処女襲来
はて。ずいぶんと時間が過ぎたような気がする。
それに、なんだろう。忌々しい魔力に満ち触れた魔王という身の上でありながら、まるでやるべきことを終え、長い間、閉じ込められていた鉄柵の檻の中から解き放たれたかのような解放感に包まれていた。
いままで自分の一挙手一投足を誰かに見守られ、注意深く見張られるのが当たり前だったオレの人生において、かつてない自由と充実感が身の内から溢れ出る。
実に不思議な感覚だが、この世の醜いもので埋め立てられたドブ底のニオイ、畳四つ分の狭さが妙にしっくりくるボロアパートの一室の景色。
つまりは、いつもの場所で目覚めたという事実からして、ぽっくり潔く天国に逝けたわけではないらしい。
なんだか重いまぶたをごしごしとやって、もう一度、よおく目を凝らしてみたが、ここがオレとミカの住む隠居部屋であることは間違いなさそうだった。
今朝、例のパンの形をした物体を摂取しようとしたとき、ぽろっとオレの手から逃れて落ちたパンくずたちのザラザラとした感触がダメ押しとばかりに存在している。
ただでさえ、喰う気の失せるマズいものがさらに汚くなった上、食べ物を粗末にするなとミカにも小言を吐かれたからよく覚えているのだ。
「んー・・・」
しかし、だからこそ違和感があった。ありふれた日常の舞台に、いつ誰に殺されるかまで決まっているオレの人生の中で、常に傍らになくてはならないものがひとつ欠けている。
もし、その人間娘が存在していたならば、到底、あるはずのなかったもの。それが布団も敷かずに硬くて冷たくて、他人行儀なかぎりの臭い畳の上でオレと褥を共にしていた。
「・・・およ?」
「ぽよ?」
それは、何の穢れもない神聖で若々しい透き通るような声だった。
しかも、とてつもなく艶めかしい裸の肉体でいる。
造られたかのように整った顔立ちをはじめ、すらりと長く伸びた全身も細身で絞られているが、性的特徴の胸と尻、筋肉との合い挽きである太ももには惜しみなく肉が盛り込まれていて情け容赦がない。
その露骨で無駄のない肉の配置は、オスの玉袋を刺激することを目的として生み出された合理性の人工物を想起させる。
特に、その巨大という域を超越して存在している一対の乳は、天然自然物とはとても思えないほどに膨張して胸部から張り出し、それだけで上半身を隠してしまいそうだった。
この世の言葉では表現できないほどに、異常な発達をした非現実的な代物。胸の筋肉で支えきれない柔らかな肉の半分以上は、液状のように薄く広がって畳の上に置いてある。
並の玉袋持ちなら、これを見た瞬間に発情して精神崩壊を引き起こすだろう。
ただ、そうした性的極まる肉付きも魔族の女だとすれば納得がいく。
彼女の頭には、魔王であるオレの小振りなものとは比べ物にならない角獣のごとく立派なツノが頭の上から生えており、尻のシッポも太く長く、ハートを模した先っぽもはっきりとした形を持っていた。
よりにもよって魔族と姦通したとなれば、あのミカが黙っていない。
だが、いくら魔族でもここまで完成された肉体を持つ女は、そう簡単に見つかるものではないと思うし、さっきから感じている妙な心地良さも現実に存在している。
それが同じ魔族としての相性か、この女の魔力が何か特別なのかは不明だけれど、ぽかんとして見つめることしかできないオレが彼女にすっかり見惚れている事実は、もはや隠し切れるものではなかった。
「・・・お前、誰だよ」
「誰だと思う?」
なんだか、悪意を持って返されているような気がするのは、オレが純粋な心を失ったつまらない魔族になってしまったせいなのか。
オレが何を言っても、ひねくれた答え方をするこの感じ。
本来、ここにいてオレを見張っているはずの誰かさんとよく似ているけれど、そうやって死人の怨念みたいに何でもかんでも重ねて見てしまうのは、オレの心の奥深くに巣食っているトラウマがそうさせるのだ。
十年以上も自分を憎む女が隣にいて、絶えず存在を否定されれば誰だってそうなる。
とにかく、これが夢でなければ、オレは名前も知らない魔族の女と自分の部屋で寝ていたことになるわけで、誰に言われるまでもなく面倒なことになってしまった。
