
すると、闇の中に「摩訶不思議食堂」と鮮やかに書かれた、木造のとても綺麗で立派な建物が見えてくる。
周囲の喧騒を忘れさせるような、静謐で堂々とした佇まいの建物だった。
えらいこっちゃ嬢は迷いなく重厚な扉を開いて中に入り、「えらいこっちゃなじいちゃん御1名!」と元気な声を張り上げた。
彼女に促されるまま、律雄は磨き上げられたカウンター席へと案内される。
えらいこっちゃ嬢はそれを見届けると、トテトテと小気味よい足音を立てて奥へ消えていった。
律雄がどっしりとした木の椅子に腰を下ろすと、カウンターの向こうから、ぬうっとお地蔵さんが顔を出した。
お地蔵さんは、「ようこそ、いらっしゃいまし。私はこの店の店長を務めさせて頂いております。皆さんからは、地蔵店長と読んで頂いております。」と合掌してお辞儀をしながら、ニコニコと優しい笑顔で挨拶をした。
あまりに予想外な店主の姿に、律雄は一瞬言葉を失った。
「は、はあ……儂は、藤原律雄と申します。」
律雄は戸惑いながらも、長年の習慣で丁寧に応じた。
店内を見渡すが、およそ料理屋らしい活気よりも、寺院のような清らかな空気が流れている。
「えっと、御品書きとか、メニューはないんですか?日本の料理屋とか居酒屋でよく見る、あの木の板に『焼き鳥』とか書いてある、ああいうのはないんですね。」
すると、いつの間にか黒い着物の上に真っ白な割烹着を重ね、ベレー帽を被ったえらいこっちゃ嬢が再び現れた。
彼女はトテトテと近づいてくると、律雄の目の前にスッと1冊のメニューを差し出す。
律雄がそれを開くと、そこには達筆な文字でただ1行、「昔懐かし給食セット」とだけ書かれていた。
「お、昔懐かしの給食かいな。ははは、儂は元教師やからな、給食は懐かしく思うでな。よっしゃ、これ1つ、お願いします。」
懐かしい響きに誘われ、律雄は少しだけ顔を綻ばせてメニューをえらいこっちゃ嬢に返した。
えらいこっちゃ嬢は、「えらいこっちゃな懐かし給食1丁!」と威勢よく叫んで、また奥へ引っ込んでいく。
奥からは、カチャカチャ、カチャン。
食器が擦れ合う、どこか懐かしく規則正しい音が響いてきた。
それは、かつて律雄が毎日耳にしていた、あの小学校の昼食時の喧騒を思い出させる音だった。
その音を聞いているうちに、長谷に突きつけられた「殺した」という言葉で泥のように重く沈んでいた律雄の心が、不思議と少しずつ軽くなっていくような感覚を覚えた。
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暫く待つと、えらいこっちゃ嬢が銀色のお盆に給食セットを乗せて持ってきてくれた。
カタッ。
彼女は丁寧に、律雄の目の前にお盆を置く。
えらいこっちゃ嬢は、凛とした声で言った。
「合掌頂きますは、給食の基本。やらん礼儀知らずは、えらいこっちゃ。」
彼女が小さな手を合わせ、合掌のポーズを取る。
「あはは、そやな。儂も子供達と一緒に、よう合掌してから頂きますしたもんやで。」
律雄もそれに応じ、静かに両手を合わせた。
「頂きます。」
律雄は、目の前に広がる懐かしい給食に、かつてないほど心が躍るのを感じた。
お盆の上には、独特な形をしたコッペパンとマーガリン。
湯気を立ち昇らせているのは、野菜がたっぷりと入った栄養満点の熱々なホワイトシチューだ。
副菜には胡瓜とわかめの酢の物。
そして、三角形のパックに入った牛乳が添えられている。
まさに典型的な給食の姿であり、昭和の香りを強く連想させる。
律雄は「もう40年ほど前の、まだ昭和やった時代を思い出すなあ・・・このコッペパンも、懐かしい形やで。それに、この先がフォークの形になったスプーン、子供達は『スプーンフォークや』って言うとったなあ。」と懐かしんで目を細める。
先がフォーク状になった懐かしいスプーンを手に取り、まずはシチューを一口食べた。
ホカホカの温もりが、冷え切っていた律雄の五臓六腑に染み渡る。
「美味い! 和食の店やと思ってたけど、養殖も絶品なんやなあ、凄く美味いシチューやで。」
律雄は感嘆の声を漏らした。
続いて、胡瓜とわかめの酢の物を口に運ぶ。
シャキシャキとした食感と絶妙な酸味が、シチューのコクを引き立てる。
「これも絶品や。シチューで洋風の料理も絶品やと思ったけど、やっぱり和食の佇まいなだけあって、この酢の物も絶品やなあ。」
律雄は感激し、無我夢中で食べ進めた。
シチューを最後の一滴までコッペパンに付けて綺麗にさらえ、パンのほんのりとした甘みも噛みしめる。
三角形の牛乳も、懐かしい感触を楽しみながら綺麗に飲み干した。
最後の一口を飲み終え、律雄は深く満足した。
彼はもう1度静かに両手を合わせる。
「御馳走様でした。」
律雄は、晴れやかな笑顔を浮かべ、丁寧にお辞儀をした。
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カチャリ、と小気味良い音を立てて、えらいこっちゃ嬢が空になったトレイを下げていく。
給食を綺麗に完食した律雄の満足感を見透かしたかのように、彼女はすぐに次のトレイを運んできた。
運ばれてきたのは、表面に繊細な氷の結晶が張り付いた冷凍蜜柑と、どこか懐かしい佇まいのカスタードプリンだ。
彼女はそれを、律雄の目の前へと丁寧に、音を立てずに置いた。
「給食のデザートは、教室がえらいこっちゃな騒ぎになるくらい、子供達のお楽しみ。」
えらいこっちゃ嬢が、淡々と、しかしどこか核心を突くような口調でそう言った。
律雄は、その言葉に思わず破顔した。
「あはは、確かに!大体1個余って、じゃんけんで争奪戦が始まったもんやで。懐かしいなあ、ほんま、楽しくて可愛らしい時間やったでな。」
かつて教壇から眺めた、デザート1つに一喜一憂する子供達の無邪気な姿が、鮮明に脳裏に蘇る。
律雄は、まずはプリンのビニールの蓋をぺりぺりと音を立てて慎重に剥がした。
独特の甘い香りがふわりと鼻先をくすぐる。
先が分かれたフォークスプーンを使い、ぷるんとした弾力を楽しみながら、一口ずつ大切に口へと運んでいく。
プリンを平らげると、次はデザートの真打ち、冷凍蜜柑だ。
指先に伝わるチリチリとした冷たさが、心地よい刺激となって律雄の感覚を研ぎ澄ませていく。
パリ、シャリ、と皮を剥くたびに、凍った果肉の爽やかな香りが弾けた。
「そうそう、この、ちょっと氷が張るくらいの冷凍蜜柑、何もかもが懐かしいで。」
律雄が目を細め、至福のひと時に浸りながら微笑んでいると、それまで黙って見ていたえらいこっちゃ嬢が静かに口を開いた。
「えらいこっちゃ。じいちゃんが昔のこと思い出し始めてる。」
「そりゃあなあ、こんな懐かしい給食セットを食べたら、思い出すで。給食のおばちゃんが、ごっつい鍋に、ごっついしゃもじ突っ込んで、丹精込めてかき回しててなあ。あの蒸気の匂いまで思い出せるくらいや。」
自らの黄金時代を語る律雄の口調は滑らかだった。
しかし、えらいこっちゃ嬢の視線は、冷徹なまでに鋭く律雄を射抜いた。
「ええ思い出だけ思い出して、思い出さなあかん事は忘れたまま。都合よすぎる脳みそと記憶力、えらいこっちゃ!」
少女の言葉が、氷水のように律雄の背筋を駆け抜けた。
「え?」
律雄は、手に持った蜜柑を止めたまま、目をぱちくりとさせて彼女を見つめる。
何かの冗談かと思ったが、彼女の瞳に笑みは一切なかった。
