男は気楽で
「忘れものない? 携帯は、サイフは?」
「はいはい」
結局、なんだかんだ手取り足取り、オレの世話をするのがミカという女である。
まるで母親そのものだ。でも、本当の母親じゃない。オレの母親は、百年前の魔王軍にも参加していた筋金入りの大魔族だとミカは言っていた。
そして、オレの母親はミカの母親に倒され、ミカの母親はオレの母親に殺された。後に残されたのは当時まだ三才だったミカと、産まれたてのオレだけ。魔王軍の復活を阻止すべく魔族と戦った決死隊の生存者は、他に誰もいない。
親同士が殺し合って孤児になった子供が二人、手を取り合って生きていくなんて傍から見れば泣かせる話だが。現実問題としては、口を開くたびに憎しみをぶつけられるわけで、なんとも救いようのない悲劇だった。
いままで殺し合っていないのが不思議なぐらいだ。
まあ、魔族はその尋常でない魔力により、どれだけ斬られようが撃たれようがマグマの底に沈めようが死ぬことはない。
魔族は不死身。このたったひとつの事実が大陸文明を滅亡の淵に追いやり、神聖不可侵のエルフ帝国をも滅ぼしたのである。
だから、ミカが憎しみのあまりオレを包丁で刺したとしても問題ない、と言いたいところだが。この世界では、男は魔力の恩恵を得られないという理が存在し、それは魔王であるオレにも例外なく適用されるらしい。
要するに、オレは魔族であっても殺されれば死ぬし、魔族やエルフが使う『魔法』というものを使うこともできない。男は、女に絞られて死ぬだけの存在なのだ。
とはいえ、オレとミカの関係は非常に複雑かつ怪奇であり、オレがただ生きているだけでもミカの感情を逆なでしてしまう。だからといって、はいそうですかと死ねるほどオレは純粋ではないし、余計なことを言わないように黙っていてもミカはひどく機嫌を損ねる。
生後すぐに出会い、ぴったり十五年前後の付き合いだけれど、未だにミカという人間の女のことがオレはよく分からなかった。
「あー、もう・・・あっちい」
「何言ってんの。寒い、の間違いでしょ」
ミカはそう言って上着の襟を立て、いかにも寒そうに身体を震わせている。
ほら、いつもこの調子だ。オレたちは永遠に分かり合えない。きのうの夜も暑かったし、きょうだって太陽の日差しにオレの真っ白い肌が焼かれているというのに。
通りの両側にそびえる掘っ立て小屋の山。下から見る空を覆い尽くさんばかりに、板やら大量の洗濯物がぶら下がっている。その間から差し込む日差しは、真夏のそれと同じぐらい強烈で鋭いものだった。
こんな日に、長袖を二枚を重ねて着込んでいるミカの神経が分からないのだ。
「風、冷たいし。この程度で暑いとか言わないで」
「本気かよ」
「何。文句あんの?」
「いや、別に」
なんだかオレがウソつきみたいになってしまったが、ここで意地を張ったところで、ミカがまた子供みたいに癇癪を起こすだけだ。
それに、ミカの言う通り、通りから通りへと吹きつける風は確かな冷気を帯びていた。夏も迫っているが、その前に梅雨の季節がやってくるし、いまも暑い日と寒い日が気まぐれに襲い来る厄介な時期なのである。
はあ。と、オレは思わせぶりに大きなため息をついた。
それから、早朝の人混みを避けて通りを歩き出すと、それに合わせてミカも後ろをついてくる。ちょうどオレの三歩後ろ。こっちが立ち止まるとミカも止まり、逆に歩けば向こうもあとを追ってくるのだ。
正直、もう魔王も何も関係ないと思うのだけれど、一日五回もエルフの聖地がある北を向いて祈りを捧げるミカにとっては重要であり続けているのだろう。
エルフ族が何世紀もかけて築いた秩序が百年前に滅びた後、表向き、すべての種族は独立して大陸にそれぞれの国家を興した。
イマドキ、エルフの教えを信じるだなんて鼻で笑われてもおかしくないが、そこのミカと同じ類が少なからずいるのも確かである。
もちろん、それを言うとミカがまた難しい顔をして睨みつけてくるから、さすがのオレも口には出さない。
これが百年前なら、色白でツノとシッポを持つ魔族というだけで、街中で斬りかかられたかもしれないが。ここは、北のエルフ領と国境を接する人間の国の中にある町。いまだってエルフの悪口を酒場のノリで軽々しく言えば、あとでどうなるか分かったものではないのだ。
そうして大通りまで歩いて出た後、エルフだの仕事だのと嫌なことを思い出さなくて済むように、オレはちょうどいい日陰を見つけて腰を下ろした。