たしか、オレは酒場のトイレにいたはずなのだが、どうやって自分のアパートに戻ってきたのかまるっきり思い出せないのだ。
窓の外を見れば、まだ太陽の輝かしい日の当たりが止まるところを知らない昼の真っ盛りといったところ。
部屋の隅にあるセロハンテープで補修された――やはり中古のガラクタだが、ミカのお気に入りでオレの一存では処分できない――ぼろぼろの目覚まし時計が壊れていなければ、あれから一時間と経っていない。
はてさて。どうしたものだろう。
まあ、これも何かの縁だし、彼女の心の底からくる微笑ましい表情からして記憶喪失のオレが強引に連れ込んだわけでもなさそうだ。
ここは、間違いなく我が家であり、オレが持ちうるかぎりを尽くした一世一代の城。
オレに関する全ては生殺与奪も含めてミカが一手に握っているが、パンを給料として渡されている不甲斐ない女が家賃や生活費を賄えるわけもなく、それらは勝手に没収されたオレの給料によって支払われている。
だから、ここはオレの部屋なのだ。オレは硬い畳のせいで痛む背中をさすりながら、起きて台所に行き、冷蔵庫のお茶を湯のみに酌んで女に手渡した。
「つめた。冷めてんじゃん」
「麦茶だよ」
いわゆる黙っていれば云々という種類の女なのだろうか。せっかく美人で声も綺麗で、あぐらをかいてる体勢でも畳に垂れるほどの超乳の持ち主だというのに、酒でも飲むみたいに茶を一気飲みしたり、言葉遣いの端々からも育ちの悪さが見えてくる。
挙句の果てには、こうして見ず知らずの男の家に簡単に上がり込む。少しは、その生まれ持った美声と肉体を安売りして台無しにしないよう危機感を持つべきだとオレは思う。
とはいえ、よく見たら彼女だけでなくオレも裸でいる。成すべきことが成された後ということで何を言っても手遅れに近い。
全く。こんな不良娘を産んで放置している親の顔が見てみたいものだ。
「で、真面目に誰なんだよ。魔族だって名前ぐらいあるだろ」
「うるせえ。いまさら親ぶってんじゃねえぞ、このジジイ」
「誰がジジイだ、こら。オレはまだぴっちぴちの華の十代だし、オレがいつ、お前みたいな売春婦の親になったんだよ。まあ、子供は山ほどいるけど」
オレがそう言うと、態度こそ反抗的だったものの、彼女は急に神妙な顔になって目を逸らして何も言わなくなった。
どういうことなのだろう。何が何だか分からないことの方が多すぎて、オレも自分の胸の内に不思議な気持ちが湧き起こるのを感じたほどだ。
でも、本当はその正体が何なのか、オレは本能的に理解していた。親心とか父性とか、自分も子供であるオレには早すぎる感情を認めたくなかっただけかもしれない。
まだノド元まで出かかっているそれを無理矢理に飲み込んで、何もかも無かったことにできたかもしれないが、それを先に言われて戻れなくなってしまった。
「・・・アタシは、そのうちのひとりだから。ジジイはジジイだろ、お前は。それに、アタシまだ男とか喰ったことねえし、お前の魔力しか喰ったことねえし。てか処女だし。だから、売春婦とか的外れもいいとこだし」
「ほえ」
「まあいいや。つーわけで、せっかく娘のアタシが会いに来てやったんだから、とりあえずカネくれよ。ここに来るまでに全部、使っちまって一文無しだからさ」
たしかに言われてみれば、どことなく似ている。これを産んだ母親が誰かにもよるが、美人でも口が悪いのはミカ譲りだし、美人で乳が大きいのはタマリ譲りだ。
しかしながら、ある日突然に自分の子供を名乗る女が押しかけてきたかと思えば、カネの無心をしたり、怪しい宗教の勧誘だなんてこの街では茶飯事である。
ここらに住んでいる女は、どいつもこいつも子供から年寄りまで、みんなそうやって自分が生きるために他人を喰い殺してきた動物だ。ついでに、男は搾れば魔力を出す人の形をした牛ぐらいにしか思っていないから、同情の余地など一切ない。
この女がそうでない保証はどこにもなかった。
おまけに、処女の魔族だなんて路地裏の孤児でも言わないウソをつくあたり。正直、お茶まで出したのを後悔しているが、どうやっても死なない魔族の女を力ずくで追い出すのは男のオレの力では難しい。
せいぜい、この女が本当に生娘かどうか、オレが直々に確かめるぐらいであった。