「自分のやらかしたことは忘れてしもてる、えらいこっちゃな都合よさ!」
びしっ、と小さな指先が律雄の鼻先を指し示す。
「え、え? えらいこっちゃん、一体、何を。」
言いかけた、その瞬間だった。
ドクン、と心臓が大きく波打った。
穏やかだった食堂の景色が、まるでガラスが砕け散るかのように歪んでいく。
脳裏に突如として現れたのは、あの小学校の教室で見た、長谷雅也の鬼のような形相だった。
血管が浮き出た額、憎悪に燃える瞳、そして自分を壁に叩きつけた時の凄まじい力。
『あいつは、お前に殺されたのにな!』
耳元で、長谷の怒鳴り声が地鳴りのように響き渡り、律雄の五感を麻痺させていく。
「あ……あ、あ……。」
律雄の手から、半分剥きかけた冷凍蜜柑がポロリと皿の上に落ちた。
ガタガタと全身の震えが止まらない。
幸せな老後という仮面が剥がれ落ち、自分が目を背け続けてきた「何か」が、暗い泥の底から這い上がってくる。
「智哉」という名、そして自分が教師として下した「ある行動」の断片が、鋭い破片となって律雄の心を切り刻み始めた。
律雄は、ただただ狼狽し、脂汗を流しながら、逃げ場のない過去の深淵に引きずり込まれていった。
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「長谷は、儂が人殺しやみたいなことを言っとった……。でも、儂は誓って、誰も殺してない!絶対に!そもそも、そんなことしたら、捕まってて教師なんて続けられてるはずがない!定年まで勤めあげる事なんて出来ひんかったはずや!」
律雄は、皿の上で冷え切った冷凍蜜柑を血走った目で見つめながら、己の頭を掻きむしるように抱え込んだ。
脂汗が額から滴り、カウンターの木目に吸い込まれていく。
数十年の教員生活の中で、子供を叱ったことはあっても、命を奪うような大それた真実が入り込む余地などあるはずがないのだ。
えらいこっちゃ嬢は、そんな律雄の錯乱ぶりを冷めた目で見つめ、小さく首を振った。
「ほんまに殺人犯やったら、えらいこっちゃ。」
その淡々とした口調が、かえって律雄を追い詰めていく。
「儂はほんまに、誰も殺してへんで! 信じてや! 逮捕歴も無ければ、前科もあらへんで!」
必死に無実を叫ぶ律雄の横顔は、老いへの不安と過去の亡霊に怯える哀れな老人のそれだった。
すると。
ガラガラガラッ……
静寂を切り裂くように、食堂の引き戸が勢いよく開く音が響き渡った。
「おつー♪ ご依頼の用事しにきて、御飯も食べに来たよー♪」
軽快な、およそこの世のものとは思えない陽気な声と共に、1人の超が付く美少女が姿を現した。
黒地に金色の花の刺繍が贅沢にあつらえられた美しい着物を着用した、女子高生くらいの年頃の若い金髪のお嬢さんだ。
金色の瞳を輝かせ、頭の両側からは黒い日本の鎌状の角が左右に生えており、金色の長い髪をシュシュで左側にサイドテール状に束ねている。
和風な装いながら、言葉遣いや雰囲気はいかにも現代の「ギャル」そのものだった。
えらいこっちゃ嬢が、ぶんぶんと手を振って彼女を迎え入れる。
「女鬼ねえちゃん、えらいこっちゃな急なお勤め、御疲れちゃん!」
女鬼と呼ばれた、この世ならぬ美しさを持つ鬼の娘は、にこりと笑って応えた。
「えらいこっちゃん、おつー♪ あはは、他の鬼さんとか、極卒の面々は何かと忙しいし、赤鬼さんは今回はあっちを担当してくれてるし、倶生神さんは閻魔さんから離れられないからねー、あーしが来たよ♪」
女鬼は慣れた足取りでカウンターへと近づいてくる。
えらいこっちゃ嬢が、律雄に向かって得意げに彼女を紹介し始めた。
「女鬼ねえちゃんは、閻魔大王も地獄極楽のお偉いさん達も頭が上がらん、めっちゃシゴデキ鬼の姉ちゃん! 細マッチョで喧嘩の強さも地獄一の、えらいこっちゃなエリート鬼さん!」
「あはは、お褒めに預かり光栄の至り、なーんてね♪」
女鬼は茶目っ気たっぷりに笑った後、ふと律雄に視線を向けた。
「お、例のおじいちゃん、もう来てたんねー。おじいちゃん、よろー♪」
パチン、と片目を瞑ってウインクを投げる彼女に、律雄はただ圧倒されるばかりだった。
「あ、ああ、宜しく……?」
律雄は目を白黒させ、この奇妙な空間の住人たちに翻弄されるしかなかった。
女鬼は地蔵店長とえらいこっちゃ嬢に向かって、風呂敷の中から何かを取り出そうと手を動かした。
「地蔵店長、えらいこっちゃん、例のもの、倶生神さんから写しをばっちり借りて来たよ♪」
ウインクと共にVサインを決め、彼女は律雄の隣の席に腰を下ろした。
机の上に、大切そうに抱えていた黒い風呂敷袋を広げる。
中から出てきたのは、古びた、しかし重厚な空気を纏った折本のようなものだった。
表紙には、黒い墨で書かれた文字でこう記されている。
「過去帳一部写し:藤原律雄」
律雄は、その文字を見た瞬間に息を呑んだ。
「これ、過去帳? いや、過去帳って、死んだ人の名前が書いてあるような……。いや、儂はまだ死んでないで? ピンピンしてるし、工場で働いてる現役や!」
慌てて自分自身の体を叩き、生きていることを証明しようとする律雄に、女鬼は人差し指をピッと立てて制した。
「ノンノン、おじいちゃんの生前の話ってわけじゃないから安心していいよ。」
女鬼の金色の瞳が、どこか哀れみを含んで細められた。
「でもまあ、そうだねえ……。生きてる方がつらくなるかもねー。」
その言葉の真意が理解できないまま、律雄は目の前に置かれた「自分自身の記録」を、恐怖に震えながら見つめることしかできなかった。
---
「それは、一体どういう……。」
律雄が掠れた声で呟くと、えらいこっちゃ嬢がどこからか大きな盃と、1本の炭酸水の瓶を持ってきた。
彼女は無言のまま、その重厚な盃を律雄に手渡し、炭酸水の瓶を女鬼に渡す。
訳も分からぬまま、律雄は促されるがままに両手でしっかりと盃を保持する。
そこへ、先程までギャル全開だった女鬼が、音もなく近づいてきた。
彼女はそれまでの奔放な態度が嘘のように、背筋を伸ばし、恐ろしいほどに丁寧で美しい所作で、炭酸水を盃に注ぎ始める。
トクトクトク……。
澄んだ透明な音が、静まり返った店内に響き渡る。
「絶対、水面から目を離しちゃ駄目だよ、おじいちゃん。目を逸らしちゃいけないよ。」
女鬼は、一切の遊びを排した真剣な眼差しで注意を促すと、パチン、と指を鋭く鳴らした。
その乾いた音が合図となり、盃の中で暴れていた炭酸の気泡が、魔法のように徐々に収まっていく。
やがて鏡のように平らになった水面に、何かがおぼろげに映り出した。
「これは……若い頃の、儂か?」
それを見た律雄は、驚愕のあまり盃を落としそうになり、指先に力を込めた。
水面には、20代後半から30代前半だろうか、血気盛んで自信に満ち溢れた表情をした若き日の律雄が映っていた。
場所はどこかの小学校の運動場だ。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
青空の下で、大勢の子供たちが元気よく行進をしている。
「全体、止まれ!」
若い律雄の声が響くと、子供たちはその場で元気よく足踏みを始めた。
全員が綺麗に足を上げ、一糸乱れぬ動きを見せている。
しかし、その集団の中に1人だけ、僅かにリズムを崩した少年がいた。
短髪で活発そうな、見るからにやんちゃ盛りの少年だ。
バシンッ!