道行く人間やら獣人やらの汗臭いのが伝わるほど、どこの通りも人でごった返している。まだ朝だっていうのに、玉袋の魔力を求めて、ほとんど何も着ていない魔族の女たちが通りかかる男を子供から年寄りまで熱心に誘って口説いている有様だ。
もっと綺麗な普通の街ならともかく、領主もいなければ衛兵もいない無法地帯であるこのスラム街では、ごくごくありふれた光景であった。
物心つく前から、ミカとこの町に身を潜めているせいでオレは故郷のように感じるが。ここに住むと決めた張本人のミカは、特に魔族を視界に捉えるたびに、その嫌悪感を一切隠そうとはしない。
いまに始まったことではないけれど、やはり苦労しているようだった。
「ワタシたちの会社、もう少し先にあるんじゃなかった?」
「歩くの疲れたから休憩。ていうか、ウチの会社って歩合制だからさ。朝の六時に行こうが七時に行こうが変わんなくない?」
「早く行かないと、他の人に仕事取られるでしょ。最近、ただでさえ単価下がってきてるんだから、少しでも多く稼がないと。北に寄付する分だってあるし」
ミカにそう言われて、今度はオレが露骨にしかめっ面をする番だった。
「はあ。出たよ。あのさ、いつまでそうやってエルフに・・・」
うっかりオレが『エ』から始まる名前を口にしてしまい、とっさにミカがオレの口に手を押し当てて黙らせた。というより、オレの口の中にミカの手のひらが半分以上もねじ込まれ、物理的に舌を掴まれているわけだが。
恐る恐る、二人して横目で周りを窺ってみても、オレたちのことを気にする輩なんてひとりも見当たらない。朝の人混みの喧騒に上手く紛れたらしかった。
「で、一応聞くけど、何か言いたいことでもあった?」
「あるよ。これ、前にも言ったかもしんないけど、なんであんな耳長のヤツらにカネなんか払わないといけないんだよ。仕事の給料ってのは、オレたちが稼いだもんだろ。親の仕送りじゃねぇんだぞ。ったく」
オレは他の誰でもないエルフの奴隷であるミカに向かって、耳長族とも呼ばれるエルフへの恨み辛みを吐き捨ててみせた。
しかし、ミカはこれといって動じることもない。ちらと視線を落とし、足元を手で少し払ってから、そっとオレの隣に腰を下ろして静かにしている。
てっきり、小言のひとつやふたつ、そのまま口先だけでオレを殺しにかかるぐらい冷たく言い放ってくるかと覚悟していたのだが。しばらくの間、ミカはここ数日で一番といっていい澄み切った、それでいて穏やかな表情で静かに目を閉じていた。
「・・・いいよね、あんたは男だから。気楽で」
おもむろに口を開いたミカは、いたって落ち着きながらもオレを鋭く睨みつけた。
これが怖いのだ。何年、一緒にいても慣れることはない。いつ見ても、ミカの眼は薄く濁っていて生気というものが感じられず、声もどこか機械じみている。
ミカは、決して癒えることのない憎しみや孤独を燃料とし、支配種族であるエルフに命じられて動く人形のよう。それがじっとオレを見つめているものだから、そのうち寒気がして、暑いときの汗と変な汗が混じってオレの精神まで重くした。
「あんたさ、ワタシがいままで産んだ赤ちゃん。いま、どこで何してるんだろうとかって考えたこと一度でもある?」
「あるよ」
「・・・へえ」
オレが躊躇うことなく答えると、どういうわけか、ミカはさらに落ち込んでオレの顔も見なくなってしまった。
まあ、そうだろう。魔族の魔力はエルフよりも強力であり、片親が魔族なら、産まれてくるのは魔族の子供と相場が決まっている。人並みの人生など最初からあり得ない。ミカもどれだけ魔族を憎悪していようと、それが自分の産んだ子供であれば、母親として罪悪感を持つのは当然のことだ。
しかも、オレたちの場合、ミカが産んだ子供は一匹残らずエルフに引き渡している。オレという魔王の子供が珍しいのか、単純に子供の魔力が目的かは知らないが、それもミカの一族とエルフの間にある契約のひとつらしい。
たとえ相手が魔族じゃなくとも、エルフが昔から異種族を実験台にして、非人道的な行いのかぎりを尽くしてきたのは歴史が証明している。
だが、結局のところ、ミカは肝心なところでいつも黙り込んでしまう。ミカがいまさらになって交尾を拒むのは、もう子供を捨てるような経験に耐えられないのかもしれない。
こればっかりは、女にして母親であるミカが決めること。でも、ミカは何も言わない。だから、オレも何も聞かないのだ。