水面から、乾いた打撃音が響いた。
若い律雄が、迷いなくその少年の頬を平手で叩いたのだ。
「な!?」
現代の律雄は、あまりの衝撃に絶句する。
水面の中の若い律雄は、頬を赤く腫らして泣き出しそうな少年の襟首を乱暴に掴み、引きずっていった。
何かを激しく怒鳴り散らし、少年の背中を突き飛ばす。
少年は運動場の端っこで、1人寂しく体育座りをさせられていた。
シュ、と水面が揺れ、場面が切り替わった。
また同じような行進の練習風景だ。
先程の短髪の少年は、最初から不貞腐れたような顔で、端の方に体育座りで座らされている。
他の子供たちは、再び元気よく足踏みを繰り返していた。
すると、列の端で懸命に足を上げている、少し髪が長めの少年が映し出された。
綺麗な顔立ちをした、いかにも大人しそうな少年だ。
元気よく、綺麗に行進していて、何処も非の打ち所がない。
そして…。
ドォン!
若い律雄が、その少年に向かって体当たりをするように激しくぶつかった。
華奢な少年は無残に地面へ叩きつけられ、泥だらけになる。
「な、なんやこれ!? 何しとるんや儂は!」
律雄は悲鳴に近い声を上げた。
水面の中の若い律雄は、泥に塗れて泣いている少年をさらに怒鳴り散らす。
怯えて泣きながら震えあがっている少年を、先程のやんちゃな少年の隣へと乱暴に追いやってしまった。
「こ、これが……ほんまに、儂なんか?」
律雄は、自分の記憶にある「慈悲深い教師」としての自己像が、音を立てて崩壊していくのを感じた。
水面に映る冷酷な自分の姿を前に、律雄はただただ驚き、全身を激しく震わせるしかなかった。
---
女鬼が再び、パチンッと小気味良い音を立てて指を鳴らした。
盃の中の水面が激しく波打ち、次の瞬間、今日まさに長谷と2人で足を踏み入れたあの2年2組の教室が映し出される。
そこには、今よりもずっと若く、血気盛んな律雄が立っていた。
「やる気がないならさっさと着替ろ!体操服なんて着るな!そして、二度と体育には出るな!」
若い律雄の声が、教室内に劈くように響き渡る。
やんちゃな少年が、震える手で渋々と体操服に着替え始めると、若い律雄は突如としてその少年を殴り飛ばした。
ゴッ、という鈍い音が水面から漏れ聞こえる。
「何で着替えるんだ!」
理不尽な怒号が教室を支配し、少年は床に転がったまま呆然としていた。
「理不尽極まりなし、えらいこっちゃ!」
えらいこっちゃ嬢が、吐き捨てるように言い放つ。
律雄は、自身の目を疑い、激しい目眩に襲われた。
「ほ、ほんまや、着替えろって言うて着替えたら殴るとか、何考えとんにゃ!?」
自らの過去の行いに対し、現代の律雄は叫ぶしかなかった。
しかし、水面の中の暴挙は止まらない。
若い律雄はさらに少年の体に何発もの拳を沈め、一方的な制裁を加えていく。
それを見ていた大人しい方の少年は、止めることもできず、ただ立ち尽くしてボロボロと大粒の涙を流すばかりだった。
その後、若い律雄は何やら自分勝手な説教を垂れ流し、ようやく「許してやった」という傲慢な態度を見せる。
キーンコーンカーンコーン。
授業の終わりを告げるチャイムの音が、虚しく教室に響き渡った。
女鬼が再びパチンッと指を鳴らすと、またもや場面が移り変わる。
今度は、また子供たちが元気に更新している場面だった。
しかし、何かが決定的に異なっていた。
例のやんちゃな少年の顔が、以前の面影を失うほどに険しく、その瞳にはどす黒い憎悪が宿っている。
まるで別人のような表情で、彼は機械的に足を動かしていた。
そして、どこをどう探しても、あのおとなしい少年の姿はどこにも見当たらない。
「あのおとなしそうな男の子は、どこ行ったんや?」
律雄が震える声で尋ねると、女鬼は静かに口を開いた。
「ちょいと失敬。」
彼女は律雄から盃を受け取ると、音を立てずにカウンター席のテーブルに置いた。
その瞬間、先程までの可愛らしく美しい「ギャル」の笑顔が、消えた。
ピキピキと額に青筋が浮かび上がり、女鬼の表情は一変する。
それはまさに鬼の形相、地獄の業火を宿した本物の鬼そのものの姿だった。
彼女は無言で手を伸ばすと、律雄の胸ぐらを力任せに掴み上げた。
グイと引き寄せられた律雄の至近距離で、女鬼の金色の瞳が冷酷な光を放つ。
「あのおとなしそうな男の子が、今どこで何してるか、マジで知りたい?」
地を這うような低い声が、律雄の鼓膜を震わせる。
あまりの迫力と逃げ場のない恐怖に、律雄は言葉を失い、ただ無言で何度も頷くことしか出来なかった。
---
女鬼は、掴んでいた律雄の胸ぐらをパッと放すと、流れるような動作で黒い風呂敷の中から1台のタブレット端末を取り出した。
その白く細い指先が液晶の上を優雅かつ鮮やかに滑り、手際よく設定を操作していく。
彼女は端末を横向きにすると、律雄の目の前のカウンターへ、事もなげに立てかけた。
液晶が淡い光を放ち、そこに映し出されたのは、どこまでも続く荒涼とした河原の風景だった。
画面の中には1匹の巨大な赤鬼が、仁王立ちで視線を下へと落としている。
その視線の先、冷たい風が吹き抜ける石の山の傍らで、先程の過去帳の映像にいたあの大人しい少年が白装束を着て、震える手で1つ、また1つと小石を積み上げていた。
「この映像、向こうでさ、賽の河原担当の地蔵菩薩さんが、リアルタイムで撮影してくれてるんよね。」
女鬼がさらりと言ってのけると、律雄は弾かれたように顔を上げ、カウンターの向こうの地蔵店長を見上げた。
地蔵店長は、相変わらず慈愛に満ちたお地蔵さんの笑顔を浮かべたまま、何も語らずにただ静かに合掌し、深々とお辞儀を返した。
律雄は言葉を失い、再び吸い寄せられるように視線をタブレット端末へと戻した。
画面の中では、少年がようやく自分の背丈ほどまで積み上げた石の塔を、傍らの赤鬼が無慈悲な足蹴りで粉々に蹴り飛ばした。
ガラガラ、崩れ落ちる乾いた音がスピーカーから響く。
「な!? 折角積み上げたのに、何しよるんや!? 理不尽な! 余りにも酷い……!」
律雄は思わず叫び声を上げ、身を乗り出した。
しかし、画面の中の少年は声を上げて泣くこともなく、再び虚ろな表情で、崩れた石を拾い集めて積み上げ始める。
そうして一定の高さまで来ると、またもや赤鬼が太い脚で石の塔を無惨に蹴散らした。
「なんて理不尽な……。あの子が、一体何をしたって言うんや……。」
律雄の愕然とした声を聞き、女鬼は冷めた金色の瞳を向けた。
「賽の河原について、おじいちゃんは聞いた事ある?」
「え? ……いや、なんか、地獄って言うか、あの世にそんな話があったような……。親より先に死んだ子が、親不孝の報いで石を積まされるっていう、あやふやな記憶ならあるけど……。」
律雄は、あまりにも目の前の光景が残酷すぎて、記憶の糸を辿ることすら容易ではなかった。
「まあ、おじいちゃんくらいの年でも、知らない人がいるのも無理ないよね。今の時代、誰もそんな不吉な話、子供に聞かせないしねー。」
女鬼はどこか呆れたように溜息をつくと、再び風呂敷の中に手を伸ばした。
彼女が取り出したのは、古びた、しかし凛とした風格を漂わせる1冊の折本だった。
その表紙には、墨痕鮮やかにこう記されていた。
「賽の河原地蔵和讃:現代版」
その文字が、まるで律雄の犯した過去を裁く断罪の書のように見え、彼はただ震える唇を噛み締めていた。
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鬼女は手元の黒い風呂敷から「賽の河原地蔵和讃:現代版」と題された重厚な折本を取り出すと、迷うことなく律雄の手元へと差し出した。
シュッ、と微かな紙の擦れる音が、静まり返った店内に鋭く響く。
律雄が震える指先でその最初のページをめくると、右側には古めかしい墨書きの原文が、左側にはそれを現代の言葉で噛み砕いた訳文が丁寧に記されていた。
すると、カウンターの向こう側で地蔵店長が静かに目を閉じ、深く重みのある、それでいて慈悲深い声で和讃を暗唱し始めた。
「これはこの世の事ならず 死出の山路の裾野なる 賽の河原の物語 聞くにつけても哀れなり。
二つや三つや四つ五つ 十にもならぬみどり児が 賽の河原に集まりて 父上恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とはこと変わり 悲しき骨身を通すなり。
かのみどり児の所作として 河原の石を取り集め これにて回向の塔を積む。
一つ積んでは父のため 二つ積んでは母のため 三つ積んでは古里の 兄弟我が身と回向して 昼は一人で遊べども。
日も入り合いのその頃は 地獄の鬼が現れて。
『やれ汝は何をする 娑婆に残りし父母は 追善作善のつとめなく ただ明け暮れの嘆きには 酷や悲しや不憫やと 親の嘆きは汝等が。
苦患を受くる種となる 我を恨むる事なかれ』。
黒がね棒を取りのべて 積たる塔をおし崩す。
そのとき能化の地蔵尊 ゆるぎ出でさせ給いつつ。
『汝等いのち短くて 冥途の旅に来るなり 娑婆と冥途は程遠し 我を冥途の父母と思うて明け暮れ頼めよ』と。
幼きものを御衣の もすその内にかき入れて 哀れみ給うぞ有り難き。
未だ歩まぬみどり児を 錫杖の柄にとりつかせ 忍辱慈悲の御肌衣に いだき抱えて撫でさすり 哀れみ給うぞありがたき。」
地蔵店長の朗々とした声が消え、店内に凛とした静寂が戻る。
鬼女は、感心したように片眉を上げた。
「さっすが地蔵店長、本物のお地蔵さんは全部覚えてるもんねー。あは、マジリスペクト♪」
彼女は一瞬だけ元の軽い調子で笑ったが、すぐさま律雄の方へと鋭く向き直った。
その金色の瞳には、先程までの遊び心は微塵も残っていない。
「意味は、訳文が書いてあるからわかるよね。今見た映像と、そこに書かれている事が、賽の河原ってやつ。石を積み上げては鬼達に蹴り倒されて、また積み上げる。それが続くんよね。」
鬼女の言葉が、冷たい刃となって律雄の胸に突き刺さる。
律雄は、タブレットに映る石を積む少年の姿と、手元の和讃を交互に見つめ、あまりの残酷さに絶句していた。
「おじいちゃん、さっき理不尽だって言ったけどさ。」
鬼女の声が、地獄の底から響くような低く冷徹な響きを帯びる。
彼女は、店に入ってきた時とは真逆の、恐ろしくも冷たい表情と視線で律雄を射貫いた。
「おじいちゃんが、あの子にした事、盃で観たよね? 若い頃のおじいちゃんがやったことは、理不尽じゃないっての?」
「……っ。」
律雄の喉が、ヒクりと鳴った。
水面で見た自分自身の傲慢な振る舞い、理由もなく子供を殴り、突き飛ばし、精神を磨り潰していたあの暴力的な光景。
それが目の前の「賽の河原」の惨状と重なり、律雄の逃げ道を完全に塞いでいく。
額からは、止まることのない冷や汗がボタボタと折本の上に滴り落ちた。
律雄は、ただ黙って己の罪悪感に押し潰されながら、震える膝を押さえることしか出来なかった。
---
女鬼は、それまでの軽い空気を完全に削ぎ落とし、獲物を追い詰める捕食者のような眼光で律雄を射抜いた。
「そもそもさあ。」
低く、底冷えのする声が食堂の空気を震わせる。
「何であんなことしたん? 正直に言うてみ? 言っとくけど、嘘ついたところで閻魔さんにはお見通しだし、嘘つこうものなら、あーしがそのまま首根っこひっ掴んで、閻魔さんとこに放り込んで舌引っこ抜いてもらうかんね?」
女鬼の金色の瞳が怪しく光り、背後にどす黒いオーラが立ち昇る。
その一睨みに、律雄は心臓を直接掴まれたような衝撃を受け、椅子の上で激しく震え上がった。
歯の根が合わず、カチカチと音を立てながら、律雄は絞り出すように言葉を吐き出した。
「……あの子達が……ちゃんと、やらなかった、から……儂の時代も、そうやって、教育されてきたから……。」
「嘘は言って無いね。そんで?」
女鬼は冷たく先を促す。
律雄は、自身の喉元を抉るような苦しさを感じながら、数十年間心の奥底に封印してきたドロドロとした本音を口にした。
「……全体を、まとめるのに……大声を上げたり、誰かが怒られてるところを見ると、全員が大人しくなって……。そうすれば、集団を管理するのが楽やったんや……。」
「わっかりやすい幼稚なやり方だねー。」
女鬼は心底軽蔑したように、吐き捨てるような勢いで言葉を叩きつけた。
すると、傍らで様子を窺っていたえらいこっちゃ嬢が、台形の口を歪ませて鋭い指摘を飛ばす。
「ちゃんとできてる大人しい子を選んだ理由をまだ言うとらん。そこんとこをごまかしよったら、えらいこっちゃ!」
その言葉は、律雄が最後に守っていた欺瞞の壁を粉々に粉砕した。
女鬼もまた、身を乗り出して律雄の顔を覗き込む。
「だねー。で、何であの子を、今まさに、賽の河原で石を積み上げてる、現世では大人しかった子を選んだん?」
律雄の指先が、カウンターの木目に食い込む。
脂汗が目に入り、視界が滲んだ。
「……見せしめに。」
絶望的な沈黙を破り、律雄は自らの罪を告白した。
「……反発もしないし、親にも言わないだろうから……。あの子を叩けば、周りの連中は恐怖で支配できる。一番抵抗せえへん存在を、ワシは狙ったんや……。」
自身の醜い本性を曝け出し、律雄は絶望の淵で震えていた。
しかし、ふと、先程の女鬼の言葉の棘が胸に突き刺さった。
「あの、『現世では大人しかった子』って……いったい、どういう、意味、で……。」
聞きたくない。
知りたくない。
その先にある真実が、自分のこれまでの人生すべてを否定するものであると予感しながらも、質問を止められなかった。
鬼女は、悲しげに、そして残酷な笑みを浮かべて目を細めた。
「もう、気付いてるよね。さっき、おじいちゃんが言ってたじゃん。『あの世』とか『親より先に死んだ子が』って。つまりさ……。」
女鬼がタブレット端末の画面を指差す。
「あの年の頃に、もうすでに死んでるんよ。だから賽の河原にいるってこと。」
「……っ!」
律雄の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
「つまり、もうわかるよね? その時から、若い頃から今のおじいちゃんの年になるまで、ずっと、ああやって賽の河原で石を積み上げ続けていた事に。」
「あああ……っ!」
律雄は耐えきれず、両手で顔を覆い、すべてを振り払おうと狂ったように首を振った。
自分のたった一度の「指導」という名の暴力が、一人の少年の未来を断絶し、数十年に及ぶ終わりのない苦行へと叩き落としたのだ。
その重すぎる事実に、律雄の精神は崩壊寸前まで追い込まれる。
「何、両手で顔を覆って眼を逸らしてんの?あーし、さっき言ったよね、、ちゃんと見ろって、目を逸らすなって。だからさ……。」
そして、女鬼の瞳が金色に眩く光ると。
「あの子からも自分自身からも眼を逸らすな!」
女鬼の声が、突然、空間を引き裂くような咆哮へと変わった。
その鋭い叫びは、雷鳴のように律雄の脳内に響き渡り、逃げることを許さない。
律雄は思わず、顔を覆っていた両手を力なく下ろした。
眼前のタブレット端末には、いつかの教え子が、無表情で石を積み上げ続けている姿があった。
律雄は、ただ黙って、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、その永遠に続く地獄の光景を見続けるしかなかった。
---
律雄は、絞り出すような掠れた声で、何度も、何度も必死に首を横に振った。
「儂が……あの子を……でも、儂は、逮捕歴とか犯罪歴は無いし、ほんまに、殺してなんかおらん……ほんまや、嘘やない。」
目からは大粒の涙が溢れ出し、カウンターの美しい木目を黒く染めていく。
自分は法を犯したことなど一度もない、社会的に認められた教育者として定年まで勤め上げたのだと、崩れ落ちそうな自己の正当性に必死にしがみついていた。
女鬼は、その醜くも哀れな足掻きを冷徹な、しかしどこか深い悲しみを湛えた瞳で見つめ、静かに告げた。
「直接はやってないよ。それは本当。」
その一言に、律雄の絶望の淵に僅かな希望の光が差したかのように見えた。
「それじゃあ、なんで……。」
「だってあの子は、自ら生命を絶ったからね。おじいちゃんが直接手を下したわけじゃないよ。」
女鬼の声は、凪いだ海のように淡々としていた。
しかし、その事実は、直接的な殺意よりも深く、鋭く、律雄の心臓を抉り取った。
「方法までは言わないよ。ま、言い当てる自信があるなら言ってみな。頷くか首振るかだけしてあげる。」
女鬼は突き放すように、しかし逃げ道を塞ぐように付け加えた。
律雄の脳裏に、真っ白な霧の向こうから、ある凄惨な光景が急速に形を成して迫ってくる。
病院の冷たい廊下で聞いた、娘の律子の泣き叫ぶ声。
孫の律彦が、窓から身を投げたという、あの悪夢のような事実。
「……もしかして、飛び降りて?」
震える唇から漏れ出たその問いに、女鬼は悲しい表情を浮かべ、何も言わずにただ深く、静かに首を縦に振り、大きく頷いた…つまり、肯定。
律雄の心の中で、凄まじい衝撃波が走り、視界が真っ暗に塗り潰された。
雷に打たれたような衝撃と共に、今日、長谷が「復讐」と口にした時のあのどす黒い憎悪の意味を、律雄はついに完全に理解してしまった。
教師となった長谷は、律雄という男がかつて智哉という名のあのおとなしい少年にした、あまりに無神経で理不尽な暴力を、一時も忘れてはいなかったのだ。
自分の目の前で、最も大切な親友だった智哉を絶望の淵へと追いやり、冷たい地面へと叩き落としたあの日の呪いを。
長谷は、律雄にとって最も守るべき、最も愛すべき孫を、かつての智哉と全く同じやり方で、窓から飛び降りるまで精神的に追い詰めた。
あのおとなしい少年の命を、そして未来を奪ったのと同じ地獄を、律雄に味わせるために。
長谷という一人の教え子を、数十年の時を経て、復讐という名の鬼へと変えてしまったのは、他ならぬ自分自身だったのだ。
「ああ……あああ……っ!」
律雄は、もはや言葉にならない絶叫を上げ、顔を両手で覆って激しく崩れ落ちた。
自分が下した、身勝手な「見せしめ」という名の理不尽な暴力が、一人の純真な少年の命を無残に断絶させ、もう一人の少年の魂を復讐という永劫の苦しみへと叩き落とした。
2人の、輝けるはずだった前途ある子供たちの人生を、自らの傲慢な手で泥の中に踏みにじり、取り返しのつかない形で引き裂いてしまった。
その圧倒的な罪の重さに、律雄は子供のように、喉を枯らして号泣した。
女鬼とえらいこっちゃ嬢は、そんな律雄の姿を慰めることもなく、ただただ悲しい表情で見下ろしていた。
食堂の中には、過去の亡霊に苛まれる老人の慟哭だけが、いつまでも、いつまでも虚しく響き渡っていた。
---
律雄は、魂を絞り出すような号泣をひとしきり終えた後、震える膝に力を込めてゆっくりと立ち上がった。
顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、かつての「教育者」としての威厳など微塵も残っていなかったが、その瞳だけは逃れられない過去を直視しようとする強い光を宿していた。
律雄は、カウンターの隣で冷徹なまでの美しさを湛えている女鬼を、真っすぐに見つめた。
「儂は、どうすれば……。あの子に、智哉に、そして長谷に……儂は何ができるんや。」
掠れた声で問いかける律雄に対し、女鬼はそれまでの鬼の形相を消し、打って変わって慈愛に満ちた優しい表情で彼を諭した。
「それこそ、おじいちゃんが自分自身で考え抜いて、苦しみ抜いて、あがき続けて、そのうえで為すべきことと決めた事を成すしかないよ。あーしが答えを授けてあげられないもん。」
女鬼の言葉は、突き放しているようでいて、一人の人間としての責任を律雄に再び背負わせるものだった。
律雄は、自らの震える両手を見つめ、そこに付着した目に見えない血の重みを感じていた。
「儂は……人殺しや。直接、手を下さへんかったとしても……いや、それ以上に卑劣や。自分の手を直接下さないで、自ら生命を絶つまでに追い詰めた……。それなのに、殺人犯として罪には問われへんで、今までのうのうと生きて来た……。最低なじじいや。」
自嘲気味に吐き出された言葉は、律雄の心の底に澱のように溜まっていた自己嫌悪そのものだった。
善人として、尊敬される教師として生きてきた自身の半生が、砂の城のように脆く崩れ去っていく。
「儂は、罪人ですわな。死んだら地獄行き確定ですやろか?」
律雄は、まるで処刑台に立つ囚人のような、縋るような視線を女鬼に送った。
女鬼はふう、と小さく吐息をつき、首を傾げた。
「んー、今のあーしには何とも言えないね。」
彼女は一度言葉を切り、律雄の目を見据えた。
「あーしが1つ言えるお節介は、自身のしでかした事を生涯忘れずに、償い続けるしかないって事かな。ま、おじいちゃん次第って事。」
女鬼は微かに微笑むと、隣で静かに佇んでいた地蔵店長へと視線を向けた。
律雄もつられるようにして、穏やかな笑みを湛えた地蔵店長を見た。
地蔵店長は、柔らかな光を背負っているかのようなお地蔵さん笑顔で、静かに説法を始めた。
「仏教には、『不殺生戒』と言う戒めが御座います。これは、五戒という重要な5つの戒めの一つであり、『殺さない』と言う事です。」
その声は、深く、低く、律雄の荒んだ心に染み渡るような響きを持っていた。
「生きとし生けるもの全てを、殺さない事。現世では、法律によって定められているという理由で、他人様を殺生してはなりません。そして仏様の教えでは、言葉や行いで他人様の身も心も殺害してしまう事もある事から、言葉や威儀、在り方や行動等も戒める教えとして伝えられる事も御座います。」
地蔵店長は、一言一言を噛み締めるように、律雄を諭していく。
「直接手を下さずとも、他人様の心を殺生したり、自身の行いによって生命が消えるという事も起こり得る。その事を忘れずに、己をよくよく顧みながら、己を調えて生きることが、肝要ではないでしょうかねえ。」
優しくも厳しい仏の教え。
それは、律雄が失っていた「誠実さ」を取り戻すための、道標のような言葉だった。
「……はい。」
律雄は、深く、長く、地蔵店長に向かってお辞儀をした。
その背中には、もう逃げ隠れしないという覚悟が、微かに、しかし確かに刻まれていた。
---
律雄は、潤んだ瞳に切実な願いを込めて、隣に座る鬼女を真っ直ぐに見つめた。
「あの、女鬼さん。あの子に……智哉に会いに行く事は出来ませんか?」
震える声で、せめて一言だけでも謝罪を伝えたいと、縋るように懇願する。
しかし、女鬼は金色の瞳を僅かに伏せ、静かに、しかし断固として首を横に振った。
「出来ないねー。現世に生きるおじいちゃんが、死後の世界には行けないからねー。生と死の境界は、そんなに簡単に越えられるもんじゃないし。」
非情な宣告ではあったが、その声には先程までの刺々しさは無く、どこか諭すような温かさが混じっていた。
「だったら自分も死ねば会いに行ける、なんてのは無しだかんね。おじいちゃんに出来る事は、現世でしっかりと生きる事かなー。今のあの子の姿と、地蔵店長の教えを自分自身に刻み込んでね。」
女鬼は、お節介な親族のようにフッと優しく微笑んだ。
自ら命を絶つことで償なったフリをして自己満足を得るという、短絡的な逃げ道を彼女は先んじて塞いだのだ。
律雄は、その言葉の重みを噛み締めるように、深く、重く頷いた。
「……はい。」
律雄は、卓上に残されていた冷凍蜜柑に再び手を伸ばした。
表面を覆っていた氷はすっかり解け、オレンジ色の皮には細かな水滴がびっしりと付いている。
指先を濡らしながら丁寧に皮を剥くと、剥きたての果実の鮮やかな香りがふわりと立ち上がった。
シャクッ、という微かな音を立てて、律雄はその一房を口に運ぶ。
冷たさは残っているものの、氷の膜が消えた蜜柑は驚くほど甘く、そして僅かに苦かった。
最後の一房まで綺麗に食べ終えた律雄は、膝の上で固く拳を握りしめた。
「己の愚かさと、過去の過ちと向き合って、しっかりと償い続ける人生を、これから歩みます。死を迎えるその時まで、ずっと。」
律雄の顔からは、先程までの狼狽や自己嫌悪の影が消え失せていた。
そこにあるのは、憑き物が落ちたような穏やかで、それでいて鋼のような硬い決意を秘めた表情だった。
それは、偽りの善人ではなく、自らの罪を背負って歩き出そうとする一人の人間の顔だった。
ピョンッ!
不意に、えらいこっちゃ嬢が軽やかな身のこなしで隣の椅子に飛び乗った。
「ええ顔になりよった、えらいやっちゃ。」
彼女は台形の口をニッと笑みの形に歪め、小さな手で律雄の白髪混じりの頭を、よしよしとなでてくれる。
「有難うなあ……。」
子供に褒められるという、かつての律雄なら考えもしなかった光景に、彼は目頭を熱くしながら微笑んだ。
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「それじゃあ、御代を。」
律雄が立ち上がり、財布を取り出そうとすると、カウンターの向こうで地蔵店長が静かに手を合わせた。
「当店は、御布施形式にしております。」
お地蔵さんそのままの笑顔で、穏やかにそう告げる。
律雄は少し考え、財布の中から1枚の1万円札を取り出した。
「それじゃあ、これで。これでも足らんくらいですわ。財布にはこれしか入ってへんから、これで勘弁して下さい。」
律雄にとって、それは単なる食事代ではなく、自らの再出発への誓いの証でもあった。
手渡された1万円札を、えらいこっちゃ嬢が両手でしっかりと受け取る。
「毎度あり! えらいこっちゃな大金!」
彼女は元気に叫んで、パタパタと小走りでレジへと向かった。
地蔵店長は、深く合掌してお辞儀をした。
「有難う御座います、確かに、頂戴いたします。」
その笑顔には、律雄の決意を見守る仏のような慈悲が溢れていた。
律雄は、改めて店内にいる3人に向かって、深々と腰を折って頭を下げた。
「有難う御座います。ここに来る事が出来なかったら、己の罪を知らず、愚かなままでした。今も愚かもんやけど、精一杯、成すべきことを成して生き抜いてみせます。」
「うん、しっかりね。」
女鬼がパチンと片目を瞑ってウインクを飛ばし、ひらひらと手を振った。
律雄は最後に一度だけ、タブレットの向こう側にいるであろう教え子に心の中で深く詫び、店の扉へと向かった。
ガラガラ、と引き戸を開け、夜の冷気の中へと踏み出していく律雄。
その少しだけ真っ直ぐになった後ろ姿を、地蔵店長は「御来店、誠に有難う御座います。」と合掌し、どこまでも優しい笑顔で見送り続けた。
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摩訶不思議食堂を後にし、夜道を歩く律雄の足取りは、不思議と軽やかだった。
自宅に帰った律雄は、クローゼットの奥から、現役時代に愛用していた濃紺のスーツを取り出した。
ブラシを丁寧にかけて埃を払い、明日着用するためにハンガーへ吊るして準備を整える。
カチャリ、と静かな部屋にハンガーの音が響く。
律雄は、自分自身のこれまでの不徳を洗い流すかのように深く静かに息を吐き、早めに就寝した。
翌朝、律雄は太陽が昇ると同時に身支度を整え、受話器を握りしめた。
この日は、学校が休みの土曜日。
律雄は、長谷が勤めていた、そして孫の律彦が今も通っている小学校へ連絡を入れると、この日は午前中だけ学校で仕事があった教頭が電話に出た。
「先日、職員室で大声を上げて怒鳴り込んでしまいました、藤原律雄です。あの折は、多大なご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ありませんでした。」
律雄は受話器越しに深く頭を下げ、真摯に謝罪の言葉を述べた。
その上で、元担任である長谷の連絡先を尋ねたが、やはり個人情報の壁に阻まれ、最初は断られてしまう。
しかし、律雄は諦めなかった。
「どうしても、一人の人間として、そして教師の先輩として、彼に伝えなければならない事があるんです。どうか、取り次いでいただけないでしょうか。」
根気強く、何度も何度も頭を下げるようにしてお願いを重ねたところ、学校側もその熱意に押されたのか、長谷本人に連絡を取ってみると約束してくれた。
律雄は、祈るような心地で折り返しの連絡を待った。
数十分後、静かな居間にスマートフォンの着信音が鳴り響く。
学校側からの返答は、長谷が例の2年2組の教室で待っている、というものだった。
律雄はすぐに車を走らせた。
途中で見つけた街の花屋に立ち寄り、昨日、長谷が教室に供えていたのと同じような、清らかな白い花を購入する。
助手席に花束を丁寧に置き、再び小学校へと向かった。
そして小学校の校門をくぐり、車を止めてから、律雄はまず職員室へと向かう。
「藤原です。先日は突然押しかけてしまい、申し訳ありませんませんでした。心よりお詫び申し上げます。」
職員室に入ると同時に、律雄は教職員たちに向かって深く、長く頭を下げた。
教頭は少し驚いたような顔をしたが、律雄の穏やかながらも揺るぎない表情を見て、静かに頷いた。
「長谷さんは、2年2組の教室で待っています。」
「有難う御座います。」
律雄はもう1度、深々と頭を下げた。
職員室を出て、慣れ親しんだはずの校舎の廊下を歩く。
カツ、カツ、と革靴が床を叩く音が、静まり返った廊下に規則正しく響き渡る。
かつて多くの子供たちの未来を背負って歩いたこの道を、今は一人の罪人として、そして償いを誓った一人の人間として歩んでいる。
律雄の足取りは、昨日とは打って変わって、ゆっくりと、しかし一歩一歩が地面を噛みしめるような確かなものだった。
そして、目的の教室、2年2組の扉が視界に入って来た。
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ガラガラ、と重い引き戸を開けると、放課後の教室特有の静寂が律雄を包み込んだ。
窓際の一番前、かつて智哉が座り、今は孫の律彦の指定席となっているその机のすぐそばに、長谷は微動だにせず立っていた。
日に照らされた彼の横顔は、彫刻のように硬く、近づき難い険しさを纏っている。
「まさか、呼び出されるとは思わへんかった。」
振り返った長谷の瞳は、鋭い刃物のように冷たく律雄を睨みつけていた。
「けじめを付けなあかんと思うてな……。」
律雄は震える足を叱咤し、確かな足取りで歩み寄ると、抱えていた白い花束をそっと机の上に置いた。
カタリ、という小さな音が、静まり返った教室に重く響く。
律雄は、そのまま、かつて智哉が使っていたはずの机に向かって深く、深く腰を折った。
「智哉……。大切な人生を、生命を奪ってしもて、誠に申し訳ありませんでした。」
床を見つめる律雄の視界が、涙で急激に滲んでいく。
「……全部、思い出した。何があったのか……正確には、思い出させてもろた……自分の醜態と共に。」
律雄は顔を上げ、逃げることなく長谷を真っすぐに観た。
「ほんまに、教師としてあるまじき……いや、人としてあるまじきことをしてしもた。智哉にも……雅也にも。本当に、申し訳ありませんでした。」
律雄は、かつての教え子である長谷に対しても、魂を込めて深く頭を下げた。
しばしの沈黙が、教室の空気を重く、苦しく停滞させる。
遠くで運動部の掛け声が聞こえるが、この空間だけは時が止まったかのようだった。
「……智哉は、俺がこの教室で殴られた日。つまり、あいつがこの世からいなくなる日、一緒に家に帰ってた時…帰り道で、あいつはこう言ったんよ。」
長谷の声は低く、地を這うような響きを含んでいた。
「あいつ……『殴られてるの、黙って見てて、何も出来なくて、ごめん。』って。なあ、あいつ、何か悪い事したんけ? 力じゃどうやっても敵わん大の大人に殴られてる俺を、あいつが何も出来ひんのは当然の事やんけ。そやのに、あいつがなんであんなに罪を感じとったんや!? なあ!」
怒号が、教室の窓ガラスを震わせた。
長谷は激昂し、律雄の肩を掴まんばかりに身を乗り出す。
「まだ身も心も未成熟な子供に、そんな言葉を吐かせたんやぞ! お前が……お前が理不尽な暴力を振るったせいで、あいつは自分を責めて、死ぬまで苦しんだんや!」
顔を上げた律雄は、息を呑んだ。
目の前にいるのは、かつての教え子の面影を失い、涙を流しながら、復讐という名の業火に焼かれた鬼のような形相で自分を睨みつける、長谷雅也の姿だった。
その瞳には、数十年の時を経ても消えることのない、真っ赤な憎悪が燃え盛っていた。
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長谷は、日に照らされた智哉の机の角を、指先が白くなるほど強く握りしめた。
「……あの後、どうなったか、あんたは知っとるんか?」
その低い声は、地を這うような重苦しさを持って律雄の鼓膜を震わせた。
律雄は、ただ呆然と立ち尽くし、力なく首を横に振る事しか出来なかった。
「俺は、智哉の御両親に全部話した、俺と智哉がされた事。俺の親は、俺がやんちゃ過ぎた事もあって『また雅也があほな事したんやろ。先生の言う事聞かんと、やんちゃばっかするしや、そんなん躾けや』と相手にしてくれへんかった。実際、俺も確かに、当時はかなりやんちゃな悪戯坊主やったなって子供ながらに思うてたから、そこは気にしてへんかった。」
長谷は、吐き捨てるようにそう語った。
窓の外から聞こえる子供達の楽しげな声とは対照的に、教室内の空気は鉛のように重く淀んでいる。
「問題は、智哉や。あいつ、大人しくて真面目で、何されても言い返したりやり返したりせえへんかった。俺も、ちょっと小突いたりしてしもて揶揄ったことはあったけど、流石にちょっと気まずくなって謝ったら、さらっと赦してくれてな。そやから、あいつに対するうしろめたさとか罪悪感が芽生えたし、こいつほんま優しい奴やなって思った。そやから、俺もちゃんとあいつには優しく接するように心がけたら、そっからだんだん仲良くなってな。」
長谷の瞳が、僅かに潤んだように見えた。
「そんなあいつが……飛び降りて亡くなったって聞いた時、なんであいつがって、心の底から叫んだんや!」
ドンッ! と、長谷は感情を爆発させるように机を叩いた。
その乾いた衝撃音が、かつての凄惨な光景を呼び起こすかのように教室に響き渡る。
「そやから、原因は絶対、藤原律雄やって思って、御両親に全部話した。当然、御両親は学校に抗議した。」
長谷の言葉に、律雄は「え?」と驚愕の声を漏らした。
抗議など、当時の自分は一度も耳にした事がなかったのだ。
「でも、あんたは何食わぬ顔で教師のままやった。今やったら体罰で1発アウトのはずやのにな、流石は昭和の時代ってところや。教頭か、それよりもっと前のところでもみ消しよったんやろ。俺、何回も智哉の仏壇に手合わせに行って、そのたびに話聞いてた。学校に何度も抗議したのに……『教育の一環』で、片付けられたって。教育委員会とかの話も一回も出ないし、あんたへのお咎めは何も無しや。」
長谷は、心の底から軽蔑しきったような目で律雄を射抜いた。
「良かったな、定年まで逃げきれて。」
その言葉は、鋭い刃となって律雄の心臓を正確に抉り取った。
自分の知らないところで、握り潰されていた真実。
自分を守るために犠牲にされた、一家族の叫び。
「今、御両親、どうなったか知ってるか?」
長谷の問いに、律雄は震える唇を噛み締め、再び首を横に振る事しか出来ない。
「……大事な我が子を理不尽に失ったショックと、心労がたたったんやろうな……立て続けに、衰弱していって……何年前やろなあ、もう、智哉の御両親は父親も母親もこの世にいてはらへん。智哉とご家族の墓の世話は、俺がお寺さんと相談して、俺がやらしてもろてる。」
律雄は、あまりの残酷な事実に言葉を失い、ただ絶句するしかなかった。
目の前の男が背負ってきた数十年の孤独と、自分が知らずに享受してきた平穏の対比が、あまりにも無慈悲に突きつけられた。
律雄の視界は涙で歪み、長谷の鬼のような形相が、悲しみと怒りに燃える一人の少年の顔と重なって見えた。
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放課後の教室に、二人の重い影を落としている。
律雄は、自らの不徳が招いたあまりにも無惨な結末を前にして、震える声を絞り出した。
「……智哉の、ご家族へのお墓参りを、させてくれへんか?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、長谷の瞳にどす黒い憎悪が再燃した。
彼は、机の角を指が白くなるほど強く握りしめ、律雄を射抜くように睨みつける。
「どの面下げて、会いに行くつもりじゃ。」
低く、地を這うような長谷の声が、静まり返った教室に冷たく響き渡る。
「お前は、あの家族に……智哉に会いに行く資格はない。」
言い放たれた言葉は、一分の隙もない断絶の宣告だった。
律雄は、その言葉の重みに耐えかねるように視線を落とした。
「……返す言葉もあらへん。」
ただ一言、そう絞り出すのが精一杯だった。
しばしの沈黙が、2人の間に流れる。
窓の外で風がヒュウと鳴り、古びた校舎の床がギシリと音を立てた。
長谷は、窓の外の校庭を見つめたまま、自らの心臓を削り出すような口調で語り始めた。
「俺は、あんたの孫にした事については、悪いとも思ってへんし、頭を下げる気も無い。俺はこの復讐の人生に弱点作らん為に、結婚もしてへんし、子供もおらん。俺がお前の孫にしたことを、俺の家族に対して更に復讐しようとしても、物理的に出来ひん。復讐の連鎖を繋ぎたいなら、俺に直接やってみせろや。」
吐き捨てるように告げられたその言葉には、己の人生すべてを復讐の糧として捧げ尽くした男の、凄絶な覚悟が宿っていた。
長谷は、一切の情愛を断ち切り、ただ律雄を地獄へ引きずり下ろすためだけに、この数十年の時を生きてきたのだ。
長谷は、ゆっくりと首を巡らせ、再び律雄の顔を正面から見据えた。
「俺の事、恨んでるか? 孫を飛び降りさせたこと。」
その問いに対し、律雄はゆっくりと顔を上げた。
涙に濡れた瞳には、謝罪だけではない、一人の肉親としての激しい苦悩が混じっていた。
「……正直、その事については、やっぱり赦せへん。大事な孫が、あんな姿になって、雅也に恐怖して……その事については祖父として、1人の家族として抗議する。」
律雄の声は、震えながらも確かな力強さを帯びていた。
孫の律彦が、窓から身を投げた時の衝撃。
その痛みだけは、どれほど自分に罪があろうとも、消し去ることのできない生身の感情だった。
しかし、律雄はそのまま、崩れ落ちるように再び頭を下げた。
「そして……雅也をそこまでの復讐の鬼にしてしもた責任が、儂にある事も自覚しとる。人生を復讐に捧げさせたこと、申し訳なく思う。」
律雄は、目の前の男が失ったであろう「普通」の幸せ、家族との温かな時間、それらすべてを奪った元凶が、かつての自分の無神経な一撃であったことを、今、魂に刻み込んでいた。
「本当に、申し訳ありませんでした。」
律雄は、もう1度、深々と頭を下げた。
その謝罪は、長谷雅也という1人の人間の人生を、どす黒い憎悪で塗り潰してしまった事への、取り返しのつかない後悔の叫びだった。
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放課後の校舎独特の、静まり返った空気の中で、再び長い沈黙の時間が流れる。
やがて、窓の外を見つめていた長谷が、ふっと力なく息を吐き出した。
「正直、意外やった。」
「え?」
律雄が顔を上げると、長谷は嘲笑うような、それでいてどこか拍子抜けしたような複雑な表情でこちらを見ていた。
「あんたが、きちんと思い出すことも。かつての生徒に、ここまで深く頭を下げることもな。昨日のあんたを見て、一生分かり合えることはないと思ってたから。」
律雄は、自身の胸元に手を当て、そこにあるはずのない温もりを思い出した。
「儂の醜すぎる過ちに気づかせてくれて、しっかり叱ってくれる人達がおってな。……人かどうかわからんけど、そういう方々に、色々教えてもろてな。儂がいかに都合のええ記憶だけで自分を飾り立てていたか、思い知らされたんや。」
摩訶不思議食堂の、あの風変わりで、それでいて真っ直ぐな瞳をした面々の顔が脳裏をよぎる。
彼らに出会わなければ、自分は今もなお自身の罪に蓋をしたまま、無垢で優しい元教師のおじいちゃんを気取って生きていたに違いない。
「雅也が律彦にやったことについては、儂はやっぱり1人の家族としてしっかり抗議する。あの子が負った傷は、決して消えるもんやない。……でもな、それと同じくらい、儂は儂のしでかしたことに対して、一生かけて償い続ける事を約束する。あの子……智哉のことも、雅也のことも、死ぬまで忘れんと背負って、償いながら生きていく。」
律雄は、長谷の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
そこにはもう、かつての傲慢な「指導者」の姿はない。
一人の罪深い老人が、最後の良心を振り絞って語る覚悟があった。
「そやから……雅也、もう復讐だけに生きるのは、やめてくれへんか? 復讐のために自分の人生を削り、心を殺し続けるのは、もう終わりにしてくれ。願わくば、雅也の顔に笑顔が戻る人生を歩んでほしい。……どうか、お願いします。」
律雄は、再び深く、深く腰を折った。
自身の人生を台無しにされた長谷に、これ以上の地獄を歩ませたくないという、悲痛な願い。
長谷は、律雄の下げられた頭を、冷めたような、それでいてひどく疲れ切った目で見つめていた。
「……今更やけどな。」
その声は、乾いた砂のようにカサついているように聞こえた。
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「もう2度と会う事はないやろう。」
長谷は、智哉の机からゆっくりと手を離すと、律雄の横を通り抜けるように歩き出した。
コツ、コツ、と静まり返った教室に足音が響く。
「俺も、流石にちょっと疲れてしもた。……誰も知らんところで、一人で生きる。あいつに報告できることなんて、何一つなかったけどな。」
扉の前で、長谷は一度だけ足を止めた。
しかし、決して振り返ることはなかった。
「それじゃあな、藤原さん。」
その言葉を残して、長谷は教室を去っていった。
ガラガラ、と扉が閉まる音が、この悲劇の終わりを告げる断罪の鐘のように聞こえた。
律雄は、その音が止んだ後も、ずっと頭を下げたままでいた。
「……そっか。最後まで、先生とは、呼んでくれんか。儂を教師とは認めたらへんぞっていう事なんやなあ……。」
「藤原さん」という呼び名は、教師と生徒という絆が、あの瞬間に完全に断絶したことを意味していた。
自分は、彼らにとって尊敬すべき恩師にはなれなかったのだ。
「ごめんなあ、ほんまに。雅也、智哉……。」
律雄は、既に誰もいなくなった教室で、去っていった長谷の背中に向けて、そして空の向こうにいるであろう智哉に向けて、何度も何度も、心の底から詫び続けながら頭を下げ続けた。
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律雄は職員室へ戻り、教頭を始めとする教職員たちに、静かに、そして深く丁寧にお礼を告げた。
彼らの怪訝そうな、あるいは同情的な視線を背中に受けながら校舎を後にし、駐車場に停めてあった愛車へと乗り込む。
重いドアが閉まると、車内には一気に濃密な沈黙が立ち込めた。
律雄は、明日にも退院してくる律彦と、その母親である律子に、すべてを打ち明ける覚悟を固めていた。
元凶は、自分にあること。
かつて自分が、教育という名の下に長谷雅也に対して、そしてその親友であった智哉に対して、人道に外れた仕打ちをしたこと。
そして智哉に至っては、自らこの世を去るまで追い詰めてしまったことを、包み隠さず話さなければならない。
彼は、ハンドルを握る自分の節くれだった手を見つめた。
「雅也……智哉……儂、逃げへんから。たとえ孫に嫌われても、真実を話すから。赦してくれとは言わん。一生かけて、真っ当に生きて償い続けるって約束する。」
誰に聞かせるでもないその決意は、祈りのような微かな囁きとなって車内に消えた。
ブルルンッ、とエンジンの震動が律雄の体に伝わり、車はゆっくりと前へと進み出す。
自分のしでかした罪の重さに耐え、一生涯をかけて贖い続ける道。
それは、摩訶不思議食堂で出会ったあの存在たちが教えてくれた、たった一つの、しかし険しい道だった。
そして、校門を抜けようとした、その時だった。
学校の塀の上に、不意に鮮やかな色彩が律雄の視界に飛び込んできた。
そこには、確かに見覚えのある2人の女の子の姿があった。
1人は、黒い着物に金の花の刺繍が夕陽を反射して妖しく光る着物を纏った美少女、女鬼。
2本の鎌状の角が左右に生え、美しい金髪を左側にシュシュでサイドテールにした彼女は、ギャルらしい軽やかな仕草で、笑顔で片手を上げている。
もう1人は、長い銀髪を靡かせてベレー帽を被り、黒いズボンタイプのセーラー服を着た小柄な女の子、えらいこっちゃ嬢。
まん丸な目と台形の口をそのままに、彼女もまた律雄を見守るように立っていた。
2人の女の子は、律雄に向かって、軽やかに手を振ってくれていた。
それは、罪を認めて一歩を踏み出した律雄への、地獄からの、あるいは救済の地からの、最大限のエールのように見えた。
律雄の胸の奥に、言葉では言い表せない温かな熱が込み上げる。
「有難うな、女鬼さん、えらいこっちゃん。そして、摩訶不思議食堂のみなさん。」
律雄は窓越しに、2人の姿が消えるまで、ゆっくりと手を振り返した。
アクセルを踏み込む律雄の表情は、かつての傲慢な教育者でも、怯える老人でもなかった。
ただ自らの罪を背負い、それを一生の業として生き抜こうとする、1人の人間の顔をしていた。
律彦が運転する車は街を真っ直ぐに走り、律彦が待つ病院へと向かっていった。




